津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御暇被下候面々之事

2015-12-19 17:48:34 | 史料

  盤桓随筆所収のこの記録は、「瀬戸雑記」から引用されたことが判るが、宣紀公の代に起こった10名の有力藩士の処分に係る記事である。
「熊本藩年表稿」にも記載されていない貴重なものである。一部の家の侍帳や先祖附にもその一端が伺われる。
原因はよく判らないが、大変厳しい処分であった。 

       千石   竹内吉兵衛         千石     田邊平助
       三百石  西沢文右衛門       三百石  臼杵杢之助
       千石   国友源次左兵衛      百石    藤掛梶右衛門
       三百石  芦田友之允         八百五拾石  竹内七郎右衛門
       弐百石  江村左七郎         百六拾石余  脇坂伊左衛門

       右は正徳四年五月廿二日御暇 右之内西沢文右衛門伜
       西沢文太郎儀享保三年二月七日五人扶持被為
       拝領 竹内七郎右衛門跡ハ右同日三人扶持被為拝領 脇
       坂伊左衛門嫡子井(ママ)坂■左衛門儀者享保十年四月十一日
       高瀬三蔵物書ニ被召出候也
         本行之通大勢一同之御暇ハ如何之訳ニ而候哉 永央 安田市助ニ
         咄之席ニ聞合申候処名前相分申候ハヽ書付見■■様被申
         候付■■処付紙ニて被申越則左之通
         此面々御奉行所御暇帳に記し有之候
         思召ニ不為叶なとと有之候ヘハ■■被分兼申候
         西沢跡は御切米取ニ両家有之代々相續ニ而正月十一日
         御鏡餅頂戴仕候有馬討死跡 脇坂ハ道家左近右衛門之馬
         乗ニて候 道家の本家幼年ニて相果断絶ニ付馬

         乗二人脇坂■■浅之助道家ニて取来候知行侭
         御直参と被召出置候 脇坂跡は井坂ニて今代々相続
         之御切米取ニて候 外ニ御昇組より御役人ニ相成申
         候脇坂某寺原ニ居申候 血脉ハこれの方ニ系■
         傳へ居申候 一家ニて紋は輪違を付申候 瀬戸雑記 

 

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■甘棠會主旨

2015-12-19 08:58:58 | 熊本

 明治10年九州の雄地熊本は、西南の役の戦地となり城下は悉く灰燼に帰した。多くの人士が亡くなり傷を負い住む家や財産をなくした。
そのような有様を目の前にして細川旧臣の有志が「甘棠會」を創立した。 
甘棠とは「民が為政者を慕うこと」の意である。
細川家旧恩の意を表すべく、出水神社の創建に尽力した。その甘棠會創立に当たっての主旨が述べられた文書を入手した。
当時の細川旧臣の熱い想いにあふれた文章で有る。
 

                                   甘棠會主旨
                      報本反始ハ人ノ通義ニシテ離者漸疎ナルハ亦世ノ常態ナリ
                      王政維新ノ後時運一變シ 藩主ハ版籍ヲ奉還シテ東
                      京ニ移住セラレ藩臣ハ食禄ヲ解レテ農ニ歸シ或ハ商
                      ニ歸シ若クハ文武ノ官吏トナリテ四方ニ離散シ舊藩主
                      従ノ分義全ク廢シ歳時相會スルノ期ナハ復タ誼ヲ保
                      チ信ヲ温ムルニ由ナシ 抑吾輩祖先以来茲ニ三百有餘年
                      細川公ノ恩澤ニ沐浴シ其眷過ヲ蒙ル事深厚ナリ 而シ
                      テ今ヤ時運ノ變遷ニ従ヒ各自ノ業務ニ■■シテ舊誼将ニ
                      冷却セントスルノ感ナキニシモアラス 是ニ於テカ同感ノ士相
                      集リ一致團シ一ニハ以テ舊藩主家ニ對シて報本ノ禮ヲ盡
                      シ一ニハ以テ舊臣カ漸疎ナル情ヲ温メント欲ス 豈ニ他意ア
                      ランヤ冀クハ同感ノ士来リ會セヨ 

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