先日の地震で壊れた奉行丸の塀です。右手の道は行幸坂に並行する南大手門(右奥)へ至る坂道、奉行丸に至るにはこの南大手門を通って迂回することになります。
かってはここに奉行所(政府)が有りました。 ■御奉行所の発足 で絵図をご紹介していますが、この絵図の東側(下側)が写真の塀にあたります。
石垣が緩んだところもあるのではと心配が募ります。
江戸期 『 熊本藩6代藩主 細川越中守重賢 書簡 』 古文書
残念ながら文頭部分の料紙が切れ落ちている。人気があるらしくすでに多くの方が応札しておられるようだ。
宛名の牧野越中守とは奏者番を務めた牧野貞喜のことか。時代がはっきりしないが、諸資料から安永九年の事だと思われる。
御代々様御参勤御帰国 (7) 重賢公をみると、「七月廿五日御暇」に該当するのは「(安永)九年 七月廿五日御暇被仰出 同廿八日御礼 八月廿二日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行 九月九日大坂御着室路御越室湊より御乗船 小倉路御通行 十月二日熊本御着」のご帰国であろう。
安永六年の参勤(二月廿八日熊本御発駕 小倉路御通行大里より御乗船 室路御越 三月十七日大坂着 美濃路東海道御旅行 四月三日江府御着)以来病気味にて江戸定府が続き久しぶりの帰国である。時に重賢公61歳である。