奥方の所用で大分行き、片道130㌔約2時間40分ほどの行程である。ガソリンを入れたりトイレタイムを取ったりして行きは3時間、帰りはノンストップで2時間30分ほどで都合280キロを走行した。
私は奥方とは別行動、当初は鶴崎の町を散策しようと考えたが足の痛みを考慮して、動かなくて良いように図書館で時間調整をすることにした。大分の図書館は、公文書館、先哲資料館を併設して「豊の国情報ライブラりー」と称しているようだが、大変立派な施設でうらやましい限り・・・・・
2時間半ほど郷土資料コーナーで鶴崎のことについていろいろ調べ、コピーを30枚ほどとったあと喫茶コーナーでコーヒーを注文してしばし休憩。
奥方を迎えに行き、行き先で小1時間を費やして17時出発。県境の波野(阿蘇市)あたりは雪が残っているところがあったので、路面凍結を心配しながらの走行・・・外気温はー1℃~0℃を表示していたが無事に山を下りた。気が付くと昼食をとっておらず腹がなっている。
帰宅してコーヒーをのんで一息つき、あまり疲れも残らず過ごせたことに感謝・・・・73爺まだ捨てたものではない。
拾集昔語・三
一、佐々成政公柳川立花殿へ加勢被成御乞候事 (省略)
一、秀吉公肥後國へ安國寺(恵瓊)を被指遣候事 (省略)
佐々成政被召上切腹被仰付候事
隈部有働并謀叛人共御誅罰之事
一、阿蘇神主殿御兄弟御母上様を佐々成政公の御城内を出奉事
一、神主殿御母子様右之通に成政公へ申上候而御城中に入置申候へ共佐々殿急速に被成御上候上に色々不宣沙汰致候故に御城内へ召置
候而は無御心元いかゞ敷各申談じ御城代神保安蓺守殿へ申達し御城を出し申候て前のことく目丸へ又々引隠し置申候 御後室は又々前之
通に小宰相の局所の里へ被成御座候て小宰相守被仕居申候 御両君へ者坂梨孫太郎・西源兵衛供奉前之通其外之仁々も前之通に候
一、秀吉公肥後國へ森壹岐守を御上使に被為差下候事 (省略)
一、秀吉公肥後國謀叛人之城々へ城番之御衆被為差下候事 (省略)
一、秀吉公肥後國を加藤主計頭清正小西摂津守行長へ被為拝領候事 (省略)
一、従 家康様小西行長滅亡以後肥後國を惣ね而加藤清正へ被為拝領候事
一、加藤清正公阿蘇之宮神主惟善公を被成御取立候事
一、阿蘇神主惟光公を前に書出し候通清正公に御育被成隈本へ屋敷被進御扶持方をも被進候而御育被成候處に従 秀吉公惟光へ切腹させ
候様にとの被仰出にて隈本阿彌陀寺にて御切腹被成候 御位牌も阿彌陀寺に御座候 彼御位牌御立被成候前にて小僧衆そゝうになど御座
候へはめひよいかやうに成とも不思議有之候と空誉和尚愚老に折々咄聞られ候 秀吉公前々より神主は科なき段知し召上られ候て以後右
之通阿蘇家へ發向之相良殿を阿蘇之大老甲斐宗運右之通に討被申候 然れ共くま相良より吊ひ合戦とて無之儀左様之遺恨に相良之大老
深水宗甫其砌歌人故紹巴などゝ懇にて眞にて候哉秀吉公之御前近く迄も伺公仕居被申候由に候 右之通の遺恨にて阿蘇の神主は強敵に
も可成などゝ咄とも候はゝ達上聞如此に被仰付候哉とうたがひ推量之取沙汰共其比申たる由語傳候 然ば加藤子よ雅公に肥後國右之通小
西落去後に御拝領被成候故宇土之城小西家頼之侍御取抱被成候儀被遊御貴免(キメン)候故南條元宅・建部兵庫頭と申仁人被召置候 然
處に惟善公は右に書出候通に小西城下へ育まれ御座候を早々熊本へ御呼被成阿蘇神主職に御取立被成度思召候とて 家康様へ御窺被
成候へば前之通に阿蘇大宮司職に御取立被成候へとの 御書出被成御拝受御知行千石被進阿蘇之御社邊に御在館候様にと被仰候而唯
今之御屋敷に惟善公被成御安宅候 惟善公被成御批判千石之内山中社家神納御自分領御配分被成候と前々より申傳候 右之通に従 天
下様清正へ被成下候御書出慥に阿蘇殿へ御座候と前々より申傳候へ共當分無御座候由承候 秀吉公より三百町被進候との御書出は右
に書出候通阿蘇殿へ被成御所持候 神主殿に限不申阿蘇山坊中令退轉候をも清正公御取立被成候由に候
(以下六項 省略)
了