津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川立孝書状 細川忠興四男宇土藩消息古文書古筆和本熊本藩武将

2016-09-15 17:25:37 | オークション

                 細川立孝書状 細川忠興四男宇土藩消息古文書古筆和本熊本藩武将 

                 細川立孝書状 細川忠興四男宇土藩消息古文書古筆和本熊本藩武将

出品者商品説明 

細川忠興の四男 細川立孝(初名は立充)書状一通 画像の花押コピ-は宮崎県史のもの 宛ての上林(藤村)三入は京都宇治の著名な茶商 細川立孝は晩年の忠興に溺愛され忠興の遺領である八千代城(七万石)を継承する予定でしたが父忠興に先立ち夭折したため子息行孝は宇土藩の藩祖となりました。江戸後期に本藩の忠利の系統が嗣子絶えた以降は現当主まで立孝系が元熊本藩主家として継承されております。
 
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細川立孝は立允と称していたが、寛永七年環俗して立孝を名乗った。正保二年五月に亡くなった。
一方上林(藤村)三入は「上林家文書」によると、初代幸盛であろう。寛永十五年二代目に家督を譲った折から「上林」を名乗ったといわれる。
仮にそうだとすると、寛永十五年から正保二年の間の書状となるが、藤村・上林両方を使っていた時代もあるようで、時代の特定は出来そうにない。
 
よくよく花押を見ると「立允」とある。そうなれば寛永七年環俗前の書状ということになり、三入がこの頃にも「上林」と名乗っていたことになる。
                                        9・19 加筆修正 
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■松寿庵先生・第203講

2016-09-15 11:56:19 | 史料
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■南条元知、28年の永蟄居から解放さる。

2016-09-15 07:18:39 | 歴史

寛文九年十月細川忠利の末子長岡元知(南条元信養子)は、いわゆる陽明学徒の追放事件に関し、藩主綱利に対してその罪の軽からんことを諫言して不興をかった。
当時の奉行所日帳は「長岡左近(元知)殿儀、今日御前にて病気ニ御成候」と記し、後日の記録には「乱心・・・」とある。
家老職を解かれ、知行(5000石)を召し上げられ永蟄居となった。左近29歳、綱利27歳である。
この処分が解かれたのが元禄十年九月十五日だというから、28年のながきにわたった。この日綱利が左近の岳父・家老米田監物を訪れている。左近に直接あったかどうかは判らないが、綱利は「頭巾」をとどけたといわれ、これが永蟄居が許されたものと解されている。時に元知57歳、取り返しのつかない28年であった。
養父南条元信は、細川忠興の次男興秋の娘婿である。内室は家老米田是長女・吟、嫡子是庸はその米田是長の養子となって家を継いだ。



   細川忠興---+---忠隆               
           |                
           +-----興秋(与五郎) 
           |      ∥           
           +--忠利---------------+---光尚---綱利
                  ∥         |
                  ∥         +---元知 
                  ∥  南条元信室      ↓         
                  ∥---------鍋 =====元知   
                  ∥              ∥-----米田元庸・・・・→代々家老・米田家
   氏家卜全----元政---●     米田是長---吟     
                      室・南条元信女・伊千 

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