本日当ブログの閲覧が300万アクセスを越え、又訪問者数も55万を超える数字と成りました。
2004.7.24に現在のブログを立ち上げて以来、9年半皆様に暖かいお力添えをいただきながらここまで参りました。
誠に有り難く御礼を申し上げます。2020年を一つの目標として、サイトの充実を図りながら邁進していこうと思います。
今後ともよろしくお願いを申し上げます。
津々堂 敬白
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津々堂 敬白
1月28日、興津九郎兵衛一友がおこした事件として「法華坂のこと・・・」を書いた。
九郎兵衛が島原の乱で戦死した後、興津家を継いだのが後に忠興公に殉死した次弟興津弥五右衛門である。
三弟作太夫景行は別禄にて召し出されて活躍したが、弥五太夫の代に絶家した。
四男が四郎右衛門だがこの人は、弥五右衛門景一の後妻の連れ子である。大坂夏の陣に於いて忠興に従ったが、行賞に不満があったのか辞退したので追放となった。母方の姓・寺本氏を名乗り、伊勢亀山の本多下総守俊次につかえた。
寛永十四年秋天草島原の乱が勃発、目付の優柔不断が状況を悪化させる。幕府に於いては九州の大名の行動に対して懐疑的になっていく。家光に召し出された忠利は弁明を行うとともに、遠く離れた島原の地の戦いがどうなっているかに胸を騒がせながら、幕閣の要人にその胸中を語っている。一月一日、上使・板倉内膳は強引な戦を仕掛け戦死する。その事はすぐさま江戸へ伝えられ家光の怒りを買うことに成る。十二日に成り忠利に対しても帰国の命が下されその日のうちに留守居を残し、江戸詰めの士はそれぞれに帰国の途につく。
九州の大名衆にも同様の命が下され前日江戸を離れた。忠利はわずかの供をつれて、日に日をついで肥後を目指した。
寺本(興津)四郎右衛門は忠利の為に、多くの馬を準備していた。黒田家などに一歩遅れて江戸を立った一行は、この四郎右衛門の働きでその遅れを取り戻し島原の地に入る事に成る。
新たに派遣された松平伊豆守信綱は、肥大化し堅く守られた城を見て、驚きを隠せないでいる。城攻めを強行すれば多くの犠牲者が出ることを察した伊豆守は「干殺し」にするに戦術の転換を行う。
1月27日、細川家の仕寄りは諸手より四五日早く進み、他の衆との歩調を合わせるべく数日休むことに成る。 そんな中細川勢の中から、敵の昇りを奪ってくるものや、首一を挙げてくる者もいた。2月27日一気に大勢を決する攻撃が始まる。原城の地は数万の人々の犠牲をへて静まっていくことに成る。
寺本四郎右衛門の子四郎兵衛が改めて細川家に召し出されて姓も興津に改めることに成る。