現在では「真向き月紋」とか「繋ぎ月紋」とかよばれるが、細川忠興はこれをさ指し物につかい特に「銀の中くり」と称していた。
これが牧家の家紋となったが、そのいきさつは下記のようなものである。
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銀の中くり 世ニ銀の半月と申候得共、忠興君ハ中くりと被仰候
山鳥の尾ばつとしてくりの所を見へ隠れにて見事なりとなし、十五日合戦前より軍散する迄御差被成候、他の御大将衆は差物を大
方人ニ御持せ候由也、或時秀忠公御差物の儀を家康公ヘ被仰上候ハ、加藤肥後守か馬藺の差物か、羽柴越中守銀の中くりの差
物二ツの中御望ニ思召候如何可有御座やと御窺被成候ヘハ、家康公上意ニひとつハ差物なとハあやかりものニ候、肥後守もけな
けものにて指物も能候得共、太閤の代計の競也、越中守ハ信長以来数度の事に逢候上、先年小牧表の退口殊ニ見事成し越中守
差物可然との事ニ而、土肥大炊頭上使ニ而忠興君の御指物を被召上、後ハ御円居ニ成り銀の半月と号、大坂御陳ニも御持せ被
成候、同時大炊殿御申候ハ、武勇をあやかるへきとの事なれは、着用之甲冑も可被差上と也、忠興君、具足ハ着古し候、新しく縅
献候ハんと被仰、御召料之通縅立られ、其年の十二月被差上候 一説明ル正月
考ニ、中くりの御差物被召上候ハ大坂陳以後と云説有、誤成へし 元和元年の所ニ詳出
一書、山鳥の尾の立物をも御所望被遊候得共、引尾と申若き御大将ニハ御遠慮ニ被思召候とて不被差上と云々、又一説ニ
ハ、一色は家ニ残し申度よし御断被仰せ上候と云々、同書ニ、御差物銀なる故、御家中ニ御免なけれは銀の道具ハせす、御
国本ニ而後も差へきと思召けるにやと云々、又一書ニ中くりの御差物此以前牧左馬允ニ被為拝領候得共、公義江被差上候ニ
付、以後ハ家の紋ニすへき由被仰付候と云々、又武隠叢話 武辺咄共云 曰、関原御陳の時、御先手より越中守唯一騎にて御籏
本江被参候時、山鳥の尾の甲に銀の天衝 半月或は中くり の差物なり、遠方より見れは只其儘舞鶴の如し、家康公御覧被成、忠
興武具の物数寄世ニ勝れて見事なり、就中甲と差物の取合一段見事なりと被仰、則天衝の差物御所望被成候ニ付、台徳公
ニ被差上候也と云々、他よりハ天衝共申候哉、難心得候、又忠興君此時御先手より家康公の御旗本江御出被成たる事なく、
其上国の主武前ニて唯一騎往来と云事も時分柄とハ云なから信し難き事也、又同書ニ、台徳公御所望にて細川忠興より御
召の冑一頭被差上、則角頭巾の角の■(糸偏に包)と立たる形也、其冑を土井大炊頭利勝披露也、台徳公御意ニ入御感不斜
則越中守も御前ニ召種々御褒美也、時ニ御冑ニねりくりのうち緒を忍の緒に付たり、忍の緒ニハ麻布のくり緒か能と聞召被及
たるか、此うち緒か能かとの御不審也、其時越中守懐中より桐の箱を取出し、其内ニ麻布の忍の緒を入候と差上る、土肥大
炊頭ニ向て、打緒付置候は御祝儀ニ而御座候、是ハ御肌ニ付候物故別ニ仕置候、只今御前ニて付直し申候と申上候、台徳
公御機嫌也、此御冑を大坂御陳ニも被為召候と云々