津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

解禁はいつ・・・?

2014-01-21 20:58:31 | 歴史

                    日テレ、細川元首相出演の特番を放送延期 都知事選出馬で

日本テレビは21日、元首相の細川護熙氏が東京都知事選挙への出馬を表明したことを受け、1月31日に放送を予定していた特別番組「封印された細川家の秘宝~信長59通の手紙を解読せよ」の放送延期を発表した。 
同番組は、歌舞伎俳優の市川海老蔵が司会を務め、肥後細川家に伝わる古文書を解読し、隠された真実を解き明かしていく歴史ミステリー。細川氏は細川家の第18代当主として番組に出演した。                                                                                    [シネマトゥデイ芸能ニュース]から

                                                                      

                                           http://www.asahi.com/articles/ASG1P5S6WG1PUCVL01F.html?iref=comtop_list_pol_n02

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お安く読む・中公新書「歳時記百話 - 季を生きる」

2014-01-21 17:32:19 | 書籍・読書
       歳時記百話 - 季を生きる (中公新書)
 
            中央公論新社

内容説明

歳時記は俳句を詠む人だけのものではない。季節を知り、人生を生き抜くため、私たちが祖先から受け継いできた知恵が詰まっている。すべての日本人の心情と生活の原点なのだ。本書では四季を彩る花々を中心に、雲雀などの鳥、薫風などの気象、涅槃会や酉の市など年中行事、そして芭蕉忌に至るまで、一年の折々にあらわれる豊富な事物を、古今東西の句歌詩文を通して味わう。巻末に俳人・宇多喜代子氏との対談を収録。

目次

春(早春賦;東風 ほか)
夏(葵祭;薔薇 ほか)
秋(終戦忌;震災忌 ほか)
冬(神無月;酉の市 ほか)
新年(初茜;初春 ほか)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

難儀やな・・・・

2014-01-21 14:00:05 | 徒然

                                                   大寒や 難儀の腰の痛みかな   津々

 熊本はここ十日間ほど早朝の気温が0℃から-2℃と冷え込みが続いている。勢い寝ていても布団を引っ張り上げたり、寝返りを打ったりと動きがでてくるのだが、ぎっくり腰の私にとっては地獄の朝である。今日も今日とて寝返りを打つたびに激痛、起き上がるのにもベッドから降りるのにも難儀する有様である。
こんな具合だから運動もままならず、正月から1キロほど体重が増えてしまった。

最近「体幹」という言葉をよく聞くが、体幹が弱るとギックリ腰に成ったりするケースが増えるといわれる。
私くらいの年齢に成ると、だんだん筋肉量も減り体幹も弱っているのは間違いない。腰が「ぎくっ」と来るときはまさしく体の芯がずれるような体勢の時である。
まっすぐ立っていたり、姿勢よく歩いたり椅子に座っている分には痛みが来ないことからもよく判る。
少し外に出て歩いてみようかとも思うが、ちょっと躊躇している。大寒の真っ只中無理をすることも有るまい。
相変わらず血圧は下がらないし、体重も一向に減らない。暖かく成ったら体幹を鍛えるためにも、少々運動を始めなければならない。
もっともギックリ腰が落ち着いての上のことである。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂の陣の細川家 ・二(高名)

2014-01-21 10:24:26 | 歴史

大坂夏の陣・冬の陣における細川家の活躍は、忠興にとっては必ずしも納得いくものではなかったろう。
夏の陣に於いては出陣早々講和がなされ12,000の軍勢は早々に撤退する。
冬の陣に於いては出陣はしたものの資金不足で海路を行くことがならず、陸路備前に於いて大坂城落城の報がもたらされた。
忠興は藤堂高虎軍に在って、藤堂軍が敗走する中、わずかながらの手勢ながらも活躍をみせている。 

槍つき候衆、一番七助(清田乗栄)、二番縫殿助(村上景則)、藪三左衛門(政三)、佐藤伝右衛門、佐方与左衛門(友信)、吉住半四郎(正景)、續少助(重友)
一又其後大崩に成候処、右近(松井昌永)一人取て返し候処に、酒井左衛門(家次)殿も被見へ候、又酒井左衛門小姓も右近と返し、中程に而にけ、又
  右近を傍へ返し候つる由にて筈を取申候刻、右近ハ甲共に頭を取申候事
一七助鑓ハ先を突まけ申候、伝右衛門も鑓二本之先つきまけ申候事
一首二亀之助(続重政)、首二主水(乃美景嘉)、首一加々山半兵衛、首一朽木与五郎(友綱)、首三主水内之者取候事

清田七助は後に石見を名乗った。妹が忠興の側室・圓光院である。ちょうどこの時期圓光院は妊娠しており、七月十五日豊前小倉で四男(東方立允・中務大輔立孝)を生んだ。高名を挙げた七助は後には忠利付となった。天草島原の乱に於いても出陣し、疵を負った。

村上縫殿助はその後も忠興の側近として活躍する。一万石を拝領し忠興が八代に入ったのち家老職を務める。忠興の没後は大徳寺に遺骨を納めるなどした後離国している。本藩との確執が諸資料から伺われる。

藪三左衛門は細川家に於いて一万二千石を拝領していた藪内匠の三男である。のち三左衛門は細川家を離れている。

               +--大隈    +--右衛門==丹左衛門---兵左衛門---丹左衛門---源太---隼之允 (九十郎家)

               |       |
      藪伊賀守----内匠--+--図書--------+--図書------三左衛門----右膳----弥次右衛門----内蔵允 
(一家)
               |       |
               +--三左衛門  +--熊之允(御暇)
               | (紀州藪家)|
               |       +--丹左衛門(兄・左衛門養子)
               |
               |       +--源太左衛門(男子なく断絶)
               |       |
               +--市正--------+--惣左衛門----弥次左衛門----久左衛門----+--市太郎  
(市太郎家)
                       |              (槙庵)  | (槐堂)
                       |                    |
                       |                    +--茂次郎  
(小吉郎家)
                       +--権左衛門(男子なく断絶)         (孤山)
 

佐藤伝右衛門     調査中

佐方与左衛門(友信)佐方家は丹後以来の家であり、幽齋公の田邊城籠城に際しても活躍した。

          佐方庄左衛門弟也、今度の働二付而、忠興君に被召出、御知行弐百石被下候、大阪
          陳之時鑓を合、組討の高名有、為御褒美、御加増五百石被下、其後三百石被下、都合
          千石ニ被仰付候、中務殿江被成御附、宇土にて病死   (綿考輯録・巻五)

          (大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
              知行五百石御加増・本知弐百石
 御馬栗毛四半差物御免
              鑓を合、組討ニ首一討取 右之眉疵一ヶ所被る   (綿考輯録・巻十九)

              (1)三斎様御付中津ニ相詰候衆 七百石 丹後  (於豊前小倉御侍帳)
              (2)千石 (八代分領侍帳・正保二年十二月) 

吉住半四郎(正景)田邊城に篭城した吉住庵清の子である。
          (大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
              知行三百石御加増 鑓を合、高名ハ無之  其後も御加増、都合六百石、
              佐方与左衛門敵を突倒し、谷の道へ組て落、与左衛門ハ敵の上ニ居候を、
              助太刀して其首を御前ニ持参候段申上候、御穿鑿之上、与左衛門鑓下之
              首ニ落着                       (綿考輯録・巻十九)
           元和八年正月廿一日 三齋公より忠利公江之御書
              江戸御屋敷(愛宕之下御屋敷)の作事について
              其地我等新屋敷作事之儀ニ付、吉住半四郎下候間申候 (以下略)
                                           (綿考輯録・巻二十一) 

             (1)三斎様御付中津ニ相詰候衆 丹後・四百石 (於豊前小倉御侍帳)・・半四郎 
             (2)御留守居衆 六百石
               寛永十二年九月~正保二年閏五月(病死)熊本町奉行、寺社奉行兼

續少助(重友)この戦に於いて首二をあげた續亀介の嫡男である。
           
          
(大阪御陳)手ニ合候者--七月朔日御饗応、御褒美被下候
              知行三百石御加増 鑓を合、高名は無之
              本知三百石此時三百石御加増、其後又加増ニて、八百石ニ成、御小姓頭、
              御側筒十五丁御預、御奉行役色々被召仕、其後御隠居之節、直ニ相勤居
              候処、御前を損し、御知行被召上候、亀之助病死後、忠利君より御断被仰
              上、亀之助上知之内八百石拝領、其後御小姓頭被仰付、江戸御供ニて罷
              登、江戸ニ而病死・・・              (綿考輯録-巻十九)  

                          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする