新・熊本市史の地図編に四編の「二ノ丸之絵図」が収められている。この四編の絵図を比較していると時代の流れも感じて興味深い。
二の丸には絵図の如くいわゆる高級家臣の屋敷が立ち並んでいた。
実は法華坂を上りきった所に「住江門」が存在していたのだが、いつの頃その名が付いたのかが判らずにいた。
随分以前からこの場所にあり、住江氏がこの場所(0)に住んだことによって付いたのかもしれないし、謎ではある。
忠利公の時代法華坂では某事件により志水伯耆(p)と米田監物(c)の間で騒乱寸前となったことがある。この時代にはこの門は在ったのだろうか?
四つの時代の屋敷の変遷をながめてみた。
(1)明暦期 (2)元禄前後 (3)宝暦年後半 (4)天明年前後
a 清田儀左衛門尉ヨリ上・・・→御用屋敷・・・・・・・・・・→( bに吸収 )
b 芦村惣兵衛・・・・・・・・・・・・→住江甚右衛門・・・・・・→長岡岩之助・・・・・・・・・・・→長岡右門
c 長岡監物(足屋敷二軒共)→同左・・・・・・・・・・・・・・→同左・・・・・・・・・・・・・・・・・→長岡丹波
d 平野茂左衛門・・・・・・・・・・→氏家甚左衛門・・・・・・→学校(時習館)・・・・・・・・・→学校(時習館)
e 川喜多九太夫・・・・・・・・・・→川喜多治部右衛門・・→( 時習館敷地となる )
f 長岡佐渡守・・・・・・・・・・・・→高見三右衛門・・・・・・・→沼田勘解由・・・・・・・・・・→沼田熊五郎
g (不明) 竹内吉兵衛・・・・・・・・→沼田勘解由・・・・・・・・・・・→沼田熊五郎
h 尾藤金左衛門・・・・・・・・・→尾藤助之丞・・・・・・・・・→有吉万之進・・・・・・・・・・・→松井土岐
i 松井帯刀・・・・・・・・・・・・・・→同左・・・・・・・・・・・・・・・→松井主水・・・・・・・・・・・・→松井帯刀
J 竹内吉十郎・・・・・・・・・・・→小坂半之丞・・・・・・・・・・→西山多膳・・・・・・・・・・・・→長岡丹波添屋敷
k 尾藤貞右衛門・・・・・・・・・→田中忠介・・・・・・・・・・・・→溝口蔵人添屋敷・・・・・・→長岡助右衛門添屋敷
l 牧丞太夫・・・・・・・・・・・・・・→松野半右衛門・・・・・・・→ 同上 ・・・・・・・・→ 同上
m 住江求馬・・・・・・・・・・・・→志水三右衛門・・・・・・・・→溝口蔵人・・・・・・・・・・・・→米田波門
n 田中左兵衛(足屋敷共)・→ 同左 ・・・・・・・・・・・→田中兵庫・・・・・・・・・・・・・・・→田中左兵衛
o 中村伊織・・・・・・・・・・・・・→中村庄兵衛・・・・・・・・・→住江甚右衛門・・・・・・・・・→ 同左
p 志水伯耆・・・・・・・・・・・・・→柏原新左衛門・・・・・・・→小笠原備前・・・・・・・・・・・→ 同左
q 下津縫殿助・・・・・・・・・・・→下津求馬・・・・・・・・・・・→小笠原備前添屋敷・・・・・→ 同左