津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(四)

2017-04-16 10:12:33 | 熊本地震

 南蛮趣味 忠興の妻明智氏は、キリシタン史上に有名なガラシャ夫人である。彼女のキリシタン改宗は天正十五年(1587)忠興の九州出陣中のことと伝えられるが、帰陣した忠興は入信に強く反対したといわれる。明智氏の入信には、忠興の弟興元(茂木細川家の祖)が一時キリシタンであったことが影響しているというが、このような環境の中にあって忠興自身はついにキリシタン信仰にははいらなかった。しかし禁教令のまだゆるやかな段階では、家臣団中にもキリシタン武士はいたようである。その多くは幕府の禁教令の強化とともに忠興・忠利が棄教を命じたのに従ってキリシタンから離れたと思われる。しかし中にはあくまでも信仰を棄てずに、殉教した者もあった。忠興が諱の一字を与えたほど重用した加賀山隼人正興長良はその例で、元和五年(1619)妻子一族と共に小倉で処刑されている。
 キリシタン信仰に伴って渡来したいわゆる南蛮風俗は、信仰と離れて当時の一つの流行であった。これには忠興も強い興味をもち、種々の珍奇な品物を入手して使用していたようである。具体的な使用法などについては微証を欠くけれども、忠利と取り交わした書状中には「南蛮のねどこ」「南蛮の鏡」「南蛮手拭」「南蛮の料理」「南蛮の酒」「南蛮の漬物」「南蛮の笛」「南蛮の花の種」などの文字が散見するし、ビロードの陣羽織や、「かるさん」なども着用していた。手紙の様子では、忠利もこれらのものを使用しており、両者の間で融通しあっていたように思われる。
細川家の南蛮趣味で特に目につくものの一つに、ローマ字印の使用がある。ローマ字印は大友・黒田その他の大名に使用例が知られており、それ自体はとくに珍しいものではないが、細川家では忠興・忠利・光尚の三代が揃って使用しているほか、家中の重臣層の中にまでその風が広がり、ローマ字印の使用者がいた。忠興は眼病のそこひを患っていたので時々視力が悪くなることがあり、書状などに花押を署するのに都合が悪いときこのローマ字印を押捺したことなどが用例上判っているが、忠利などは決裁する書類や帳簿に一面に押印して了承の証としたものが多数残存している。また藩の重臣層が下僚の伺にたいして合議決裁を下した場合、その決済の各条に承認の印を連印している中に、細川藩筆頭家老の松井興長や小笠原長元らのローマ字印が使用されているのも珍しい例であろう。ローマ字印の使用された期間が、他家の場合何時頃までであるのか今知識がないが、一般的には禁教の強化と共に早く使用を避けたのではないかと思われる。しかし細川家の場合は寛永年間を通じてその使用が続けられているし、その使用が最終的に停止されたのは慶安元年(1646)六月になってからのことであった。すなわち、この月家老の長岡佐渡(松井興長)が国許家老へ宛てた書状中に、藩主光尚がそれまで使用していた南蛮字の印判の使用を止めたので、自分仕様の南蛮字印判も当月十一日限りで改替する旨を告げ、「其元之衆何れも南蛮字之印判之分は御替候様に承候」と、光尚の意向によってローマ字印の使用を止めるよう指示した。おそらくは、細川家のローマ字印廃止は最も遅かったのではあるまいか。

                   参考:熊本大学学術リポジトリ「細川家のローマ字印」 

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■熊本地震1周年

2017-04-16 09:07:14 | 熊本地震

 昨晩から一年前のブログを読んでいる。車中泊のつらさや度重なる余震、重労働の水運び、給食の配布に並んだことなど走馬灯のように浮かんでくる。一日も欠かさずよく書き残したと思っている。
全国の皆様から思いがけない励ましのお言葉や、救援物資などもお送りいただいた。改めて深く感謝申し上げたい。
ようやく熊本城天守閣の復旧工事に手がついた。天守閣の完成までは何とか元気でいたいものだ。
石垣は復旧までは20年かかるとも言われている。数万個の石を元の位置に戻すというのだから気の遠くなる作業である。

しばらく静かであった余震が、この時期になって小さいながら集中して起こっている。
まだこわれていない断層があるとかで、5~6クラスの余震の可能性があると伝えられている。
もう本当に願い下げにしてほしい。
鎮魂の日は良いお天気になった。外では幼い子供たちが元気な声を上げて走り回っている。安らかな毎日が続くよう願わずにはいられない。
 

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