豊国神社唐門
「おきく物語」をよみ、大坂の陣と細川家を考えるなかで、豊臣家の没落の様に触れているとあまりに無慈悲な徳川の仕打ちに驚かされる。
大坂城落城後二か月を経ずして沙汰された豊国廟の破却の命である。
元和元年七月十日家康の発したその内容は厳しいものであった。
・豊国神社は本殿はじめ社頭一円を全て破却する。
・豊国大明神の神号をはく奪する。国泰院俊山雲龍大居士と称しめる。
・阿弥陀ヶ峰の秀吉の廟墓を掘り起し、方広寺裏手に移して仏法により供養する。
その他豊国神社の社領及び神官の知行を召し上げ、方広寺大仏殿住職の職を解くなど徹底した措置が取られた。
しかしながら秀吉の正室・北政所の哀訴によって廟墓の移転や本殿の破却は免れている。北政所は豊国神社は「崩れるままでよい」とまでも云っている。そんななか方広寺大仏殿の住職に成った門跡寺妙法院の手により、神宮寺や豊国神社の社殿などが取り壊された。豊国廟の参道は新たな建物の建設(新日吉神社)により塞がれてしまった。誠に陰湿なしようである。徳川家による直接的な破却ではないが、金地院崇伝や京都所司代・板倉勝重の意を含んだものであったのだろう。
そんな中家康は亡くなるのである。
明治に至り天皇の豊国神社再興の沙汰があり、京都・大坂で激しい誘致合戦がおこる。京都に於いては元和元年十二月以来、妙法院によって参道をふさぐ新日吉神社の移転を巡り、妙法院が法外な移転費用を要求するなど予算的に難儀をきたした。明治三十一年三月三十日新たな廟墓や社殿などの竣工式が執り行われた。その喜びは阿弥陀ヶ峰の地に満々、多くの人々が参詣したという。多くの神社仏閣もこれを共に祝ったが、妙法院もさすがにこれらにならっている。現在これらの地を地図でながめると、長い時間をへた確執を複雑な気持ちで思い起こさせる。ひとり妙法院の仕業ではなかろうことは目に見えている。