「山わ希衣」は熊本の高名な国学者・長瀬真幸が文化四年、熊本城下から25~6キロほど離れた真木大神宮の参拝日記である。
上妻博之氏により書写され「上妻文庫」に収められている。
今般本会会員K氏がこれをとりあげられ、合志古文書の会で読み下しが為された。
さらにK氏が校正され、解説文や関連資料などを充実されたうえ、原文に釈文をならべ24頁に及ぶ冊子を作られた。
但しこれは上巻で、今日の史談会に間に合わせようとご努力をいただいた賜物である。
本日約90分の講演をいただいたが、大変面白く皆様の好評の内に終了した。少々時間がたりず講師K氏には御不満が残ったのではないかと少々心配をしている。下巻完成後又お話をお聞きしたいと考えている。
いつも会が終わると疲れがどっと出てしまうのだが、今回は皆さんの好評がそれを吹き飛ばしてくれる。よい企画であったとK氏に感謝である。
俳優・里見浩太郎が演じた松平長七郎長頼は、松平忠直が豊後の配流地で為した子の一人がそのモデルだとする話がある。
忠直の事を記した「一伯公傳記」には「其後當國(豊後)にて御妾三人召出さる。一人は本三川の産お鋼殿と申す。一人は山津村より出お菊殿と申す。一人は竹田領緒方より出おふり殿と申す」とある。
慶安三年九月十日配流地で亡くなったため遺族は忠直の嫡男、越後高田藩主・松平越後守光長が引き取る事となった。
慶安四年二月光長の家士ら惣人数百五十六人が下向し、おふりの方の三人の御子を始めとして付添いの女中などが越後に向かった。
■松千代殿 廿一歳 越後家にて永見市正長頼と号し三千石を領す・・・・・・・・・・・・・(この人物が松平長七郎長頼のモデル)
■熊千代殿 二十歳 同家にて永見大蔵長良と号し二千石を領す
■於かん殿 十七歳 同家の家老小栗美作正矩の室となる
後年越後高田藩ではいわゆる越後騒動と称する御家騒動が起きた。
市正正頼はこの騒動の前に亡くなっているが、その子・万徳丸、弟・永見長良、妹お閑と家老小栗美作の子・大六が継嗣のいない光長の後継をめぐって争った騒動である。将軍家綱の時代一応の決着を見たが、家綱の死去後綱吉は新たに再調査をし、小栗美作と子・大六は切腹、永見長良は八丈島に流罪となりここで死去している。
この事件に連座して小栗美作の弟・兵庫の幼子四人が細川家にお預けとなり、四十年程を質部屋暮らしを強いられた。
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徳川家康の孫・松平忠直の血は再び天下を揺るがす結果となった。