荒木山城(左助 高則)に関する綿考輯録の記事である。
荒木高則朝鮮にて両度軍功を励し、弟荒木太郎助高基文禄二年二月朔日討死
(綿考輯録・巻11-P113)
岐阜戦功・首取候衆
田辺衆・高則、後号山城助左衛門并外斉等か親なり、今の助十郎小助運次等か祖なり
高則ハ、高麗・関ヶ原にても戦功有、慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死
(綿考輯録・巻14-P257)
(慶長六年)七月七日、於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応
(一書)・・・荒木左助ハ此時まて与十郎殿ニ居たりしか、高木貞盛之中脇差・御帷子ニ被
下候、後御直ニ成山城と名付られ候、父ハ民部大輔と云、祖父を山城と云、丹波士也、藤
孝君・忠興君・明智氏と共ニ嶺山の城御踏潰し被成候時、民部明智氏へ居候而振舞悪しく
候間、民部か事ハ何の仰もなく、祖父ニも負ぬ働したれは、荒木山城と御付被成候との事
なりと云々、荒木助十郎か家記ニハ、荒木山城守高子丹波の国荒木の城を守り、其子民
部大輔高兼共ニ甚武功を彰し、後明智光秀ニ属し、光秀生害の時、左馬助光春安土より坂
本に帰る道筋にて危きを助け、父子共ニ討死いたし候、高兼子高則此時十四歳、纔に残兵
三人を随て愛宕山下坊ニ入、其後丹後ニ赴く、藤孝公ニ仕て田辺ニ在、又忠興公ニ仕へ朝
鮮にて両度軍功を励、岐阜の城攻に両度鑓を合、関原ニて武功有、此働を御感賞、其日の
晩に及御腰物を被下と云々、翌年拝領の事ハ見江不申候 (綿考輯録・巻17-P411)
この「慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死」について、「盤桓随筆」の記事「荒木家之事」に記されていた。
ところが真実は「不慮ニ闇討ニ逢被申」とあり、病死ではなかった。綿考輯録も先祖附もこの事を隠しているが、事実は如何なるものか・・・・・・是非とも知りたいのだが。