津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

驚き

2014-01-15 18:47:06 | 徒然

 今年初めての史談会例会(18日)に於いては、「おきく物語」を取り上げることで準備を進めてきた。

実は今日居間に於いているTVが映らなくなった。B-CASカードの不具合化と思いカスタマーセンターに電話をしてやり取りする中で、どうやらTV本体がだめになっているらしいことが判った。ならばと小さなTVを持ってきたが、画面が小さくてなんとなく落ち着かない。
さて今日はどんな番組があるのかと番組表を見たら、22:00から歴史秘話ヒストリア「大坂城落城 その時おんなたちは!?~侍女・おきく」とある。
「えーつ、おきく物語だ・・・・・」と絶句、喜ぶべきか悲しむべきか・・・・・・・・

まずは録画をセッティングする。まずは拝見して18日はどうするかを考えようと思っている。
多分皆さん御覧に成る事だろうから、当日下手な解説もいかがかと思うし・・・・えらいことになってしまった。

 

 

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「おきく物語」 余話

2014-01-15 07:34:57 | 史料

 ・天樹院
     秀忠女・千姫、豊臣秀頼室。おきく物語では天樹院の「おびんそぎ」の様子を、おきくが見たことが記されている。
     ウヒキペディアでは千姫16歳の頃だと記している。千姫の誕生は慶長二年であり、おきくは慶長元年で一歳年上である。おきくは17歳の頃にす
     でに大阪城中に居たことが判る。

 ・山里(曲輪)
     秀頼公よど殿、そのほか大蔵卿おもだち候つぼね中ハみな山里へまいられ候て、御本丸には無御座候。其義はや落城二三日まへより然ゆゑ御
         生死のほどいかゞと申候由に候
         
                                     

                            「特別史跡大坂城跡発掘調査の現場を一般公開」にあたっての報道資料から

                                                        豊臣期の天守の位置が現在と違っている。

     この文章によると秀頼は母公や大蔵卿などと共に落城の二三日前から山里曲輪(山里丸)に移っていたことが判る。
     記録によると、天守閣が炎上した翌日の5月8日、秀頼が淀君とともに山里丸の焼け残った櫓(やぐら)にこもって自刃したと記録されている。
     いまその場所は小さな石碑で示されている。 

 ・郡主馬首良列の女子が藤堂家一族の藤堂良以という人物に嫁していた。
     藤堂良以(将監)。実名は嘉以とも。藤堂玄蕃良政(高虎従兄弟)の次男。慶長六年、家康に拝謁、その手に属す。同八年、祖父・良直が家康より
     隠居料として与えられていた二千石を給される。慶長十九年、大坂冬の陣には高虎に属して出陣、翌、元和元年の夏の陣には水野日向守勝成
     に属して出陣した。寛永五年七月二十四日、死去。四十歳。室は郡 主馬良列の女。後妻は松倉豊後守重正の女。子孫も幕府に仕えた。

         つまりは、細川忠興と藤堂良以は相聟だというはなし・・・・・・ 

 

                      

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