津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■新国立のコンペについて 一建築士のたわごと

2015-12-23 10:52:46 | 徒然

 新国立競技場のデザインコンペティションは、やはりというべきか、伊藤豊雄氏が負けてしまった。
私は業者との組合わせをみて、最初から隈氏が勝つなと思っていた。デザインからいうと伊藤氏の圧勝ですよ。
そういう意味からすると、これはデザインコンペティションではなかったと言うわけだ。工期と工費で押したT建設+A設計と隈氏の作戦勝ち・・・・・
伊藤氏のいろいろな発言をみていると、その無念さは察するにあまりある。

JSCの幹部は「実現可能性が評価されて選ばれた計画だが、これだけ大きな事業なので計画どおり進まない可能性は否定できない」と話している。
決定早々もうこんな話だ。工期遅れのお墨付きが出た。それはまずいのではないか、そうなればエンブレム同様また議 論を呼びそうである。 

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■荒木山城、死の真実

2015-12-23 09:49:36 | 花押

 荒木山城(左助 高則)に関する綿考輯録の記事である。 
             荒木高則朝鮮にて両度軍功を励し、弟荒木太郎助高基文禄二年二月朔日討死
                                                    (綿考輯録・巻11-P113)
             岐阜戦功・首取候衆
             田辺衆・高則、後号山城助左衛門并外斉等か親なり、今の助十郎小助運次等か祖なり
             高則ハ、高麗・関ヶ原にても戦功有、慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死
                                                     (綿考輯録・巻14-P257)

             (慶長六年)七月七日、於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応
             (一書)・・・荒木左助ハ此時まて与十郎殿ニ居たりしか、高木貞盛之中脇差・御帷子ニ被
             下候、後御直ニ成山城と名付られ候、父ハ民部大輔と云、祖父を山城と云、丹波士也、藤
             孝君・忠興君・明智氏と共ニ嶺山の城御踏潰し被成候時、民部明智氏へ居候而振舞悪しく
             候間、民部か事ハ何の仰もなく、祖父ニも負ぬ働したれは、荒木山城と御付被成候との事
             なりと云々、荒木助十郎か家記ニハ、荒木山城守高子丹波の国荒木の城を守り、其子民
             部大輔高兼共ニ甚武功を彰し、後明智光秀ニ属し、光秀生害の時、左馬助光春安土より坂
             本に帰る道筋にて危きを助け、父子共ニ討死いたし候、高兼子高則此時十四歳、纔に残兵
             三人を随て愛宕山下坊ニ入、其後丹後ニ赴く、藤孝公ニ仕て田辺ニ在、又忠興公ニ仕へ朝
             鮮にて両度軍功を励、岐阜の城攻に両度鑓を合、関原ニて武功有、此働を御感賞、其日の
             晩に及御腰物を被下と云々、翌年拝領の事ハ見江不申候    (綿考輯録・巻17-P411)

この「慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死」について、「盤桓随筆」の記事「荒木家之事」に記されていた。
ところが真実は「不慮ニ闇討ニ逢被申」とあり、病死ではなかった。綿考輯録も先祖附もこの事を隠しているが、事実は如何なるものか・・・・・・是非とも知りたいのだが。 

                          

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