津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

大坂の陣の細川家

2014-01-20 16:26:24 | 歴史

大坂冬の陣に於いて細川家は、毛利氏や島津氏の動きを制するために豊前に留め置かれた。忠興の強い希望に家康は歓び、細川軍は12,000の軍勢を忠利に托して出陣させた。しかしながら船団が小倉を発した直後、大坂からの和議の知らせが届き全軍引返すことと成る。

和平の状況は長く続かず慶長二十年(元和元年)四月に入ると決戦やむなしの状況となり、四月十九日付け細川家に対しても参陣の要請がでる。忠興はわずかに小姓組を引き連れただけで京都に在った。再び豊前小倉へ伝えられ二十八・九日の内に出発と決められたが、海路を行くための船頭の手配など資金が不足し細川軍12,000は陸路をひた進むことと成る。

                    惣人数雑兵共ニ一万二千也
              一番 藪内匠 加賀山隼人組付 長岡内膳(有吉興道)
              二番 内記(忠利) 長岡中務少輔(孝之) 益田蔵人        内記の旗本手先、左頭・坂崎清左衛門、右頭・住江甚左衛門
              三番 長岡式部(松井興長) 村上八郎左衛門人数 牧左馬丞 

忠興は先陣を望んだが勢の到着が遅れていた。四五百到着した中から鉄炮頭三人(佐藤伝右衛門・鳴海丹後・続亀之助)と鉄砲衆九十人をひきつれ、藤堂高虎の手に加わる。忠興の手勢がまだ到着しないうちの五日夜、大坂軍は道明寺へ押し出してきた。ここで後藤又兵衛等先陣が討死する。天王寺口に於いて藤堂高虎軍も破られ横雪崩となり忠興軍に襲い掛かる。以下が細川家記に記されているところである。

藤堂高虎先陳敗レ忠興カ備ニ横雪崩頽シ来ル 村上縫殿助ハヤ懸ラント両度マテ云ケレ共忠興許サス三度目ニ早駈ルヘシト云 縫殿助・清田七助・朽木與五郎・松井右近・藪三左衛門等我先二ト進撃す 村上・清田ハ馬上ニ槍ヲ横タへシカ込合ケル故村上ハ持タル槍ヲ三尺計リ切捨ケリ 前軍藤堂勢崩レ来リ本道は進ミ難ク両人畑中ヨリ進ミ敗兵ヲ遣リ過シ街道ニ乗出スニ敵七八人追撃シ来ル清田馬ヨリ下リ一番ニ槍ヲ合ス 村上モ續ヒテ馬ヨリ下リ敵一人ト三人トヲ左右ニ受ケ三人ノ方ニ走リ蒐リ一人ヲ突倒ス 其他續ヒテ槍ヲ合セ或ハ組伏セ奮闘シテ多ク敵ノ首級ヲ獲タリ

中国路を急いでいた細川家の主力は、十一日に大坂城の落城を備前で聞いた。忠興はその日京の吉田に着き、ここで陣後のことを指示している。
忠利は十四日吉田に着き、十五日家康・秀忠両御所に御目見を果たした。参陣に遅れた忠利の胸中は如何ばかりであったろうかと思うし、先陣を望みその約を得ながら十分な戦いを仕えなかった忠興も切歯扼腕の態であったろう。資金不足というのが如何にも悲しい。 

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七転八倒の朝

2014-01-20 11:08:00 | 徒然

 朝方六時ころベッドの中で寝返りを打ったら、猛烈な痛みに襲われた。生汗が出るような痛さで声も出ない。少し捻った身体を元に戻すことも出来ず、悪戦苦闘・七転八倒のうえ腹這い状態になり、腕で上体を起こそうと試みたが・・・これも痛い。
しばらく腹這い状態で時を過ごし、今度は膝を片方ずつまげてそのうえで上体をどうやら起こすことが出来た。ところがベッドから降りることが出来ない。
身体の軸がぶれると痛みが來る。なんとかベッドの端まで身体を動かし、また片足ずつ下そうと考えたが、これでまた激痛が来た。
激痛の中で強行して床に足を下し、両手をうしろにして上体をささえて痛みが治まるのをまつ。体中汗が吹き出して何とも気持ち悪い。
暖房も入れずしばらくベッドに腰を掛けていたのだが、痛みが落ち着いたところでなんとか立ち上がる事に成功・・・・・
30分ほどの悪戦苦闘の朝であった。食事後シャワーをして今の所落ち着いている。
奥方はPCのせいだとのたまうが、このようにタイピングをするのには全く支障ない。それを言うといろいろ支障をきたすのでただただ無言である。

よくなるどころかこのような具合で、状況はすこぶる悲観的である。
寝て静かにしているのが一番とかいうが、寝返りひとつ打つのに難儀する有様だから、寝るのさえ怖い。
姿勢を正して椅子に腰かけているのが一番のようだ。72歳に成りたて爺様の初日は、とんでもない状態で始まった・・・・・・・ 

 

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