津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■5ヶ月目

2016-09-16 09:22:05 | 熊本地震

 昨晩は中秋の名月、群雲に隠れていた月がきれいに姿を現したのは10時ころか・・・・
しばし高くに上がった月を見るが、乱視の私には名月もひずんで見えて形無しである。
そろそろ本震が起こった時間になるな~と思いながら就寝、秋の虫が忙しく鳴いている。

          未だ地の震うは止まず 螻蛄鳴く  津々

虫の声は誠に穏やかな日常そのものである。しかし陽が上がり周囲を見回すと、ブルーシートで覆われたお宅があちこちに見え、補修工事をする音が聞こえ現実に戻される。熊本市の最後の避難所も昨日で閉鎖となった。しかし益城や西原その他、まだまだ避難所暮らしの方は大勢居られる。
2、094回に及ぶ余震もまだ健在であり、とどまることを知らない。 

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■九代藩主・治年公逝去とその後継

2016-09-16 07:25:25 | 歴史

 天明七年の今日九月十六日に九代藩主治年公が亡くなられた。(実は十五日とする説あり)
この年は参勤の年で二月廿八日熊本発駕、四月八日江戸に入った。
同五月十五日には、「藩主吐血、其後浮腫生じ疲労加わる」状態となる。
九月四日になると、「藩主病篤きため、予め分家(宇土支藩藩主)和泉守立礼に相続許可の件」を願い出ることになる。 

治年公は宝暦九年四月廿五日熊本花畑館で誕生、生母は此井、虚弱な体質であったため世嗣となされたのは五歳になってからである。幼名胤次

治年公は若くして(29歳)で亡くなるのだが、三男二女を得られたがすべて側室の腹による。
度支彙函の「明和より天明迄法令條論」(藩法7・熊本藩)天明三年の項(354)に「若御前様八月六日御流産之段、八月廿五日御達」とある。(p626) 
若御前様と呼ばれるのは若殿の正夫人の事であるから、治年公夫人・埴姫であり、その埴姫が流産されたことを示している。
埴姫は宇土支藩藩主で名君として知られる興文公女である。三歳七ヶ月年上の姉様女房で、結婚は天明二年四月十一日である。わずか五年五ヶ月ほどの結婚生活であった。側室の男子も幼かったため、埴姫の実弟・宇土支藩藩主立禮を養嗣子とした(齊茲)。

家督後の「齊茲公天明八年御家督之上御書」の他に、「今度入国ニ付家中之者共へ申聞候趣、別紙書付相渡候状、組々えも可申聞者也」とする七月廿三日付の文書がある。(度支彙函・寛延より文化迄節儉號令19)

    我等儀先代之御不幸ニよつて不慮ニ家相續蒙仰、今度令入國難有儀ニは候得共、領大國候儀當惑感之事ニ候、
    然といへとも應五郎成長迄之内ハ、年寄共を初役人共と相謀り政務之儀心に任すべし、勿論先祖以来代々之掟
    は時勢を以斟酌し、近くは先々代(重賢公)以来之旨を相守候條可得其意事

家督の時期、先代治年の三人の男子嫡男年和は九歳、二男應五郎は五歳、三男淨丸はすでにない。上記文書には「應五郎成長迄之内は・・・」とあり、次の代は治年の二男應五郎に継がせることを示唆している。嫡男年和でないのが不思議だがその理由の詳細を知らない。年和は廿歳、應五郎は六歳でなくなり、次の代は実子の齊樹へ引き継がれることに成る。
齊茲の正式な文書として後継者を應五郎としている貴重な史料である。 

 


 

 

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