津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■何を仕出かした佐七殿

2016-09-22 17:57:13 | 歴史

        陣佐七が先祖のかげ(お蔭)にてぬす(盗)しても 命たすかり七よ日のつい

過日■米田家息女尾藤家に嫁ぐでご紹介した落書の内、上記の狂句「陣佐七」云々の内容についてお問い合わせが有ったので、承知している範囲でご返事申し上げる。

陣佐七とは、天草島原の乱で天草四郎を討ち取った陣(陳)佐左衛門の分家筋の五代目当主・佐七兵衛である。
佐左衛門はこの働きで一躍千石の大身となり、これは嫡男吉太夫も相続している。処がこの吉太夫「 承応二年十月 御暇被遺候 」とあり、寛文四年六月・御侍帳には「御知行御合力米御御扶持方被遣衆・三十人扶持」とある。原因は判らない。
功名の家であるから、嫡家は弟・半右衛門に300石を頂戴して家を継ぎ明治に至った。
同じく弟・佐次右衛門に新知200石が与えられて分家を創家したが、佐次右衛門の曾孫であるこの佐七(佐七兵衛)に至り絶家した。
御歩頭などをつとめたが、「明和三年十一月廿八日 御知行被召上候」という処分を受けている。
資料としては、明和四年六月付の在宅願頭書(熊本市史資料編第三編p249)がある。
          陳左七兵衛御吟味之筋有之、明間ニ被留置候内、家内堀矢門屋敷借宅之処差違
          不申候而難成、左七兵衛弟寺川喜七郎より見締申候付、左七兵衛知行所之明屋
          ニ引取せ、幸喜七郎在宅近所ニ付、相慎居候内なから右願之通達ニ成候事

先祖附を見ても詳細を知ることは出来そうにないが、いずれにしても図書館の資料を見ることが出来ずお手上げ状態である。
この狂歌の最後の「七よ日のつい」がよく理解できないが、「七夜(または余)日の費」かな~と考えてみたが牢にでもいれられたのだろうか?
いつの日か真相にたどり着きたいと思っている。

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■関ヶ原以後

2016-09-22 10:10:39 | 歴史

関ヶ原合戦に於いて細川忠興は黒田長政と共に石田三成の側近・島左近と対峙した。家康の側近・井伊直政の抜け駆け(?)で始まった戦いは、小早川秀秋の裏切等で西軍が大崩して敗走、九月十五日の内に決着した。
九月十八日、忠興は徳川家康から軍功を賞せられて丹後への帰国を命ぜられている。

一方父幽齋は前田主膳正(勝茂)の案内で、同十八日籠城していた田邊城を出て主膳正の亀山城へとむかった。
途中桧山(現・京丹波町)で一泊し十九日には亀山城の本丸に入った。すで忠興の情報が入っており、大津に在ることが伝えられた。
幽齋は翌早朝半里ほど東の馬堀(亀山市)まで出向き、忠興一行を出迎えた。
忠興は父幽齋が生きながらえて田邊城を出たことに得心していない。幽齋は「三度まで勅使を受けて下城せし者 我等ならで外には有間敷」と述べ、忠興は涙を流し平伏したという。
私はこのことは一方的な受け身の話ではないと考えている。■再び「慶長五年七月晦日 真田昌幸宛石田三成書状」 でも見て取れるように、かなり早い段階でこの結末が予想されている。前年まで田邊城内には、天皇の勅勘を蒙っていた中院通勝が在城していたといわれ、その斡旋が有ったともいわれている。出来レースの感がある。

その後忠興は、田邊城攻撃の総大将・小野木公郷がいる福知山城をを家康の許可を得て攻めている。
公郷は井伊直政や前田勝茂らの斡旋で開城したが、忠興の強い申し入れによって切腹せしめられた。

忠興はその後豊前国を拝領することになるのだが、関ヶ原開戦前には但馬一国を進呈する旨を家康 から約束されていた。   
   今度上方鉾楯付而無ニ被迎合候儀祝着存候
   然者丹後之儀者不及申候 但馬一国無異議
   進置候 尚金森法印・津田小平次可被申候間
   不能具候 恐々謹言
     八月十二日
             家康(花押)
       丹後宰相殿

このことは結果反故にされたわけであるが、その要因は井伊直政にあるといわれている。
井伊直政が小野木公郷の助命を家康に強く進言していたことが受け入れられなかったことによるとされる。

老後も京都に大変執着していた忠興(三齋)であるが、当時この結果をどう受け止めたかを思うと少々興味深いものがある。
新暦・旧暦のちがいはあるが416年前の出来事である。

  

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