陣佐七が先祖のかげ(お蔭)にてぬす(盗)しても 命たすかり七よ日のつい
過日■米田家息女尾藤家に嫁ぐでご紹介した落書の内、上記の狂句「陣佐七」云々の内容についてお問い合わせが有ったので、承知している範囲でご返事申し上げる。
陣佐七とは、天草島原の乱で天草四郎を討ち取った陣(陳)佐左衛門の分家筋の五代目当主・佐七兵衛である。
佐左衛門はこの働きで一躍千石の大身となり、これは嫡男吉太夫も相続している。処がこの吉太夫「 承応二年十月 御暇被遺候 」とあり、寛文四年六月・御侍帳には「御知行御合力米御御扶持方被遣衆・三十人扶持」とある。原因は判らない。
功名の家であるから、嫡家は弟・半右衛門に300石を頂戴して家を継ぎ明治に至った。
同じく弟・佐次右衛門に新知200石が与えられて分家を創家したが、佐次右衛門の曾孫であるこの佐七(佐七兵衛)に至り絶家した。
御歩頭などをつとめたが、「明和三年十一月廿八日 御知行被召上候」という処分を受けている。
資料としては、明和四年六月付の在宅願頭書(熊本市史資料編第三編p249)がある。
陳左七兵衛御吟味之筋有之、明間ニ被留置候内、家内堀矢門屋敷借宅之処差違
不申候而難成、左七兵衛弟寺川喜七郎より見締申候付、左七兵衛知行所之明屋
ニ引取せ、幸喜七郎在宅近所ニ付、相慎居候内なから右願之通達ニ成候事
先祖附を見ても詳細を知ることは出来そうにないが、いずれにしても図書館の資料を見ることが出来ずお手上げ状態である。
この狂歌の最後の「七よ日のつい」がよく理解できないが、「七夜(または余)日の費」かな~と考えてみたが牢にでもいれられたのだろうか?
いつの日か真相にたどり着きたいと思っている。