たまきな出版舎の平田稔氏が御著「池部啓太常春」を発刊された由のご連絡をいただいた。
氏は先年、「幕末熊本の軍制と鉄炮」を発刊されたが、その中でも池部啓太について触れておられた。
その後のご研究を通じ今般の御著発刊の運びに至りお喜びを申し上げるとともに、皆様にも御紹介申し上げる。
Amazonまたは熊本の主要書店で購入できるが、HPを新しくされこちらからの申し込みも可能である。http://www.tamakina.net/contact1.html
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細川家資料によると、忠興とガラシャ夫人の長女・長の生年月日は「不詳」としている。
系図を見ると、忠隆・興秋につづいて長の名前書きされている。「女・長 前野出雲守長重室 誕生年月不分明 慶長八年(1603)九月廿九日卒 安昌院心月妙光」とある。
渋谷美枝子著「細川ガラシャの娘 お長」では、忠隆・興秋の姉として扱われており、没年令を二十五歳とされているから生年は天正六年(1578)となり、忠隆(天正八年生まれ)の姉として辻褄が合う。
文禄四(1595)年七月、秀吉は甥の関白秀次を叛逆の意ありとして妻子妾や近くに仕えた者共々三十余人を処刑する。悲惨な事件であった。この時細川忠興の娘婿で秀次の側近であった前野出雲守長重と、その父但馬守長康も切腹するが、娘長は剃髪させ仏門に入れて難を逃れた。
此の事件の年と、お長の没年からすると十七歳のころのことである。
私は「お長に子はなかったのか」と考えてきたが、つい最近有力な情報をいただいた。
京都紫野の大徳寺前にある和菓子の老舗 「松屋藤兵衛」がそうであるという。当然のことながら「前野姓」であり、いろいろ貴重な史料が残されていて家伝の真性を証しているという。
コトログ京都「和菓子」の紫野松風・松屋藤兵衛をみると確かにそのように紹介されている。
御所の右筆をしていたとも記されているが、父忠興の陰ながらの尽力があったのであろう。