能 天下統一の業を進めた信長・秀吉・家康をはじめ、当時の武将には猿楽の愛好者が多く、みずから演能する達者な大名も少なくなかった。したがってこの時代から非常な隆盛を見せることになるが、能がいわゆる武家の式楽化するにつれて、芸術的には初期の慶長頃から発展性を失いつつあり、隆盛といわれるものの、内容は普及が主なものになったようである。それはともあれ、細川家も幽齋以来、歴代能の愛好者であったし、したがって家中の武士にも筆頭家老松井康之・興長はじめ堪能な者が少なくなかった。とくに幽齋や忠興は、足利義昭・信長・秀吉・家康に近かったから、能役者の中心である四座の役者たちの演技に接する機会も多く、その鑑賞眼は高かったようである。たとえば忠興は、寛永八年三月の手紙の中で宝生勝吉について「其もの花金剛(鼻金剛・金剛氏正)子にて候故、五段之埒を不破次第をよく舞申候、中にも四段目之かへり足の所、扇之取様能御入候、宝生入道仕か本にて候、能可披見候」と演技の細部の見どころまで注意を与えたり、同じ手紙で、喜多長能の能が上達しないのは、結局不精、つまり稽古不熱心の故だと厳しい批評を下したりしている。また別の手紙に、「鵺(ぬえ)」の仕舞の所作について、観世宗節の書物に普通のと異なった形付が記されているが、太刀を拝領して持ち帰るとき、左手に持つか右手に持つかを小笠原長元に尋ねて詳しく書付けて送るよう忠利に依頼している。小笠原家は松井家などに次ぐ細川家の重臣で、これも能の嗜みが深かったのであろう。
細川家で能が演ぜられるのに種々の場合があった。最も単純なのは藩主の慰みの場合もあれば、単独の場合もあれば、同時期に江戸なり国許なりに滞在している時には親子そろって楽しむこともある。みずからシテを勤めるほか、家臣中の堪能な者が参加を命ぜられた。囃子方は太鼓、鼓などに役者を抱えていたほか、これも家臣中の心得ある者に命じた。一家の内で演じている間は慰みであるが、他人を招くとなると社交の意味を持つようになる。寛永八年、当時まだ六丸と称した光尚が、はじめて将軍家光に面謁した後、祝儀の能を催したり、幕府年寄衆を屋敷に招待したり、あるいは少年の光尚を主人役にして、土井利勝の子供を招待するということもあれば、島津家久が参勤で帰国するからといって暇乞の能に招待されるということもある。その間、江戸状中でも何かといっては能の行われることが多かった。このように頻繁に能が上演されると、各家で抱えている能役者はもちろん不足する。忠利も幕府年寄衆の招待の時には喜多七大夫長能を呼んでいるが、江戸の能楽師たちは多忙を極めた。当然諸大名からの報酬も多額にのぼり、彼らの生活は驕奢をきわめ、観世新九郎豊勝の京の家の立派なことは驚くばかりであったという(寛永八年三月忠興書状)
大名家では、島津家が禁中能大夫虎屋長門を抱えたように、既成の能役者を召し抱えることもあったが、細川家でははじめそのようなことはなかった。京都在住の能役者たちに相当の扶持を宛行っておき、必要時には呼び下すようなことをしたらしい。元和九年に梅若六郎を小倉に招いたこともあり、忠利は六郎とその子九郎右衛門とは親しかったようである。
しかし寛永四年八月、忠利は新しい能の師として中村政長に入門し、起請文を書いた。(中村家文書)政長は四座には属さないいわゆる「近代シラウト芸者」(四座役者目録)であるが、肥後の加藤忠広に抱えられ、この時は家を子の正辰に譲って自分は自由に活動していた。翌々寛永六年十月、政長は忠興に謁し彼に能を教えた金春安照からの相伝の書物を見せ、また二日間にわたって「高砂」以下の能を演じたが、忠興はそこに安照の芸風を見出し、少々初心のところを直せば誰にも劣らぬ上手になるだろうと評している。(政長宛幷忠利宛忠興書状)やがて寛永九年加藤家が改易となり、そのあと細川家が肥後を領することになると、正辰は千石の高い知行で士分として細川家に召し抱えられ、以後江戸時代を通じて細川家における「能の家」として活躍した。(表章「肥後中村家能楽関係文書について」)
慶安二年 の七月、藩主光尚の病気回復を祝って江戸邸で能が催され、この時正辰は父政長もついに演ずることのできなかった大曲「道成寺」を勤めることになった。当日は能には口のうるさい永井日向守直清も招かれてくることになっており、光尚はじめ家中一同正辰の顔を見ると「大事ぞや大事ぞヤ」というので、彼も落ち着かない。時間は当日江戸状中で能があるので役者を揃えるため夜能ということになった。
当日の役は脇を金剛座の高安太郎左衛門、金引きは金春座の春日四郎左衛門、大鞁観世勝九郎、太鼓金春惣右衛門、小鼓観世清六、笛観世少兵衛という一流の顔ぶれであった。いよいよ上演の段になると、馴れているはずの高安太郎左衛門さえぶるぶると震えているので、家中の者たちは案じたが、幸い正辰は少しの粗相もなくこの難曲を演じ終り、永井直清からも光尚からも賞詞を得て面目を施した。(綿考輯録)
このように江戸は、一つの文化的坩堝(るつぼ)の役割も果たしていたのである。