津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む・文春文庫「本朝甲冑奇談」

2015-02-28 15:35:47 | 先祖附

       本朝甲冑奇談 (文春文庫)

 
           文藝春秋

内容説明

戦国乱世にあって、甲冑は単なる武具ではなかった。凝りに凝ったデザインはその実力を誇示するばかりでなく、信ずる「神」すら顕示されていた。それは究極の自己表現でもあった。本書は信長、秀吉ら武将たちの甲冑にまつわる奇妙な物語6編を収録、その夢、野望、そして無念の死を鮮やかに描きだす。舟橋聖一文学賞受賞作。

著者紹介

東郷隆[トウゴウリュウ] 
昭和26(1951)年、横浜市に生れる。国学院大学経済学部卒業。同大博物館学研究助手、編集者を経て執筆活動に入る。平成6年『大砲松』で吉川英治文学新人賞、16年『狙うて候―銃豪村田経芳の生涯』で新田次郎文学賞、24年『本朝甲冑奇談』で舟橋聖一文学賞をそれぞれ受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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■「旦夕覺書」--月・5

2015-02-28 07:43:25 | 史料

 忠興公に殉死した興津彌五右衛門の子・才右衛門はいささかの慢心があっとみえ、後年鉄炮頭を務めていた折許可なく鉄炮足軽共に鉄炮をうたせて罪を得た。その才右衛門について旦夕(傳右衛門)はその人となりを詳しく書き記している。

                   (249頁後段から250頁後段にかけてタイピングを終えたころ、この項は以前upしたように思えて調べたところ・・・・ありました。以下の如くです 嗚呼)

                                ■興津才右衛門天の罰め

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

                                               堀内角之允
                一、或時堀二郎右衛門拙者へ被申候は此比御家老中角入事數年被召仕弟の文左衛門にも御鐡炮御預ケ被
                  成候 角入も物頭に被 仰付候様にと被申上候 太守様御意にはとく御心も付候へ共角入儀は御次に
                  て心安く被召仕度其身も左様に可存候 文左衛門に貮拾挺御預被成候へは角入には三拾挺被 仰付
                  候共其儘御心安く被召仕候事却て悦可申と思召御意候と直に有難申聞候 拙者へ申聞候へと被申候 右

                  之通角入に申候へは扨々難有仕合御意の通に存候 年若くも候はゝ他國の一類共のおもはくも可存か
                  成れ共文左衛門結構に被召仕候へはおれ儀結構に被召仕候同前の事に候 少しも/\外様にて結構に
                  被召仕候望なく候 此旨次郎右衛門殿に可申候 其方は十左衛門殿舎人殿御心安く候間左様成る御噂に
                  可有之候 おれか心底を申候へと誓言にて被申聞候 妙解寺に参拝の時分三盛見申由に咄被申候 御香の
                  物を乗物に入れ持参被仕参御佛前に御備被下候へと出家衆頼被申候を見申由被申聞感し入八十に成
                  候ても少も失念不仕候 其信實故弾蔵結構に成申候 弾蔵御聞番勤申候内に小田原武兵衛も働申候か米
                  屋六兵衛と申御家中に米入申者拙者前々ゟ心安く拙者へ申候は平八様御勝手は頓(ヤガ)て成り申間敷候 御
                  勝手にて見申候へは御手付衆食被下候夜食も其通御酒迄被下候 武兵衛様は終にあの様には不被成手
                  付衆夜更迄御用にて居被申候へ共歸候て夜食給候て又被参候様にと御申付候 夫故御勝手も能く御加
                  増も御取候 是非/\拙者に申武兵衛様の真似を被成候様にと申候 拙者申候は其方心入は過分に候へ
                  共若き平八昨今勤武兵衛真似したらは末々しかり可申候 其上小身成者共に宿へ戻り夜食給候へとは
                  御用にての事夫程の事は物入申も苦に成り申さぬ事と申候 歸リて角入に申候へは笑被申候 平八勤き
                  けは後々は立身も可仕候 平吉も能き生付後々は聞番にも可被成哉抔と悦被申候 如願両人共に成り申
                  候 拙者歩の御使番勤歸りて江戸咄なと仕候て立申候へは老父母へ被申候は傳右衛門咄きけは後々は
                  御駕奉行に成御知行も被下歩頭抔に可被成候そなたは年若く候間永いきして子共にかゝり被申候 お
                  れは随分人の為に成る様にと計おもふた程に子共にむくひ可申と被申候 二三日程有之承候て偖は拙
                  者咄気に入たると悦申候 二組にて六十人有之候歩の使番の内に拙者被仰付候事又歩の頭に可被成と
                  被申候は定て 忠利公御代の事にて被申たると存候 安井太衛門・寺内五兵衛・真下喜左衛門・牛島一郎右
                  衛門なと申六人共に歩の小姓より百五拾石宛被下歩頭勤申候 右之衆は御入國後迄しはらく居申覺候
                  箇様の事思被申候哉と存候 然處に如斯親の願ゟは結構に被 仰付候は老父信實顕れ候 角入も同前
                  に存候 右之才右衛門事は親彌五右衛門三齋公追腹三年の御忌かと承候 京都舟岡山にて致追腹天下に
                  知られたる親の子にて信實にて勤候はゝ能く可有之に我満計にて三百石に御鐡炮迄御預ヶ先祖を被
                  思召結構に被召仕候得共右の仕合天罰と存候 各若く委細被存候ために書置候 

                

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■「旦夕覺書」--月・4

2015-02-28 07:42:46 | 史料

                一、數十年心つけ見候に江戸被 仰付候か又は役儀に付十人か九人は被 仰付候につけて願申内にて家
                  内の或は娘の婚禮の用意なとゝ差當る御奉公に入申外に自分の用にたて申事多く候 尤知行物成の内
                  にて相應/\に心かけ子供の為に仕候事は本より其筈の儀夫も相應より内に心得可申事に候 千年傳
                  右衛門御國にて御巡見の時願事の外かろく御座候 元より拙者事能く被存候 兼々存候 併今度脇の願の
                  邪魔に成候程にと頭差圖にて候由傳右衛門申聞候 左様に候はゞ脇々の為にと被申候事夫には構不
                  申と申儀も心に叶不申其通と申候 是は頭により何卒申立によりさのみ脇の願の邪魔にも成間敷事と
                  乍存右之通りにて事濟申候 各心に能く心得差當る御用程願被申私用に心當被仕候はゝ 天罰蒙り可
                  被申候 神以拙者覺申候 目あしく成り勝手能も不慮の事多く後に不勝手に成悪事多く數人神そ/\心
                  には能く存候故 天罰と存候へ共同類大木世の中にて夫もそふ是もそふ皆々外にも有事と天罰と思
                  ふ者すくなく候 老父被申聞候事覺居申候昔しも今も同前と思ひ當り申候 貮百石にて定江戸おごり不
                  申候 何としても跡先の用不足仕候 壹貫目御座候へは貮百石にても事足り申利なしに借候はゞ休息候
                  時ぼつ/\拂可申なとゝ存る處に存不寄御加増被下候 其時分一貫目上に當り偖々難有奉存親よりは
                  くわほふ生れ増申候 親被致拝領候はゝ三人の子供に米にても夫/\わけて可給候 兄に遣候とても請
                  可被申様なく候 三盛は勝手別て不調法にて度々三友に頼被申候事能く存三友に必々三盛りに申間敷候
                  差つかへ申時遣候へと頼申候 神以返し申様に不申候得共三友方々ゟ返したる事覺申候 又存候は兄弟三
                  人にて六百五拾石にて候 昔し片山自庵も六百石山田竺印六百石老父も六百石は被下間敷物にてもな
                  く被致拝領三人の子に分け呉被申候 其三盛角入両人に五百石わけ可被申候 弟の儀拙者には百五拾石
                  分可被申候 然れは親の子を思ふは世の習ひにて候 如斯の道理に五拾石被下候事は親に増した
                  る御恩てんのめくみと八十に少も失念不仕候 傳右衛門事は如形能く心得致案堵候 三悦・幸右衛門・傳右衛門
                  申合随分心かけ天道恐れ必々真實に萬事尋其外彦四郎・尉九郎・三郎兵衛何もむつましく寄合候ては互に
                  吟味いたされ堀内中唯今迄壹人も御勘気蒙りたる者無之結構に被召仕候 各子々孫々迄悪名請不申様
                  に天道恐れ慎可被申候 左候はゞ彌繁昌可被仕候

                一、和田十郎兵衛新知三百石大組に被 仰出候由方方ゟ知せ申候 拙者其時は御中小姓にて金津助十郎屋
                  敷借り居申候時にて用事有之候て夕方衆議に参へしと折節七八寸の江鮒賈に参候故手前調鉢に入
                  れ遣申候處に舎人殿其外兄弟衆他人の歴歴居被申候處に十郎兵衛持参して傳右衛門祝儀を呉れ申候 御
                  覧候得とて打寄大笑の由後に承候 暮方に参候得は誰も戻り被申小川次郎右衛門・宇田彌二兵衛・織部殿
                  以来之五名にて和田と咄居申所へ参候へは偖々今日の御祝儀は忝は候へ共舎人屋敷へ江鮒の鉢に入
                  れたるは初てにて何も誰誰も見被申候て笑被申候由被申候故いかにもいかにも左様に可有之候 併世
                  上不相應の事多く御座候 私中小姓には少過たると存候へ共今日の目出度さに進上申候 偖御自分には
                  御家の古き事御存被成ましく候 次郎右殿・宇田殿は御存可有候御備頭の御次男御舎弟には三百石被下
                  大組に被仰付候 氏家源助殿は二百五拾石被下御小姓組に其時節長鹽源太殿・青木権之助殿・南部・土山は
                  皆々五百石被下候得共氏家同前に御小姓組に御入被成候へ共御番御供は御免被成候譯有衆にて可有
                  御座候 氏家は備頭にても無御座候得共家がらにて貮百五拾石被下候と皆々批判承候 今日三百石御拝
                  領被成殊更大組と御座候は誠に/\兎角被申ぬ目出度事に存候 随分御勘略被成馬をも御持被成候へ
                  と申歸申候 重て参候時舎人殿御申候は先日十郎兵衛に委細に咄治部右衛門なと咄聞候 偖々尤成る
                  事重ても能々御家の事咄聞せ可給候由御申候 終に馬持不被申候 馬具一通りに氏家甚左衛門殿よりも
                  らひ被申咄は承候 舎人殿全盛之時織部殿存生の内は貮拾人扶持被下候織部殿母方の叔父にて先代清
                  正公の和田備中子孫と申傳候

                一、拙者新知被為拝領時分右の和田十郎兵衛被申候は此間清助・彌一右衛門・七右衛門と申談候 拙者は格
                  別に舎人殿懇比成る事に候間そば粉に何そ肴そへ被送候はゝ打寄そば切給へ祝ひ可申と内意被申候 拙
                  者申はいかにも私も其心はつき申候へとも如御存新知被為拝領即刻借銀願申候右之通の儀に私に御
                  懇意と申我身の祝ひに一銭にても遣申候はゝ却て舎人殿御心に叶申間敷と神以何にも遣不申候 如斯
                  兄弟衆十郎兵衛差圖と申候はゝ十人か九人は幸と存遣可申候 此後も心付け可被申如斯拙者は天道を
                  恐れ申候 折々母を振舞候 相伴に伯父共被参候事は可有之候 他人に出來合ふづ汁は打寄り給申候 終に
                  舎人殿・十左衛門殿呼不申残念には存候 土之進出生にて下着の刻舎人殿御申候そなたは有無にしわき
                  と思ふと御申候故何と思召候て左様に思召候やと申候へはいや/\男子出生にて祝ひ申せおれなら
                  は結構に祝可申とお笑ひ候 

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