津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む・洋泉社歴史新書「 なぜ、地形と地理がわかると江戸時代がこんなに面白くなるのか」

2015-02-18 17:53:39 | 書籍・読書
なぜ、地形と地理がわかると江戸時代がこんなに面白くなるのか (歴史新書)
 
                   洋泉社

 そもそも江戸の地形が取り上げられるようになったのは、「ぶらタモリ」が貢献しているかもしれない。
監修の大石学先生のお人柄はTVなどで拝見しているが、お人柄そのままで肩の凝らない本なのではないか? 

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■拾集昔語から「阿蘇氏」を勉強する(2)

2015-02-18 07:15:47 | 史料

  拾集昔語(二)

 一、宗運歸陣色々工夫緒方喜蔵事 (省略)
 一、同宗運折々四百八ッ宛の首討取之事 (省略)
 一、同宗運盛世之砌甲佐御舟在々字侍に井芹と云者之一黨を譯有之候而忝被殺之事 (省略)
 一、同入道實子を數人被殺同氏嫡子宗立無分別之事 (省略)
 一、同入道残念咄之事 (省略)
 一、同入道死去之事 (省略)
 一、阿蘇神主惟種公御逝去惟前公御謀叛之事
       一、惟種公天正十一年之秋御歳二十有餘にて御逝去被成候 然は甲斐宗運存命に候はゝ何の申分も有之間敷候へともはや阿蘇家下かちに
         罷成濱の御所え出仕申候仁人も其八月頃からは疎に成候 如是の折節惟前公被思召候は惟光公・惟善公を何とぞ被成候て阿蘇大宮司
         御職を可被成御勤とて益城の中山・砥用・甲佐・堅志田の御知行は申に不及悪黨/\と引卒し矢部に御取懸被成候はんと御座候 此旨伊
         津野・早川城代衆西北渡邊・田上之仁々矢部に内通申上候に付家老仁田水・犬飼・高森其外男成・井田の人々一同に申候は矢部に引受
         候ては見苦敷候 此方ゟ令發向一戦を可遂とて右の仁々大将にて貮千人歩立にて令發向候處に矢部と砥用との堺満坂にて雙方の軍人
         行逢無頼之合戦に惟前公御敗北被成候て國中に御在館被成候處無之候故郡浦之様に被成御落去船にて薩摩え御父子共御立退被成候
         て島津を御頼被成候處に島津以之外御取持にて挌護被申候由に候 然とも惟前公追々御逝去にて御子へも御育米共被進候て被召置候
         に以後加藤清正公惟善公え御知行千石被進候由にて右之惟前公之御子惟元公へも知行千石被進候由に令風聞候 惟元公御早世故御
         子孫断絶の旨風聞いたし候 併當分は神主殿之御親父友貞公と御状の取やり共被成候 かの様に若輩の砌阿蘇にて承り候かと覺候

 一、益城郡に熊野花の山城振本已後落城之事 (省略)
 一、薩摩島津より初發に肥後國へ人數を指向之事 附肥前國龍造寺隆信を島津被討之事 (省略)
 一、阿蘇惟種公の御後室両若御達を隠し申事
       一、阿蘇の御家臣甲斐氏・仁田水氏初發に薩摩江令歸伏候故其外下いつれも同前にて惟豊公の後室両若御達濱の御所江被成御座候ては
         當分御家人を先として他は申に不及無心元候とて元來金石の御家人に南郷・矢部・高森・男成・早川の城主兄弟・渡邊・甲佐・中山の田上
         砥用上島の田上・北里・下城・坂梨・西北迫此人々一同に申談候は御後室は小宰相と云大女と能き隠居の在所へ供奉御心安可被成御
         座候 御代々の御文綸旨御寶物は男成明神の御寶殿に奉隠納一太夫守護可仕候 其内綸旨口宣文書は坂梨氏背負可申候 此外の御寶
         物は濱の御所江人しらさる穴蔵有之候に隠置迫井出両頭在番仕與風御母子様共に被成御上京候と申ふらし鳥居之大門をたて小門を開
         き注連を引廻し諸人出入令禁制可罷有候 御両若君へは坂梨氏孫太郎・西源兵衛・渡邊軍兵衛此三人供奉仕砥用・矢部境の奥目丸の深
         山幽谷へ忍ひ隠れ守り仕時分を待可申旨申合右の山中に各三人附居候て御兵粮の運送は右残り候者共彼幽谷の隠家に相送可申旨申
         談扨真先に御綸旨御文書を坂梨氏背負次に惟光公を西氏肩に載せ参らせ次に惟善公御字をほそ殿と申候を渡邊軍兵衛肩に載せ忍入
         候處に御跡ゟ三人追かけ其若君はわれ/\請取守護可仕と申候を渡邊ふり返り見候て其手令推察候 己等共薩摩江御供可申とや内々
         見聞も致候はん 時分か手並見せんとて大岩のかけにほそ殿を置申候て提たる鑓にて坂の上よりまくりかけ真先の者を突伏候へは真下
         りにかいふつて迯候故鉢巻に能々御取附被成候へ大将はハむつからぬものにて御座候ぞと申候て朱に成候鑓を片手にひつさけ各の跡
         をしたひ参り候由祖父折々咄被申候 亡父度々承候と被語聞候 阿蘇の御家其頃は惟前公方神主公方とて阿蘇家二つにわれて有之候
         由にて定而惟前公方の者にて有之候はんと亡父咄居申候 惟前公先筆に書出候通に被成敗北候故其方人共は隣人と成或は令逐電山
         谷野外に身をほそめ罷在候由に候間定て左様の者ともにて若君を背負薩摩江参間敷にもあらず候故軍兵衛被申分尤と存候 惣て軍兵衛
         は大の男にて大力の由語傳候 亡父初て神主惟善公江軍兵衛病死後に罷出候へは亡父に孫兵衛と假名共被仰付上下被為拝領なせ當
         分迄罷出不申候やと被仰出候に多年在京仕藪醫傳受仕居申候て参不申上候と申候へは坂梨氏の老翁軍兵衛事を被申出昔物語被咄出
         候に惟善公被仰出候は其通に候 鑓に血のついて流れ候をすさましく思ひ候事夢の様に有之候と被仰候と亡父折々咄聞被申候事

 一、島津大友殿を亡し可申との事 (省略)
 一、秀吉公九州へ被遊御下向候事 (省略)
 一、阿蘇惟種公の御後室両若御達御歸城之事
       一、秀吉様被遊御下向に付薩摩の軍人不残引取候故世上静に罷成候 就夫御後室若君達御隠居所より濱の御所へ被遊御歸候 然は外目
         を仕候者共も前々のことく勤たてまつり罷集別條無御座候故右之通に毎月つき副居申候者共先々在所々々江しはらく令歸宿候由に候
 一、秀吉様御横目九州へ被為出候事 附 惟種公の御後室秀吉様へ御禮被仰上候事 秀吉公薩摩へ被遊御入馬候事 肥後國侍秀吉公へ御禮被申上候事
       一、薩摩之軍士秀吉公被遊御下向候と其儘一戦に不及本國江引取候に付秀吉公豊後より肥後國内小國満願寺に被遊御一宿御制札など御
         立被成筑紫前國秋月に被遊御出秋月より筑前肥後國南の關に被遊御出候之由に候 豊後江被遊御着座候 明日御横目を數人九國中へ
         密々御廻し被成被遊御見聞候に矢部濱の御所の鳥居門を横目衆一覧候て鳥居門の領被仰上候へは被仰出候は阿蘇の神主は被遊御聞
         候程有之凡人は鳥居門ならず候と被仰出候由語傳候
       一、右に書出候通に阿蘇御家人共顔に手をおゝひながら甲斐氏・仁田水氏・宗立を始執事の武蓺前々のことく又濱の御所江勤申候て各申談
         候は南關江秀吉様暫く被成御滞座候内に御禮被仰上可然旨各評定仕候へは御後室も尤と被仰出御女身ゟの御禮にて候間女衆を可
         被成御進上とて小宰相と申大女古老の美相なるを被指上候へは御前宜敷殊の外御機嫌にて後室の女使扨又幼少之子共故如此の旨
         宜敷被思召上候 為育先々御新知三百町被為拝領候と被仰出其通の御書出小宰相頂戴仕罷歸御後室江差上候得は後室不斜被遊御大
         悦御若子様達先々被成御育候御手立御座候とて御祝の處に甲斐武蔵(是は甲斐宗立執事也)申候由は扨も御不足成儀を被仰候ものか
         な當國内にてさへ八千町今更三百町(一本八百町御座候に今更三百町とあり)扨も不足見くるしく存候とて御内書を引破可申と申候を漸く
         御後室御なため被成候て御受納被成置候 於于今右之御書阿蘇神主殿御所持あられ候 彼武蔵左様の無道もの故以後佐々殿江謀反を
         起し候 甲斐宗立を先として秀吉公被遊御下向候へは薩摩を■(小に月)き何とそ天下の御手下に成阿蘇の御幕下を離れ御直の御領知を
         致拝領たき願迄の故に阿蘇の御家亡ひ不申候様にの願を存候仁其砌一人も無之候由其心得故に阿蘇の其砌の御家人共秀吉様江御直
         に御禮を申上候 仁々の居城々々に後筆に書出候通に佐々殿え逆心の以後秀吉公規度被成候 御城番衆被為遣候 右之三百町の御書出
         を慮外なから反古になし候は甲斐武蔵にて候 其譯は武蔵を初め佐々殿え謀反を起し申候故に阿蘇御家人と申名負にて御後室若子達無
         御存事に御座候へとも主人に反し阿蘇の御家御落去無是非候 委細後筆に可書出候 

                     (以下・四項 省略)
 一、秀吉公佐々内蔵助成政考へ肥後國を被為拝領候事 (省略)
 一、阿蘇惟種公の後室若御達を佐々成政公の居城へ忠臣共各申合せ入置申候事
       一、阿蘇の御家臣前々御家老分の仁々右之通に秀吉公御下向に付御直参上罷成御禮被申上候故に知行之御書出し殿下様より可被下と各
         待被申候迄にて御後室若子様江慮外とは見へ不申候得とも又々別心の面振り見え候故前々より疎略に存せざる両高森・北里・下城・西北
         坂梨・迫・男成・早川・渡邊・村山各又令参會申談候は御後室若御達矢部に奉置候ては矢部・甲斐元來不實の仁々にて候 其上なから御
         船金石之甲斐氏如此の上は無心元候間いざ/\國主に申上候て熊本之御城内に入置可申と申合せ秀吉様被遊御下向治り候へとも薩摩
         またいか様に変し可申も不相知候間是非右之通にと令談合此旨佐々成政公江申上候得は以之外被成御満悦神妙/\能こそ申上候早々
         いれ申候へ可被召置と御座候て被成候て被成御對面御城中に結構成一座敷被成御渡候 附衆には坂梨孫太郎・西源兵衛両人相つき申
         候者各申上候は彼者共罷居候處迄被仰付御賄をも殿より被仰付御心能御入座にて候 色々御懇に被仰付候上に被仰付候は神主殿江は
         御朱印の外に往々御私領可被成御寄候 安世迄は暫く當城江御座候へと被仰附衆両人は申に不及申談候 右之仁々令大悦候 然は右之
         仁々不残被召出御目見被仰付難有かり申旨語傳候

 一、佐々殿山鹿郡隈部を被責候事 (省略)
 一、同郡有働の家頼知略之事 (省略)
 一、肥後國侍佐々殿へ對し一揆を起す事 (省略)
 一、阿蘇家の侍成政公の城に助城仕る密忠之事 
       
一、右に書出候通に阿蘇神主公之御母子を両高森・北里・下城・迫・田上・男成・村山・早川越前・同丹波・坂梨・西・渡邊(イ本に高森伊豆守・
         同三河守・北里加賀守・下城備中守・迫三河守・田上三郎太郎・男成萬次左衛門・村山丹後守・坂梨孫太郎・西善兵衛・渡邊軍兵衛)
         此者共申談し坂梨・西両氏を守にいたし殿の御城江入置申候故に今度國侍の一揆人數一分にては無之候 然れども上向きは人數一分に
         て無之候はねば各通し不申殺候故いやともに共々一分に成城外遥かの所に各一所に罷有候て其夜一同に申談候は成政公に今夜御内
         意を申上候て明日致後詰御勝利を得させられ候様にいざ/\可致候 是以御母子公之御為と一同に申談し早川越前守が弟丹波守事工
         夫瓣舌の能者にて候間彼仁を遣し此旨申上候と内談相極め各連判の神文調口上には明未明に御城ゟ西之平に中黒の旗をさし立可申
        
 候 此旗を印に御懸り可被成候 後詰一時の間に御勝利を可被為得候 神主母子を御城内に入置申候砌御目見仕候何某々々にて御座候
         神文に各連印仕進上申候 此中一揆同前に罷居申候はてでは通りかたき譯に御座候故寄手に相加り居申候 今夜能折節にて御座候間
         御内通申上候と誰ぞ殿の御内に智臣の仁を頼み右之通申上候様にと一同に申含其夜の四つ過に密に丹波差運候處に丹州城戸に忍て
         夜廻りの者に御門外より御ために宜敷御内意為可申寄手之方より使に参り候者にて候 御前宜き御方是え被成御出候はゞ申上度候と被
         申可給候と申候へば丹波に人を附置此段申上候へば建部兵庫頭と申仁罷出候て何事候とあらゝかに被申候 丹波守いや/\不苦者に
         て候と申候て御門外より右之段々申達候て神文を渡候へば建部氏扨は候と被申候て請取則殿え右之通申上神文指上被申候へば被成
         御覧以の外御満悦にて無二無三の忠節の使とて被成御出御門内より御對面被遊御懇の御意にて明朝後詰の御約束御直に被為得其意
         候と被仰出候 譯罷歸丹波右之仁々江申聞候由に候 左様にて成政公建部に被仰候は阿蘇家頼之者共之中ゟ神文連判之密忠内通之儀
         天道の冥助に相叶候と被仰即刻御城内え被仰渡候は明日未明に御大将御直に西の手に被成御出候 西の手に中黒の旗見申候はゝ夫
         に向て弓鐡炮射かけ間敷候 此旗は味方候ぞ中黒の旗を目當にして各かゝれと被仰付置候 案のごとく翌朝未明に如申上候中黒の旗を
         押立候に付西之手へ御大将御切懸り被成候に後詰右之通仕候故に此手より崩立候て一たまりもたまらず寄手令敗北菊池香右衛門致自
         害候 甲斐武蔵は引取候落人に紛れ何地とはなく令逐電候を以後に捜し被出候て公義より被成御誅罰候 御大将御直に御高聲に被仰出
         候は軍法免候ぞ/\何れも前後を不論切懸れ/\と被仰候に付御城内の荒仕子等に至迄切て出令追討候故に二時ほどの合戦に上下
         二千三百八十餘人成政公被為御討取候て御勝鬨御揚被成候に後詰仕候者被召出被仰候は今度の密忠被成御失念間敷候 以後御取立
         可被下候間左様に奉存候時を奉待候へと被仰付候處に右之者共各一同に申上候由は私共儀は不苦阿蘇神主母子往々奉頼候と申上候
         へば被為得其意候 神主へは御朱印之外に可被成御寄附候 世上治定まではやつぱ城内え召置候へと被仰出候を両高森・北里・下城・
         西・坂梨・田上・迫・早川越前・同丹波・村山・渡邊軍兵衛一同に忝御禮申上候て先々在所々々江罷歸候由に候 後筆に書出し候通に成政
         公御落去被成候故阿蘇殿も下々右之者共も如此に成果候 其上阿蘇家頼右之通に有働家人之謀計状にめて私々の一揆を發し候を幼少
         の主人に及ほし於于今阿蘇殿謀叛と云名負無是非候 右之通成政公秀吉公へ被仰上候はゞ阿蘇殿は勿論下々右之者共も人並にて今に
         通り可申者をと是のみ無是非存申候由聞傳申候

                                        (巻二 了) 

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