そもそも七つ紋とはどういうことなのか・・・・・
「背中+両後ろ袖+両胸」の「五つ紋」に加えて、さらに前の両袖にもつける事によりそう呼ばれている。
そしてこれは、細川宗孝公が江戸城中で、家紋を見間違えられて刃傷に及ばれ死去した事に伴う措置だとして、家紋そのものもいわゆる細川九曜に替え、七つ紋にしたと巷間に流布している。
細川家の家紋、「九曜紋・桜紋・桐紋・二つ引き両紋・松笠菱紋・石に鶺鴒紋」等の由緒にかんする「細い川家紋之事」という、文化五年(1808)の文書がある。
ここでは上記の「七つ紋」についてふれているが、延享四(1747)年宗孝公事件後の措置ということは考えられないように思える。
御當家之御紋七所御附被遊候御訳白金御用人より
問合来候返答之事
御當家之御紋七所御附被遊候儀如何様之御訳ニ而
殿方様 御代ヨリ被遊御附候との儀吟味様子申上候
様白金御用人より申来於江戸致吟味候得共相分
不申候付御國御右筆江十二月十八日申向候處左之通
以附札申来候付白金江其趣ニ而及返事候事
御紙面之通致承知候
御家七所御紋御用ィ被遊候御訳
殿方様 御代ヨリ御用被遊候との儀段々及吟味候
得共相分不申候御奉行中ニも申遣於政府も
吟味有之候得共相分不申候
一七所御紋之儀は御上下被為召候節御衣装之
御紋聢見へ候ため御用被遊候様薄々及承居候得
共是以 殿方様御代と申儀は承傳不申候
一帯刀殿主膳殿大部殿家ニ而も七所紋付被申候ニ付
佐弐役より右之家ニ問合相成候処帯刀殿主膳
殿家ニ而も如何様之訳と申記録等も無之由大部
殿家ニ而は上下着之節衣服之紋聢見候ため被
相用候由申傳斗ニ而是以何そ記録等も無之
由三人衆佐弐役江被申聞候由ニ御座候右之趣を以
白金江御申上候様にと存候吟味役彼是隙取
御報及延引申候白金御用人より之差紙も及
返却申候
御羽織五所御紋被遊候儀奉考候得共
御衣装七所御紋之本文之通之御談合ニ而も
可有御座哉と存候
妙応院御代相勤居申候堀内傳右衛門覚書
之内ニ
村井源兵衛は他國之者ニ而御家ニ被召拘候節えら
七所御紋被遊御附候を不審ニ存其噂いたし候
付御家之前ニより御衣裳ニは七所被遊御用有
吉家なとも七所被用候由申聞せ候得は合点
仕候由
七所御紋之事旧記なとニ而は右之付見当不
申候事
宗孝公の不幸な事件から約60年、「七つ紋」の由来さえ忘れられたかと思いきや、その説自体が存在しなかったというのが真実らしい。