熊本大学文学部日本史学研究室編の「古文書学実習調査報告書10(2014年度)」を図書館で眺める。
ここに「史料19・見性寺文書-番外二」という文書が紹介されていた。見性寺は家老米田家の菩提寺である。
その文書は明暦二年閏四月二日付けの見性寺の石天和尚が長岡監物(米田是季)にあてたもので、
内容は「是季(三代)の嫡子與七郎が成人を迎えたので祝いを述べたいが、体調が思わしくないので回復してからお伺いしたい」旨を述べている。
この書状に別の史料が折り込まれていたというが、その内容は次のようなものである。
石天和尚ノ肉兄長谷川玄達ハ紀州公ノ医師也、玄達妻ハ牧左馬允ノ娘也、左馬允ノ奥方ハ雲祥院殿(是季)ノ妹(ママ)也
江州田中坊真賀法印ノ奥方ハ一条殿ノ娘也、雲仙庵殿ハ田中坊ノ娘也、時ノ准后ノメヒ(姪)也
花岡興輝先生のご労作「細川藩主要家臣系図」では、牧左馬允に嫁いだのは姉とある。はたして姉なのか妹なのか・・?
(ママ)とあるのはそのことを示している。
下の略系図は宮村典太の書写資料、「入江平内事」と題する七葉の文書の最終頁に附箋としてあるものだが、真賀法印とその子女の関係が判る。
入江平内の妻・シモは、ガラシャ夫人に近侍した人で後に「霜女覚書」を記したことで知られる。
光尚公の仰せにより、米田是政が義妹シモに依頼したことによるものである。