■水戸徳川家と細川家 で書いたように、水戸光圀公の家来・佐々介三郎が大日本史編纂の為の調査に肥後に来訪した時、我が家の二代目が始終その道案内を勤めた。
この記事を書いた後、大先輩のM様から「神道古典研究所紀要・第七号」の 「大日本史編纂記録」に、佐々介三郎が国元へ送った報告書があるとお教えいただいた。
介三郎の来訪にあたっては、M家のご先祖様は細川綱利公の御使者を勤められている。
ぜひ読んでみたいと思っていたが、熊本県立図書館は再開の日程さえ明らかにされていない様な状況で閉館中、早々には読めそうにないと思っていた。
処が熊本史談会のお仲間K様が、これを地元図書館を通じ遠くS県の図書館から借り出された。
お二人のお力でこの「大日本史編纂記録」を早々に読むことができて感激している。
これは当家の二代目太左衛門が仰せつかったものであるが、佐々介三郎の書簡では「又市」と書かれている。
先祖附でも知りえぬ名前でびっくりしたが初名でもあろう。三代が又之允、六代も又之允、七代が又太郎であり、二代が又市と名乗ったことは大いにうなずける。
ところで肝心の書簡の内容だが、熊本に於いては阿蘇・大慈寺・成道寺・本妙寺・蓮台寺・妙解寺などを尋ねている中、大した収穫もないとしながら本妙寺で「日本紀竟宴和歌全二巻」(現・国指定重要文化財)を見つけ、「扨々見事成物ニ御座候」と大感激をしている。
介三郎には始終当家の又市を含め五人が付いて案内や馳走、国境までの見送りをしている。また熊本には縁故の人も多く、夫々の馳走に閉口しながらも旧交を温めたのだろう。
綱利公夫人が水戸光圀公の実の妹である故の厚遇であることも間違いないところであろう。