私は「阿蘇氏」については勉強不足で、なかなか名前や時代が理解できずにいた。
今般おもいたっていろいろ勉強してみようと思い、まずは阿蘇家を理解するためには、自分で系図を起すのが一番だと思い肥後文献叢書(三)の「新撰事蹟通考巻之十七」系圖之五「阿蘇」を参考にしながら作成してみた。
惟国---惟時---+---惟直(戦死)
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+---惟成(戦死)
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+---孫熊丸
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+----●
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| 惟澄---+---惟村(惟時養子)
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| +---惟武---惟政---惟兼
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| +---惟里
| 菊池武経
+=========惟村---惟郷---惟忠---惟為---惟忠---惟歳---惟家---惟忠---惟憲---+---惟長---惟前---惟賢(黒齋玄與)
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| +---惟将
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+---惟豊---+---惟種---+---惟光
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+---惟善
阿蘇家の興亡はまさに南朝・北朝の対立と共にその宗家たらんとする一族の対立によるものである。
惟直・惟成兄弟が多々良浜の戦いで戦死すると、足利尊氏(北朝)は阿蘇氏の一族である孫熊丸を大宮司に任命する。一方後醍醐天皇は南朝大宮司に惟時を任命する。しかしながら南北対立による一族の滅亡を恐れた惟時は南北両朝いずれに味方するか態度を不鮮明にする。このため南朝は惟時の女婿惟澄を頼りにする。ここで北朝派孫熊丸、南朝派惟澄、中立を守る惟時の三派対立の時代を迎える。
先ずは孫熊丸が挙兵し惟澄と戦い討ち取られる。惟時は惟澄の子惟村を養子として老死、その後は惟澄(南朝)と実子惟村(北朝)が対立、総領権の争奪の争いは100年以上続くことになる。
時代が下って惟長・惟豊兄弟による大宮司職争奪の戦いは1512~1517に及び惟豊の勝利するところとなり、惟長一族は薩摩の島津氏にのがれ食禄することとなる。近衛信尹が薩摩に流され、後ゆるされて京に帰るにあたって旅の御供をしたのが惟賢(墨斎玄與)である。貴重な「玄與日記」を残した。
現・矢部高校にあったとされる「浜の館」も、その終焉の時期は定かでないとされる。惟光・惟善兄弟が母の君と共に目丸の里に落ち延びたが、九州征伐に臨んだ秀吉は梅北の乱に惟光が関係したとして、わずか12歳の幼い命を奪い事実上大宮司阿蘇家は終焉する。
是時の死から惟光の死に至る約240年、阿蘇氏一族の惣領権の争奪の歴史の勉強は簡単にはまいらぬ事を実感する。
参考:
■ 肥後文献叢書(三)の「新撰事蹟通考巻之十七」系圖之五「阿蘇」
■ 高田泰史著 肥後武将の源流
■ 阿蘇惟之編 阿蘇神社
■ 島村史孝著 阿蘇神社第91代宮司阿蘇惟之聞き書き「火の国 水の国」
■ 新・熊本の歴史3
■ 熊本歴研「史叢」所収 松永政秋著「考察・天正の高森城合戦
他