六ッ銕線紋
細川家が使っていた家紋に「六つ鉄線紋」があったと伝えられている。この家紋を山本三郎右衛門が拝領した。
その経緯について綿考輯録は次のように記している。
山本三郎右衛門
元亀四年岩成主税を御攻被成候時、御家に来り御合力十八人扶持被下候、直に忠興君に
仕て御懇也、九曜の御紋御付被成候後、夫迄の御紋六ッ鉄線を政倶に被下、定紋二仕候
と申伝候、丹後御入国之節、弐百石拝領、度々の戦功あり、関原御陳後、御召之御鎧・鞍
置馬を被下、御知行四百石に被成下(一ニ豊前ニ而五百石)その後加々山隼人被誅候時
三郎右衛門に被仰付、友次の御刀拝領仕候、三斎様御剃髪の時、山本も剃髪、宗の字を
被下宗覚と改申候、三斎様御逝去両年前ニ病死 (綿考輯録・巻五)
また、「松笠菱紋」についても淀の築山家が拝領したとある。
牧家の「銀の中くり紋」については何度かその由来に付いて記したが、残念ながら現在はお使いではないらしい。
朝鮮王族李宗閑は文禄の役の折捕虜として日本に至ったが、細川家は継嗣・慶宅に高本の姓と家紋を与えて細川家家臣となした。
「違い山に大の字紋」とでも呼ぶのだろうか、史談会の会員でもあるご子孫の高本先生はお使いではないという。
細川家家臣--高本氏
その他にも拝領紋だと仰るお宅があるが、確たる証拠がない。今後の課題としたい。
昨日PCはようやく使用可能に成りましたが、プリンターやスキャナーのワイファイ設定がうまくいかず悪戦苦闘しています。
スキャナーが動いてくれないと、三週間分ほど溜まっている「松寿庵先生」のお話その他、ご紹介したい資料が溜まりつつあります。
今日は何とかしたいと思っていますが・・・又忙しい一日に成りそうです。