澤村大学には男子があるのだが、継嗣は養子(松井二平次・嫡男)の友好である。
先にも書いたが、大木土佐の息・織部の召出しについて、澤村大学・吉重の男子・湘雲守沅が関わっていたことが判る。
その湘雲守沅(8-51)(10-553)について、日本近世史料・細川家史料の人名索引は次のように紹介している。
東福寺塔頭靈雲(不二)庵第七世庵主。諱は守沅、號は湘雲(或は湘雪か)。細川家臣澤村氏の子。幼くして集雲守藤の弟子となり、法を嗣ぎ、
守藤歿後靈雲庵主となる。忠利・光尚と交誼を結ぶ。寛文八年十月十八日歿。年八一。(棘林志)
このことからすると、湘雲守沅の生まれは天正十六年(1588)という事になる。
父・吉重は「澤村大學介覺書」によると、三齋公より三歳年上であるとしているから、永禄三年(1560)の生まれである。吉重28歳の時の子である。
なぜ嫡男を仏門に入れたのであろうか。
二代目友好(松井二平次・嫡男)を養嗣子として迎え入れるのは、肥後入国の翌年(寛永十年)だとする。江戸定府であった為忠利に御供し帰国、島原陣にて首二つの活躍をしている。婿養子なのかどうか先祖附からは伺えない。これは菩提寺である成道寺に御聞きすれば判るかも知れない。今後の課題としたい。
三代目友雅は友好の嫡男、貞享二年八月閉門となり、知行を召し上げられているのだが、このことについて先祖附はその詳細については触れていない。
かすかなヒントが、「肥後先哲偉蹟」の木村秋山の項に伺える。木村秋山は半平豊持、綱利代家老職を勤めている。綱利隠居を進言したとされる人である。
妙応院様御代、澤村衛士様御物頭御妹の儀に付、世上専沙汰に及候、御役儀御勤成され難く、御断仰上て、御知行御屋敷差上られ候段、御
内存の趣、松井求馬様迄仰達せられ、御病気の由にて、御引込在られ候段、御家老中様より、於江戸坂崎忠左衛門様、松月院様(秋山)へ、御
連名の御状を以て、御内意仰越候處、右の筋至て難相済御事に付、御知行召上ら■候御様子に候處、松月院様御格別なる御取成有之、難有
次第思召候由、求馬様より松月院様へ、御状を以て仰越され、衛士様よりも御禮状差越され候事
知行召上・閉門という事態に及んだ御妹の事件とは如何なるものであったのか、資料を見つけ出せないでいる。
名門澤村家は枝葉を広げ多家に及んでいる。
+---湘雲守沅
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大学吉重---+===友好---+---友雅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→11,000石 沢村衛士家
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+---友久・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 500石 沢村宇平家
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+==友秋(吉重弟・九兵衛嫡孫)---+---権兵衛・・・・・・・・・・・→ 700石 沢村半之助家
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| +---主膳・・・・・・・・・・・・→ 1,400石 沢村才喜家
+---友貴
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+---武兵衛