五三の桐紋
丸に二つ引輌紋
「細川家紋之事」では、櫻紋・九曜紋・桐紋・引き輌紋・松蓋菱紋の由緒について述べられている。
その内の上の二つの家紋は共に足利将軍家からの拝領紋である。細川家記「綿考輯録」には、次のように記されている。
昨日兇徒等入洛之処 以手人数被追払 剰首三到来
感悦不浅候 為褒美紋桐引輌筋免之候 恐々謹言
正月五日 御名(義昭公)
細川兵部大輔殿
これは永禄三年京都相国寺に在った将軍義昭を三好・松永等が襲おうとした際の細川藤孝の働きに対しての感状である。
ただこの二つの紋は既に細川家の使うところであった。共に足利家の紋である。
この二つの紋の使用が認められていた細川家家臣がいる。西山家である。
その祖は最後の将軍足利義輝の子・足利道鑑であるから当然と言えば当然といえる。
息・西山左京(尾池傳左衛門)、その子勘十郎はそれぞれ千石・五百石を拝領していたが、「御家御断申、京ニ被相越候由」(綿考輯録・巻五十二)
勘十郎の弟・八郎兵衛氏房が細川家に残り明治にいたった。
家紋と共に一目置かれたことは言うまでもなかったろう。