東京大学史料編纂所教授・法政大学名誉教授の村井益男氏が、「江戸時代図誌」シリーズの(4-江戸一)に於いて「大名の文化生活‐細川家三代を中心として」を発表しておられる。少々長きにわたるが労を惜しまず数回に分けてご紹介する。
大名の文化生活ー細川家三代を中心としてー
一、江戸と武家文化
近世の江戸文化について、西山松之助氏はこれを三つの類型にわけて考えられると指摘しておられる。すなわち時期的には、(一)十七世紀、(ニ)十七世紀末から十八世紀初頭にかけて、(三)十八世紀から十九世紀にかけてと、三区分され、文化の性格としては(一)は武家文化、(ニ)は武家的文化、(三)は市民文化あるいは町人文化、と規定し得るという。本稿において以下少しく述べてみようと思うのは、このうちの(一)十七世紀の武家文化に関するものであるが、ここにいう武家文化とは、同氏によれば「新しく貴族化した武士たちの社会に、莫大な文化人口が創出され、そこに伝統文化・武家文化の広汎な展開が見られた」という枠組みをもつものである。江戸における武家文化展開の基盤として、これをもう少し敷衍すれば次のようにも指摘できよう。
第一には、彼ら自身一定の文化の担い手であり、かつまた巨大な文化的需用の起動力でもある大名領主が、江戸に集中した点である。慶長五年(1600)の関ケ原合戦の勝利、慶長八年の江戸幕府創設という過程で、それ以前からすでに進行しはじめていた外様大名の江戸参府は定着したものとなった。また一族・近親者のうちから証人を選んで江戸に置くことが一般化すると、その証人たちの居宅として、また大名の在江戸中の住居として、幕府は江戸城周辺に邸地を与えたので、諸大名の江戸在留期間は次第に延長し、それはやがて寛永の「武家諸法度」による大名妻子の江戸定住の強制・参勤交代制の確立によって、大名の生活の主たる舞台は江戸ということになった。
第二には、大名の姻戚関係のもつ意味である。「寛政重修諸家譜」などの系図をみれば判ることであるが、戦国・安土桃山期の大名の妻は、一族・有力家臣または同盟関係にある近隣豪族の家から迎えることが多い。しかし江戸時代に入ってからの結婚は、このような地縁・血縁関係をこえて拡大する。かりに藩地は東北と九州に離れていても、生活の主要部分は江戸に集中しているのであるから問題にならぬ訳である。したがって徳川家は京都の宮家・公家と婚姻を結び、有力大名の女は将軍家養女として他の有力大名に嫁ぎ、親藩・譜代大名と外様大名、外様と外様、譜代と譜代という風に家の格式に応じて網の目のように交互にからみあった婚姻関係が成立してくる。もちろん個々の婚姻成立の背景には、それぞれ政治的思惑のからんだものも少なくない訳であるが、それはそれとして、結果的には表側からみればそれぞれの親藩、譜代、外様の別を残しながら、内側では領主層としての一体化・親密化が強化されているとみられよう。そしてこれら大名社会の奥向の世界、女性の世界が江戸に開けてきたことも、江戸の文化に一定の影響を与えたと思われる。たとえば尾張徳川家に伝えられた「初音の調度」(三代将軍家光の女・千代姫の婚礼調度)などにみられるように、その調度の主がたとえ三歳の童女であり、実際には使用されなかった装飾品であったにせよ、やはりそれは当時の大名社会の需用が生み出した一つの文化的産物であるといえよう。
第三には、江戸が大名・領主層の主要な居住地となったことによって、彼らの文化的要素をみたすために学問・技芸などの所有者が江戸に吸引されたことも重要であろう。個々の大名については触れないが、幕府の場合でいえば儒学の林家、歌学の北村家、刀剣の本阿弥家、漆工芸の幸阿弥家、絵画の牧野家、能楽の四座各大夫家などを呼び下しているのがそれで、彼らは幕府将軍家の要求をみたすのを基本としながらも、それだけに限らず余力をもって他の諸大名家などにも出入りし、文化の供給者となっていた。
以上述べてきたような江戸の条件を考慮しながら、以下に大名細川家の文化生活をみてゆくのであるが、その前にまず細川家の家柄や文化的環境について一覧しておく必要がある。
細川家は関ケ原合戦の後、慶長五年秋豊前小倉城主三十六万石、のち寛永九年(1632)加藤忠広改易の後をうけて肥後熊本城主五十四万石に転じた。江戸時代二百数十藩中六位を占める有力大名である。京都の南方にあたる山城国長岡郷の小領主からここに至るまでには様々の曲折があったが、それはおくとして、当時の諸大名中でもすぐれて文化水準の高い家であった。それには細川家の家系・姻戚関係も大きく影響していると思われる。初代の藩主忠興の父は細川藤孝(幽齋)である。室町幕府に仕えた旧家であると共に、幽齋自身は中世歌学の秘説「古今伝授」の継承者であった。彼はこれを三条西実隆の子実澄から相伝し、桂離宮の建設で有名な八条宮智仁親王・中院通勝・烏丸光広・三条西公国・同実枝・武家では島津義久(竜伯)らに伝えた。そして忠興の妻は明智光秀の女玉、有名な細川ガラシャ、妹には公家で神道家の吉田兼治に嫁した伊也、大名木下延俊に嫁した加賀などがいる。木下延俊は、幽齋の門人であり安土桃山時代の歌人として有名な木下勝俊(長嘯子)の弟にあたる。忠興の長男忠隆の妻は加賀の前田利家の女(これは後に離婚)、嗣子となった三男忠利の妻千代姫は小笠原秀政の女であるが、二代将軍秀忠の養女として輿入れしてきた。女の一人万は烏丸光賢に嫁し、そこに生まれた孫女の一人禰々は忠利の子で三代藩主光尚に輿入れし、もう一人の孫女は飛鳥井雅章と結婚している。このように細川家は、とくに公家との姻戚関係が深いのが一つの特徴であるといえよう。