田中左兵衛という人物が在る。柳川城主・田中吉政の弟・兵庫助氏次の養嗣子である。兵庫助は兄吉政とは馬が合わなかったらしく、方々を流浪して豊前にて忠興に1,000石鉄炮頭として召し出された。後に1,000石を加増されて番頭となった。
左兵衛は島原の乱にての幻の一番乗りとして有名な人物である。細川家は左兵衛の一番乗りを確認したが、幕府のほうではこれが確認されておらず益田弥一右衛門をして一番乗りとした。細川家は左兵衛の無念を思い、忠利・光尚・綱利三代に渡り加増等で手厚く応えた。初代の熊本城城代としても遇している。さてこの左兵衛旧名を佐久間忠助という。長い間この佐久間氏について調べてきたが判明しないまま今日に至った。
与左衛門・氏次(柳川藩主田中吉政弟 兵庫助)
(1)留守居組 千石(一書ニ御鉄炮二十五挺頭) (於豊前小倉御侍帳)・・兵庫
消息:寛文三年正月(元旦)忠利惣奉行ニ改名ヲ命ズ 「日帳」
(浅山)清右衛門・(田中氏次)與左衛門も、明日名をかハり可申旨、小谷忠二郎
を被仰出、則清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成旨由申上候也
(福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・一)
(2)御鉄炮頭衆 千石 (肥後御入国宿割帳)・・兵庫
(3)千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・兵庫
豊前にて忠興に召出され千石、鉄炮頭 加増千石、番頭 慶安二年没
左兵衛・氏久(養子 初・佐久間忠助 隠居後宗白)
元和七年、中小姓・光尚付 寛永八年新知百五十石、島原陣後加増五百石
同十八年加増五百石、小姓頭 正保元年加増千石 都合二千百五十石
肥後藩初の城代職 後加増二千石、都合四千五百石 延宝四年正月致仕
幻の一番乗り(実質一番乗であったが公儀では益田弥一右衛門をして一番乗りとした。
光尚の遺言に依り綱利代二千石加増)
*原城にて武功の面々御褒美被下候 寛永十五年五月七日於御花畑--御陣刀
*原城にて武功の面々御褒美被下候(肥後様衆)寛永十五年九月朔日
黄金壱枚小袖二、羽織一 (綿考輯録・巻四十九)
*原城にて武功被賞 二千石
内本知百五十石なり、前ニ御褒美之所にも出、有馬之働為御褒美、二千石二成
後又二千石御加増、二十七日之所二委出 (綿考輯録・巻五十)
(1)歩小姓 百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御六様衆 百五十石
(3)二千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(4)御留守居衆・与頭 四千百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
慶安元年十二月~延宝四年一月(隠居)城代
*封事・・・諫言之覚 上妻文庫84所
インターネットとは誠に有り難いものである。広島県在住の佐久間様からご連絡をいただき、御家の系図に細川家家臣となった左兵衛についての記述がある事のご連絡を頂戴した。毛利輝元の臣に三郎左衛門成る人物がおり、男子三人の内、嫡男・玄蕃が長州へお供した。この玄蕃に三人の男子が居り嫡男は伯父・又兵衛(三郎左衛門・次弟 佐伯郡惣庄屋)の養子と成った。あとの男子(左兵衛・松斎)二人は別腹の子とあり生母は継室でもあったろうか。
左兵衛の生母は肥後の出身だとされる。この人が田中与左衛門(兵庫助氏次)の継室に成った。与左衛門には男子が無かったため、左兵衛を養嗣子となした。左兵衛・松斎ともに細川家に仕官することになるが、松齋については詳細が判明しない。
左兵衛は毛利家のお墓がある東光寺に墓地があるという。(熊本では養子は実家の方の墓地に埋葬する)
広島の佐久間家の祖は佐久間玄蕃允とある。二代ほど名前が欠落しており、三郎左衛門は玄蕃允の三代孫になるという。(時代的に疑問も有る)
佐久間玄蕃允とは佐久間盛政であろうと思われるが、確定的資料が無い。
盛政の一族が毛利に至ったことが資料として存在すればよいのだが、佐久間家御自身が随分調べられたが未だ判明しないらしい。
貴重な情報を得て、左兵衛(佐久間忠助)の長年の謎が判明した。それと共に玄蕃允殿の事が改めての疑問として浮上してきた。