阿蘇氏について「拾集昔語」から特に阿蘇氏に関する記述を抜粋して勉強しようと思い立った。
拾集昔語について「肥後文献解題」は次のように紹介している。
「渡辺玄察物語の一部で、渡辺玄察が元禄八年六十四歳の時安芸掾・彦之進の両名に 与えた記録で戦国時代以降阿蘇家を中心とした肥後の治乱記である。」
拾集昔語は(一)(二)(三)巻に及ぶが、数回にわたってご紹介する。
拾集昔語(一)
一、阿蘇大宮司公神孫御代々之事 (省略)
一、阿蘇四ケ社四ケ之神領と申事付健宮明神之事 (省略)
一、同ㇰ神主公従前々天正中比迄之御領知之事 (省略)
一、同ㇰ神主公従前々御家頼侍仁人之事 (省略)
一、永正之年中に阿蘇神主惟長公を菊池家之主将に菊池之侍取持候連判仁人之事 (省略)
一、阿蘇神主公中古以来天正之年中迄益城郡矢部へ被遊御住城候事、以後同神主惟豊公御名誉御高位之事、阿蘇之御家御買物愚老拝見申候事
(△中古以来阿蘇之大宮司惟種公迄益城之内矢部之内矢部に被遊御在館候に付色々之事)
一、益城郡之内矢部犬飼村に有之候古城を愛東寺之城と申候 彼城は阿蘇之神主殿前々御築被成候城之由に候 天正中つ比國中一同に令
落去候 其比迄は犬飼備前守と申仁阿蘇殿之御家臣にて御城代仕居被申候之由語傳候
一、同町頭に有之候古城は岩尾之城と申候 此城も前々阿蘇殿御座被成候御城之由に候 此城も落去は右同前にて候 阿蘇神主公は右に書
出候通阿蘇明神之御神孫にて被成御座候 神書にも肥後國を最初には阿蘇の國と申候と有之候由承候 就夫阿蘇之明神を国造之明神と
も奉申候由語傳候 然は神主殿御善世天正中つ比迄は彼岩尾之城番を黒仁田豊後守と申仁被相勤居候由に候 其前廉は甲斐大和守親
宣と申御家老御城番被致候由に候 黒仁田氏分ケ候而滅亡被致候 其跡は阿蘇家之御家老中替る/\被相勤候由に候 彼岩尾之御城は
御要心能城と御座候而従阿蘇被成御座候而中古より天正の年中迄惟種公も彼御地へ被成御座候 夫故に御家老衆替る/\に御城番被
勤申村も有之候 然れ共御陣之内は其村之内にては無之候へ共矢部は海邊遠里にてはまと申事矢部にては珍言故御座處を右之通に申
候由に候 濱之町などゝ申來候事も左様之由緒と語傳候 如此之語傳益城にも然々無之候と見へ候 惟種公迄右之通に彼所に被遊御在館
被成御早世其儘其砌令亂國候ゆゑ彼城も天正中つ比致落去候 彼城には右之通に御城番被相勤居候而神主公を守護被申候由に候
濱の御所へ神主殿被遊御安住岩尾之城は右之通に御座候ひつると乍恐たゞ今御花畑之通にて御座候と奉存候 右之城々落去後に當國
を加藤主計頭清正公・小西摂津守行長へ南北半國づゝ従秀吉様被成御拝領候に矢部は小西行長領分に成候由然は右之愛東寺・岩尾
両城番に従行長結城彌平次・太田市兵衛と申侍頭両人に與力之侍被差添被遣置候 岩尾城には平人罷在候由語傳候 右之侍頭両人共
に二千石取にて候 右之通與力衆を手に付ケ御城番被召候由に候 與力之侍衆は
五百石土橋掃部、三百石島澤市右衛門、三百石平地源右衛門、三百石中小路三右衛門、三百石速水七左衛門、同後藤三五兵衛、同田
邊平左衛門、同横田勘左衛門、同加々山二郎作、同岡兵左衛門、同天木庄太夫、同小野田彌右衛門、同吉田木右衛門
此通に城番之由に候 然は小西氏滅亡以後従家康様清正公に肥後之國をかさねて被為拝領候砌右両人之侍頭を清正公被成御抱候て
城番頭は被成御替別條に被召仕候而城番には長尾豊前守・加藤萬兵衛と申御侍頭何れも知行三千石取にて被両頭被遣候而與力衆も
同前に被成御抱候 與力衆はやつぱ前々之通に被成御付置然れ共其以後古城々々被成御立置候事従天下様御禁制と被仰出古城々々
山野或山畠と成果候 清正公行長へ肥後被為拝領候事清正公へ一國ふさねて従家康様御拝領之分ケ後筆に可書出候
一、阿蘇之神主公は右に書出候通に御神孫にて殊更前々は御大名にて乍其上高位高官之御家に而御座候 右に書出候前々の御領知を
當分石積(コクヅモリ)に致候はゝ三四十萬石も可有御座候 然は神主殿御代々附に御座候惟豊公に其砌之帝従 後奈良院様御内裏御修
理を被成御勤候而被成御献上候様にととの就 御勅定右之通の御領内を被成御勧進金子に御ふさね被成候て其比迄は海陸共に人心
不可然候ゆゑ矢部に當分まても有來候天䑓寺福王院と申候 彼福王院其砌の住持法印に被成御持せ御献上被成候而御修理被御調上
候 以之外被遊御叡感烏丸殿を勅使に矢部濱の御所へ被為差下惟豊公に忝くも従 後奈良院様御勅筆被為御頂戴惟豊公矢部に乍御座
有従二位之御位階被遊御勅定候綸旨口宣其外御公家衆より被為進候 御書愚老此前御病用に被召阿蘇友隆公様へ伺公仕候砌被成御
免身を浄め頂戴仕候而奉薫誦冥加之至天山難有奉存候 箇様之御事は阿蘇家頼之末孫々々に有之候共儀にては無之候 大形に被存
間敷候 愚老儀は曾祖父渡邊吉久奥に書出候通に永禄八乙丑年三月十二日熊之庄舞之原にて阿蘇殿御用合戦に被致討死家傳子同氏
軍兵衛は愚老が祖父相良義陽の侍頭豊永藤時(トウジ)を討取阿蘇殿怨敵の井芹大将加賀守を討取此後筆に可書出候通に惟光公・惟
善公御両殿の御母上に付添廻り御奉公を勤佐々成政公へ肥後國侍一揆を起したる砌も名誉なる後詰各同前に致し助城(ジョジョウ)仕被
申候事是皆神主公に被奉對たる事ともに候 か様の分ケ自然の道理にて候上に軍兵衛吉次の傳子愚老が實父渡邊吉政入道號休巴右
先祖以来神主殿へ年々當年迄も年始の御祝禮闕し不申候 左様の分ケにて神主殿御一家の内に而も不被成御免拝御寶物を御拝せ被
成候 前々御舊例とは乍申友隆公両度拙宅へ被遊御出候も古今怠慢不致右之通故に而御座候間此旨を被相守候て愚老無く成候とても
年々一度づゝは阿蘇殿へ御禮可被相勤候 軍兵衛・吉次忠節の段々後筆に可令細書候 扨又右之御寶物迄に限不申一同に被成御見候
色々有増書出候に如此之御寶物奉拝候事は天和元年の辛酉二月十一日に奉拝儀此段はめつらしき事ゆゑ書出召置候
一、忝も後奈良院様之御勅筆綸旨口宣
一、右御同前に従御公家衆神主殿へ被為進候御書
一、阿蘇神主様之御由来之御文書色々
一、神主殿は阿蘇明神之御神孫慥成御由来之書立
一、阿蘇之御社家衆之由来書
一、神主殿の御代々被遊御頂戴候綸旨口宣百に及奉拝候
一、正平之年中に薩摩之國主を阿蘇殿へ被遊御勅許候との御綸旨
一、阿蘇山衆徒大宮司請下知相守候へとの綸旨
一、同衆徒中より大宮司之御下知背申間敷との連判書物
一、阿蘇四ケ社の神事無怠慢大宮司勤候へとの綸旨
一、大宮司に九州を引卒して鎌倉へ責上り逆徒を可令進罰との綸旨
一、高氏・直義逆心を構候間不日に責上追罰候へとの御綸旨
一、頼朝公より被進候御書
一、北条殿御代々より被進候御書
一、新田左中将之御書并錦の切れに御書被成被進候御手紙之御書
一、直冬公より被進候御書
一、今川了俊公より被進候御状
一、筑紫小貮より被進候御状
一、大友殿より被進候御状
一、薩摩島津殿より阿蘇宮へ御願書
一、阿蘇に可被成一味との相良殿の書物阿蘇の宮に被納候書物
一、下野之御狩之御繪圖
右之御數々奉拝候此外色々御寶物馬の角なとをも見申候為後覺書出候
一、惟種公は當友隆公之御曾祖父にて御座候 右に書出候通り天正之中つ比迄は岩尾之御城濱之御所へ被成御座候 然は惟種公の御舎
兄を惟前公と申候 彼惟前公に先々御親父従惟将公御神主職を被成御譲候 然れ共御亂心に被為成候故に御舎弟惟種公へ御神主御
ゆづらせ被成候て惟前公へは砥用・中山・甲佐在々にて過分の御知行被進甲佐伊津野居城松の尾之上當分迄も御陣の内と申所の三
四町四方も可有平地一面之所當分迄も大堀有之候處に被成御殿作(トノヅクリ)御安座御住館被成候 甲斐宗雲取持被申候而御兄弟様之
中めて度様に道之道を諫言被申上居候故矢部・甲佐目出度御両殿へ阿蘇御家人群衆致し無事に被成御誕生御嫡子を惟光公御次男を
惟善公と申候
一、益城郡御船古城根元之事 (省略)
一、同郡同城主甲斐宗運事 (省略)
一、甲斐宗運同郡之熊之庄合戦之事、同郡早川城主同所圓福寺渡邊氏討死之事 (省略)
一、甲斐宗運黒仁田氏を被討候事 (省略)
一、相良氏阿蘇家之内益城郡豊田響之原まて發向之事 (省略)
一、甲佐松之尾城主伊津野氏討死之事、同豊田之城様子之事 (省略)
一、甲斐宗運響之原へ出馬合戦相良氏を被討候事 (省略)
一、田代宗傳渡邊吉次首尾能事 (省略)
この巻・了