忠興公に殉死した興津彌五右衛門の子・才右衛門はいささかの慢心があっとみえ、後年鉄炮頭を務めていた折許可なく鉄炮足軽共に鉄炮をうたせて罪を得た。その才右衛門について旦夕(傳右衛門)はその人となりを詳しく書き記している。
(249頁後段から250頁後段にかけてタイピングを終えたころ、この項は以前upしたように思えて調べたところ・・・・ありました。以下の如くです 嗚呼)
■興津才右衛門天の罰め
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堀内角之允
一、或時堀二郎右衛門拙者へ被申候は此比御家老中角入事數年被召仕弟の文左衛門にも御鐡炮御預ケ被
成候 角入も物頭に被 仰付候様にと被申上候 太守様御意にはとく御心も付候へ共角入儀は御次に
て心安く被召仕度其身も左様に可存候 文左衛門に貮拾挺御預被成候へは角入には三拾挺被 仰付
候共其儘御心安く被召仕候事却て悦可申と思召御意候と直に有難申聞候 拙者へ申聞候へと被申候 右
之通角入に申候へは扨々難有仕合御意の通に存候 年若くも候はゝ他國の一類共のおもはくも可存か
成れ共文左衛門結構に被召仕候へはおれ儀結構に被召仕候同前の事に候 少しも/\外様にて結構に
被召仕候望なく候 此旨次郎右衛門殿に可申候 其方は十左衛門殿舎人殿御心安く候間左様成る御噂に
可有之候 おれか心底を申候へと誓言にて被申聞候 妙解寺に参拝の時分三盛見申由に咄被申候 御香の
物を乗物に入れ持参被仕参御佛前に御備被下候へと出家衆頼被申候を見申由被申聞感し入八十に成
候ても少も失念不仕候 其信實故弾蔵結構に成申候 弾蔵御聞番勤申候内に小田原武兵衛も働申候か米
屋六兵衛と申御家中に米入申者拙者前々ゟ心安く拙者へ申候は平八様御勝手は頓(ヤガ)て成り申間敷候 御
勝手にて見申候へは御手付衆食被下候夜食も其通御酒迄被下候 武兵衛様は終にあの様には不被成手
付衆夜更迄御用にて居被申候へ共歸候て夜食給候て又被参候様にと御申付候 夫故御勝手も能く御加
増も御取候 是非/\拙者に申武兵衛様の真似を被成候様にと申候 拙者申候は其方心入は過分に候へ
共若き平八昨今勤武兵衛真似したらは末々しかり可申候 其上小身成者共に宿へ戻り夜食給候へとは
御用にての事夫程の事は物入申も苦に成り申さぬ事と申候 歸リて角入に申候へは笑被申候 平八勤き
けは後々は立身も可仕候 平吉も能き生付後々は聞番にも可被成哉抔と悦被申候 如願両人共に成り申
候 拙者歩の御使番勤歸りて江戸咄なと仕候て立申候へは老父母へ被申候は傳右衛門咄きけは後々は
御駕奉行に成御知行も被下歩頭抔に可被成候そなたは年若く候間永いきして子共にかゝり被申候 お
れは随分人の為に成る様にと計おもふた程に子共にむくひ可申と被申候 二三日程有之承候て偖は拙
者咄気に入たると悦申候 二組にて六十人有之候歩の使番の内に拙者被仰付候事又歩の頭に可被成と
被申候は定て 忠利公御代の事にて被申たると存候 安井太衛門・寺内五兵衛・真下喜左衛門・牛島一郎右
衛門なと申六人共に歩の小姓より百五拾石宛被下歩頭勤申候 右之衆は御入國後迄しはらく居申覺候
箇様の事思被申候哉と存候 然處に如斯親の願ゟは結構に被 仰付候は老父信實顕れ候 角入も同前
に存候 右之才右衛門事は親彌五右衛門三齋公追腹三年の御忌かと承候 京都舟岡山にて致追腹天下に
知られたる親の子にて信實にて勤候はゝ能く可有之に我満計にて三百石に御鐡炮迄御預ヶ先祖を被
思召結構に被召仕候得共右の仕合天罰と存候 各若く委細被存候ために書置候