津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「おきく物語」と登場人物 ・5 おきくと二人の田中意徳

2014-01-14 13:37:16 | 史料

 おきく物語は田中意徳 池田侯医也 祖母は、大さかにて、よど(淀)殿につかへし人にて、名をきくとぞいひける」という文章で始まっている。すなわちおきくなる女性の孫が意徳である。

熊本に於いても田中意徳なる人物が在り、この人は細川忠利の幼いころの勉学の友であり、忠利の死に当たり殉死している。
名前をもっておきく物語の主人公・おきくの孫と混同されるが、これはまったくの同名異人である。

おきくは大坂落城(元和元年・1615)の時二十歳であり八十三歳でなくなったと物語は記していおり、これからすると生年は慶長元年(1596)であろう。
一方細川藩士・田中意徳は、寛永十八年(1641)忠利が亡くなり殉死したときは六十三歳であった。逆算すると生年は天正七年(1579)となる。
おきく物語の田中意徳は細川家藩士・田中意徳では成り立たない話である。

池田家田中意徳のこと
この人物については現在お仕事の関係で和歌山にお出でのTK様から、委しい資料をお送りいただいている。
    ・ 田中意徳なる人物

 

■細川家家臣・田中意徳のこと
   ・ 綿考輯録から「田中意徳」
   ・ 
細川家家臣・田中(祖・意徳)家
   ・  田中意徳養嗣子・甚左衛門の迷惑

 

尚、当ブログでは田中意徳についていろいろ取り上げてきた。おきく物語に登場する意徳について細川家家臣・田中意徳だとしてコメントしたものもある。
全てを精査して、訂正のコメントを入れようと思っているが、御詫びするとともにしばらく時間を頂戴したい。 

 

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小正月

2014-01-14 08:32:17 | 史料

                 上元旦爆竹声々驚耳根矣、必於火裏馳駿馬、是則試馬質恐火否、馬以竹皮包尾 人以裘衣遮身、並轡往反、数巡而止、
                 正月者是以為歳首、皆祝上恵下、慎言賀年序、凡民者以求福豈為志 所得也乎

またまた「歳序雑話」から小正月の行事についてである。
「爆竹声々耳根を驚かす」とは左義長のことである。これに向かって侍たちが駿馬にのって馳せるのである。馬が火を恐れるかどうかを試そうというのだが、轡を並べて往反数巡した。馬の尾を竹の皮で包むという事をやっていたらしい。また侍は皮の衣を着たという。

熊本城顕彰会の季刊誌「熊本城」に、村田眞理氏が十二回に亘り書かれた「熊本年中行事圖絵」にみる熊本城下町の年中行事でこの左義長についてもふれておられる。二ノ丸御門前の勢屯あたりで行われたらしく、侍だけではなく多くの人達が百石垣前・二ノ丸御門から勢屯あたりに集まり見物している様がこの圖絵に描かれている。村田氏の解説によると次の様にある。

                 左義長正月十四日、其ノ際ニ至レバ家中の子弟良馬を求め競テ荒乗シ武ヲ試ム 武士之家風ナレバ婦女子に至迄後ルゝ
                 事ヲ恥ツ 馬数多キ時ハ三四百ニ及所謂古の馬揃ナリ 此事兼而他邦江も聞エ其日ニナレバ自他見物拝衆垣ヲ成シ誠ニ
                 天下の壮観ナリシガ 近年ニ止ミテ今纔ニ遠在郷士の左義長共残ルトいへ共其聴ルナシ

                                                

                         (右手の石垣が切れた所の右奥に二ノ丸御門があった、芝生のあたりを含めて勢屯が在った。現在の刑部邸前あたりからの撮影)

この様な古の馬揃えにも比定される勇壮な左義長も、明治期初め(上記文書は明治七・八年に記された)には衰退して熊本城下でも見られなくなったことが判る。

現在ではどんどやとして所々のイベントとして伝えられているに過ぎない。
(昨日壺川校区のどんどやが、京陵中学グランドで催されたことが ブログ・徒然なか話 で紹介されていた。) 

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