おきく物語は「田中意徳 池田侯医也 祖母は、大さかにて、よど(淀)殿につかへし人にて、名をきくとぞいひける」という文章で始まっている。すなわちおきくなる女性の孫が意徳である。
熊本に於いても田中意徳なる人物が在り、この人は細川忠利の幼いころの勉学の友であり、忠利の死に当たり殉死している。
名前をもっておきく物語の主人公・おきくの孫と混同されるが、これはまったくの同名異人である。
おきくは大坂落城(元和元年・1615)の時二十歳であり八十三歳でなくなったと物語は記していおり、これからすると生年は慶長元年(1596)であろう。
一方細川藩士・田中意徳は、寛永十八年(1641)忠利が亡くなり殉死したときは六十三歳であった。逆算すると生年は天正七年(1579)となる。
おきく物語の田中意徳は細川家藩士・田中意徳では成り立たない話である。
■池田家田中意徳のこと
この人物については現在お仕事の関係で和歌山にお出でのTK様から、委しい資料をお送りいただいている。
・ 田中意徳なる人物
■細川家家臣・田中意徳のこと
・ 綿考輯録から「田中意徳」
・ 細川家家臣・田中(祖・意徳)家
・ 田中意徳養嗣子・甚左衛門の迷惑
尚、当ブログでは田中意徳についていろいろ取り上げてきた。おきく物語に登場する意徳について細川家家臣・田中意徳だとしてコメントしたものもある。
全てを精査して、訂正のコメントを入れようと思っているが、御詫びするとともにしばらく時間を頂戴したい。