金を強要されたおきくは、竹ながし(金)二本(計・十五両=300万円?)を与え、更に与えるから藤堂高虎の陳へ連れ行くよう頼んでいる。
そんな中常高院(淀殿妹・初)に出会いこちらに御供することになった。
なぜ藤堂高虎の名前が出てきたのか。きくの親は茂左衛門、その親は茂介といい浅井長政の家臣であった。この茂左衛門が高虎の客分で三百石を頂戴していたという。その故は、高虎が貧にありしとき、茂介の妻がたびたび茶漬けなどを高虎に振舞い、その恩によりての事であった。茂介は浅井家では千二百石を頂戴していたという。きくが高虎の陳を訪ねようとしたのは、父・茂左衛門がそこに居たのであろうか。日記の中ではその事には触れられていない。
藤堂家は在地の小領主であったが没落し農民まで身を落としたらしい。高虎は浅井氏に足軽として仕え高名を上げたりしているが、浅井氏没落後は主を替え転々と流浪している。上の話は高虎が浅井氏の足軽時代のものであろう。その後天正四年(1576)高虎は、豊臣秀吉の弟・秀長に仕えてから力を発揮して名を成している。
大坂城落城の元和元年(1615)、高虎は徳川方にあって八尾の戦いで長宗我部盛親と戦い、戦功により32万石に加増された。
この戦いに於いて600人に及ぶ死傷者が出たとされるが、おきくの父・茂左衛門は如何であったろうか。