四ヶ月ほど前、わが史談会に新しい会員M氏をお迎えした。肥後金春流中村家のご当主からのご紹介での入会である。
中村様は史談会の創設者であり、長い間その運営に携わってこられたが数年前不肖私が事務局を受け継いだ。
いつも史談会の事を思っていただきただただ感謝である。
M氏は祇園宮(北岡神社)の能楽師・友枝家のご子孫の御一人らしく、由緒を記す文書があって読み下しの依頼を受けた。
友枝家は喜多流のシテ方職分として名を成されたが、その友枝家の近世の一時期を窺い知る貴重な文書であった。
友枝家の能
話は変わるが、私が興味を持っている朽木家の定彦氏の順養子に係る文書が次々にヤフオクに出品されて悩ましい限り出る。
関係する人物の一人に松井家分家(古城家)の典礼なる人がある。
文久二年のことだが祇園社では奉納能が催されることが決まり、友枝小膳なる人物が「石橋」を演じることとなった。小膳は江戸の喜多流宗家に出かけて数か月修行に励んで相伝を受けて帰国した。
前年細川家龍之口邸においては藩主(韶邦)が中将任官の御祝能が催され、喜多六平太が「石橋」を勤めたという。
その折用いた「赤頭」を松井典礼が拝領した。
そこで友枝小膳は松井家に対して「赤頭」の借用を願い出た。ところが松井家は「何か小膳が松井家に対し心得違いの儀があった」としてなかなか貸してくれない。後援者が再三松井家を訪れ懇願したがこれも徒労に終わった。友枝善右衛門等同門の人たちが同道して改めて借用のお願いをした。典礼は「小膳へは遣わす事罷成らぬが貴所等へなら進上致す」との返答で進物として拝領したという。
祇園宮の奉納能における小膳の舞は見事なものであったという。
後に関係者が改めて返礼のため松井家を訪れたことは言うまでもない。(出典:熊本御城下の町人 「赤頭のもつれ」から)
尚、韶邦の中将任官は万延元年であり、引用文との齟齬が見受けられる。
松井家と友枝家の関係はその後も友好的であったことが 友枝家の資料からうかがえる。