津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

風邪をひくとぎっくり腰に悪い

2014-01-17 18:53:11 | 徒然

 ぎっくり腰をやってから一段とひどくなっている気がする。ベッドの寝起きが一番大変で、どうやって布団に入るか?起きだすかに苦労している。
どんな体勢をとっても「ぎくっ」と来るのである。ここ数日気温が0度からマイナスを記録していて、鼻風邪気味の私は、くしゃみを連発してこれが又腰に来る。
鼻をかむのも影響して景気よくできずに、鼻はグズグズである。風邪はぎっくり腰には大いに悪い。
明日は史談会なのだが、二時間ほどもつのかしらといささか心配である。

なんとか準備は完了したのだが・・・・ 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂城落城400年の年に

2014-01-17 10:42:26 | 徒然

 「おきく物語」についていろいろ調べてきたが、今年は大坂城落城400年でもあり改めて大坂の陣を勉強するにはよいきっかけとなった。

戦いは時の運とはいえ大阪勢の劣勢は眼に見えている。加藤清正、前田利長はすでになく、福嶋正則は軍から離され江戸に留め置かれた。平野長泰は大坂籠城を願ったが江戸に軟禁された。黒田長政・加藤嘉明も江戸に留め置かれた。
そんな中での細川家の存在は、西軍にとっては是非とも迎え入れたい処であったろう。淀君を始めとして参陣を乞う書状が到来した。
しかしながら忠興はこれを拒否し、東軍に加担することと成る。細川家家譜は次のように記す。 

【大坂の陣】
十月六日忠利江戸城石垣築造課役畢テ暇ヲ賜リ江戸ヲ発シ駿府ニ赴ク途ニシテ大坂騒擾ノ由ヲ聞キ前将軍ニ謁シ本多上野介ニヨツテ達スル様ハ東西将サニ事有ントスルヲ聞ク 今假ヒ國ニ在トモ馳登リ若年ノ儀ナレハ一軍ヲ帥ヒ先登ヲ心懸ヘキ事ナカラ夫ハ一身ノ功ヲ貪スルニ似タリ此砌江戸ニ留ルコソ却テ将軍ノ為ナラン歟若此意ヲモ明サスシテ歸國セハ忠興ノ怒ニ觸ン事必然ナリ宜ク上裁アルヘシト云 前将軍深ク感シ普請ニ付テ残置タル人數ハ急キ國ヘ返シ忠利ハ江戸へ赴キ将軍出馬アラハ随従スヘシトノ旨ニテ又江戸ニ赴ケリ 既ニシテ大坂ノ城攻メニ決シ十月十一日前将軍遊臘ノ躰ニテ駿府出馬廿三日将軍江戸出馬アリ 忠利ハ跡ヨリ発ス 両将軍京伏見ニ至リ攻口等部署シ遂ニ大坂城ヲ圍ム 此時忠利は本多出雲守ト倶ニ森河内ニ陳セシカ無程和議成テ前将軍陳拂アルへシトノ事ニ付忠利講和ノ祝賀トシテ諸将ト茶臼山ノ営ニ至テ前将軍ニ謁ス 前将軍其夜俄ニ發途歸陳アリ 此役ニ嶋津・毛利ノ両氏ハ大坂へ荷擔ノ風説アリテ忠興ハ右両氏出陣ノ後ヨリ上ルヘキ旨命セラレシ故在國セシカ毛利氏程ナク出陣嶋津氏ハ異圖アルニ非ス寒風ノ節海路便ナラス遅参ノ由忠興深ク之ヲ知レリ故ニ十二月廿九日小倉ヲ発シ大舩五百餘豊前門司ニ着セシ時東西和睦ノ旨忠利ヨリノ報知ヲ得テ直ニ歸陳セリ

元和元年乙卯正月将軍江戸へ歸陳忠利は暇ヲ賜フテ豊前へ歸國ス 既荷シテ秀頼再ヒ大坂籠城アル由ニテ竊カニ諸藩ヲ誘致セラル 忠興ヘモ大野治長ヨリ書通ヲ以テ頼越又淀臺ヨリモ數通ノ消息アツテ是非味方ニ属スヘキ旨様々申越サレシカ共忠興肯スメ曰関東ト隙ヲ生セラレン事秀頼ノ為不利ナル事明ナリ希クハ和睦ヲ固フセラルへシトテ鉾楯ノ事ハ同意セス 然ル處大坂ノ和議遂ニ敗レ忠興父子早々参陳スヘキ旨関東ヨリ急報アリ 忠利ハ總勢ヲ率テ陸行シ忠興ハ小勢軽舸ニテ先ツ発スヘキトノ旨ニテ手勢四五百弓銃手五百ヲ卒シ廿八日小倉出舩 五月三日攝州兵庫花熊浦ニ着シ爰ニテ先鋒ヲ請フ 両将軍許容アリ 忠利ハ四月晦日出馬總軍一萬餘ヲ卒シ中國路ヲ軍行ス 五月五日前将軍京二條ヨリ出馬アリケルニ忠興淀京口ニテ謁シケル處早ク上リ肝ヲ潰シタリトアレハ忠興餘リ心許ナク存シ手廻許リニテ登レリ家中ノ人數ハ忠利召連陸路ヲ押ケル故未タ着仕ラスト申ス 然ラハ人數ハ忠利へ委子忠興ハ我等父子ノ側ニ侍スヘキトノ命ナリ 忠興今度先鋒ヲ望シハ一軍ヲ帥ヒ攻伐ノ労ヲ盡サントノ志ナルニ人數ト離レン事本意ニ非スト辞シケレ共前将軍特ニ厚意ヲ以テ命セラレケル故止ム事ヲ得ス 将軍ノ本陳へ出仕軍議ニ参與セリ
六日早天忠興本陳へ出仕ノ處枚方町口ニテ将軍出馬アリシ由ヲ聞キ急ニ歸リテ鎧ヲ着シ大和海道ニ乗出シ大軍ヲ押分ケ馬ヲ馳将軍ノ営砂村ニ至リ謁見ス 
七日前将軍ハ茶臼山将軍ハ岡山ニ向テ軍ヲ進メ備ヲ立ラル 前将軍先驅ハ越前少将忠直・本多忠朝・小笠原秀政等ナリ 将軍ノ先驅ハ加賀少将利常・井伊直孝・藤堂高虎等ナリ 忠興ハ藤堂高虎ト同シク平野海道ヨリ進ミ両人暫ク牀几ニ踞ケシケル處ニ本多三彌正重馳来リ越中殿々々将軍今日ハ蒐ラヌカ宜シカラント命セラルト云 忠興今日我ヨリ戦ハスンハ必ス敵ヨリ夜討スル事アランサレハ山ニ入リ木ヲ伐リ柵ヲ堅クスヘシ 希クハ早々蒐リ玉ヘト云ケレハ三彌心得タリトテ急キ歸ル城兵ハ七八萬程茶臼山ヨリ岡山ニ連綿シテ備ヲ設ク 東軍ノ諸将茶臼山ニ備ヘタル備ヲ靖メテ持重セリ 坂兵ヨリ騎者二人乗出シ七八町許リ来テ東軍ヲ候視シテ歸リ一軍忽チ鬨ヲ揚ケ茶臼山ノ勢ヲ下シ懸ケ東軍モ相懸リニ蒐リ黒烟ヲ立追手搦手一時ニ血戦シ本多忠朝・小笠原秀政・同忠脩討死ス 坂兵大ニ振ヒ勝負分タス死傷夥シ 藤堂高虎先陳敗レ忠興カ備ニ横雪頽シ来ル 村上縫殿助ハヤ懸ラント両度マテ云ケレ共忠興許サス三度目ニ早駈ルヘシト云 縫殿助・清田七助・朽木與五郎・松井右近・藪三左衛門等我先二ト進撃す 村上・清田ハ馬上ニ槍ヲ横タへシカ込合ケル故村上ハ持タル槍ヲ三尺計リ切捨ケリ 前軍藤堂勢崩レ来リ本道は進ミ難ク両人畑中ヨリ進ミ敗兵ヲ遣リ過シ街道ニ乗出スニ敵七八人追撃シ来ル清田馬ヨリ下リ一番ニ槍ヲ合ス 村上モ續ヒテ馬ヨリ下リ敵一人ト三人トヲ左右ニ受ケ三人ノ方ニ走リ蒐リ一人ヲ突倒ス 其他續ヒテ槍ヲ合セ或ハ組伏セ奮闘シテ多ク敵ノ首級ヲ獲タリ 然レ共大坂方鋭気愈振ヒ激戦シケルハ我軍又大崩ト成ル 忠興ハ高虎ト一所ニテ一段高キ所二上リ城ノ方ニ馬首ヲ向ケ機ヲ計テ見合セケル 斯テ高虎ノ軍モ返シ合セ其他諸将稠敷戦ヒ城方モ今日ヲ限リト奮戦死傷相當リシカ終ニ城兵ヲ撃■セシム 此日秀頼モ出馬アリシカ城中ノ諸将戦死持口危ク成ケル故本丸へ退ク 城兵之ヲ見テ気撓ミ終ニ總敗軍トナリ寄手追撃城内ニ乗入所々火ヲ放ツ於是天王寺岡山邊ニ備へシ敵兵回ル事ヲ得ス 或ハ自刃或ハ逃亡セリ 城兵ハ烟ニ迷ヒ度ヲ失ヒ秀頼母子モ山里樓ニ徒居セラル 中軍ノ命ニヨツテ諸将秀頼ノ居所ヲ圍ミニ三ノ丸本丸共悉ク焼立ケリ 今日忠興手ニ討取首十三生捕一人ナリ
八日秀頼母子助命ヲ前将軍許容アリシニ使者往返ノ内不圖警固ノ兵ニ砲發セシ者アル故助命モ偽トヤ思ハレケン秀頼母子自殺扈従悉ク殉死セリ 其後前将軍ハ上京二條城へ入ラレ将軍ハ伏見城ニ入ラル 忠興モ次テ上京謁見ス 又忠利ハ十一日備前片上へ着ケル處大坂落城ニ付人數差返スヘキ旨忠興ヨリ報告シケル故總勢ヲ返シ麾下許リニテ登京両将軍ニ謁セリ 

忠興の弟・玄蕃興元は、酒井雅楽頭忠世(陣代・息万千代、16歳)の陣に在って、酒井勢の指揮を任された。
忠興の長男・忠隆は参陣を許されていない。その思いは如何ばかりであったろうか。
西軍に加担した細川興秋はのちに父・忠興の命により自ら命を絶つことに成る。
小倉を出奔し浪人していた米田是政も西軍について奮戦したが、細川家に帰参するのは元和八年である。 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする