細川立孝書状 細川忠興四男宇土藩消息古文書古筆和本熊本藩武将
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細川立孝は立允と称していたが、寛永七年環俗して立孝を名乗った。正保二年五月に亡くなった。
一方上林(藤村)三入は「上林家文書」によると、初代幸盛であろう。寛永十五年二代目に家督を譲った折から「上林」を名乗ったといわれる。
仮にそうだとすると、寛永十五年から正保二年の間の書状となるが、藤村・上林両方を使っていた時代もあるようで、時代の特定は出来そうにない。
9・19 加筆修正
細川立孝書状 細川忠興四男宇土藩消息古文書古筆和本熊本藩武将
寛文九年十月細川忠利の末子長岡元知(南条元信養子)は、いわゆる陽明学徒の追放事件に関し、藩主綱利に対してその罪の軽からんことを諫言して不興をかった。
当時の奉行所日帳は「長岡左近(元知)殿儀、今日御前にて病気ニ御成候」と記し、後日の記録には「乱心・・・」とある。
家老職を解かれ、知行(5000石)を召し上げられ永蟄居となった。左近29歳、綱利27歳である。
この処分が解かれたのが元禄十年九月十五日だというから、28年のながきにわたった。この日綱利が左近の岳父・家老米田監物を訪れている。左近に直接あったかどうかは判らないが、綱利は「頭巾」をとどけたといわれ、これが永蟄居が許されたものと解されている。時に元知57歳、取り返しのつかない28年であった。
養父南条元信は、細川忠興の次男興秋の娘婿である。内室は家老米田是長女・吟、嫡子是庸はその米田是長の養子となって家を継いだ。
細川忠興---+---忠隆
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+-----興秋(与五郎)
| ∥
+--忠利---------------+---光尚---綱利
∥ |
∥ +---元知
∥ 南条元信室 ↓
∥---------鍋 =====元知
∥ ∥-----米田元庸・・・・→代々家老・米田家
氏家卜全----元政---● 米田是長---吟
室・南条元信女・伊千