茶湯 細川家歴代の当主は、とくに茶湯の嗜みが深かった。それは忠興が千利休の高弟で七哲の一人に数えられ、その茶湯の系統を三齋流とよぶほどだったからである。したがって前からたびたび触れているその書状には、政治向き以外では茶事にふれたものが甚だ多い。
茶事はひとりで、あるいは親密な内輪だけの催しならば、風雅な遊びである。これは精神的な修練を加えてみても、それはその人間の内面の問題であろう。しかしこれが他に客を招待しての茶会となると、前述した能と同様に社交の場としての意味が加わり、事実またそのような茶会が甚だ多かった。
江戸で茶の数寄が流行しはじめたのは元和三年~五年の頃かららしい。細川家でも土井利勝はじめ幕府年寄を招待したり、浅野長晟を招き、その相客に心を配るというようなこともあり、秀忠・家光など将軍家から招きを受ける機会も多かった。
茶湯にとって欠かせないのは茶道具である。床懸けの軸物・花活・茶碗・釜・茶杓などそれぞれに工夫を凝らさなければならない。細川家には家蔵の名品も多いところから、父子間で家定筆の和歌・春甫の墨蹟・利久作の竹筒の花入「車僧」などをめぐって色々と説明や批評が交わされる。目利として掘出物を誇るのはこの道の常であるから、将軍秀忠が掘出しの「紫の茶入」のひらきに招待してくるかと思うと、忠利も掘出物の肩付を忠興に見せに来る。時には偽物をつかまされることもあり、忠利から利休の茶杓といって送られてきたものを「利休の手にもとられさる茶杓にて候、しらぬ物か似せたる物也」と忠興が極評するという具合で、道具にたいする関心はことに深かった。
利休の茶の本旨は詫び茶であろうが、富と権勢を誇る時の支配者たる将軍や大名たちの社交の場となれば、それは名物の茶道具を揃えて誇示するという風のものも多くなってくる。それは招待客が貴人であればあるほど著しくなる道理である。江戸大名たちの間での再興の貴人といえば、それは将軍家であるから、将軍や大御所を大名屋敷に迎えて接待する、いわゆる「御成り」は最高の名誉であり、その饗応は 善美をつくしたものになった。将軍家の御成は、三代将軍の時代になってから御三家・有力大名にたいして相次いで行われたものであるが、細川家は、この頃二代忠利・三代光尚と当主が比較的続いて没するという不幸があったために、ついにそのことが無いままに終った。しかし家格からすればおそらく当然迎えたであろう家柄である。そこで最高の儀礼的社交の場としてのその様子を、他家の例ではあるが簡単にみておこう。
寛永元年四月五日、家光が蒲生忠郷邸に臨んだ時の情景を、『徳川実記』は次のように記している。
四月五日、松平下総守忠郷の邸に初めて臨駕あり、水戸宰相頼房卿、藤堂和泉守高虎御先にまかりむかへ奉る。兼日この設として御成門を経営す。柱には金を以て藤花をちりばめ、扉には仙人阿羅漢の像を鏤(ちりばめ)る、精微描絵のごとし、当時の宏麗壮観その右に出る者なかりければ、年へて後までも衆人此門を見に来るもの日々多し、字して日暮しの門とはいへりとぞ。此日快晴なりしに、堂室便座簾■(巾に莫)闈帳錦羅衆人の眼を驚かさざるといふ事なし。ことに宋徽宗宸翰鷹の掛幅、達磨の墨蹟をはじめ、書画・文房・茶具古今の奇珍を雑陳せり、実(げ)にや忠郷が祖父宰相氏郷は、織田殿の聟にて封地百万石にあまり、殊更和歌茶道の数寄者にて、賞鑑の名高かりしかば、和漢の奇貨珍宝を蓄積する所理りなしとて皆人感賞す。床には柴船という明香を、大麒麟の銅炉にくゆらせたり、御饗の酒肴山海の珍味をつくし、配膳はみな近習の輩をしてつとめしむ、御膳はてて庭上におり給へば桜花猶咲のこり、(中略)時に忠郷御路地口よりいで迎へ敬屈し、先導し数寄屋に請じ奉り御茶を献ず。頼房公・高虎も伴食す、石砌及び水盤、燈籠等苔滑に薛羅(せつら)はひまつはりしを以て、いつの間にかく古色をたくはえしとてことに御感あり、御茶はてて猿楽御覧ぜらる、供奉の輩にも供給のさま供御に滅せず。(後略)
引用が長くなったが説明の要はあるまい。他家の例からみると、これに大名側からの献上、将軍側からの下賜が加わることが多く、それに饗応・茶事・猿楽と続くのが恒例の型となっている。御成の行事は当時の大名のもつ文化的教養の集約的表現とをみりことができよう。