津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(三)

2017-04-14 07:13:48 | 歴史

 武家故実 戦国騒乱の間に下剋上してきた大名の多い中で、室町以来の名家として故実に通じていることは、新時代において細川家の有利な一つの武器であった。幕藩制秩序と共に、新支配者層にも儀礼を整える必要が生じていたからである。時代は少し遡るが、文禄の朝鮮出兵ののちいったん講和交渉がすすめられ、慶長元年(1596)に楊方亭・沈惟敬らの使節が秀吉の大阪城に登城したことがあった。この時接見の儀式に奏者役を勤めたのは忠興であったが、この頃から細川家は故実典礼の家として認められていたのである。そしてこの事は、江戸時代にはいってから、徳川氏に対しても他の諸大名に対しても有利な条件であった。家康は忠興に「長松は鄙(ひな)にて育ち作法不骨に有之候間、宜しく御異見頼み思召す」といって少年期の秀忠の作法進退の指導を頼んだし、家光に長男家綱が誕生したとき、父幽齋から伝来した武田家式の故実をもって産着を調製し献上したり、翌年この幼児に対して「御果報御武勇は東照公、御齢は三齋(忠興の入道後の号)にあやからせ給へ」と祝言を述べたりしているのも、家柄を見込まれてのことである。(綿考輯録)故実の知識は献上物の時などにも役立ってくる。慶長十九年(1614)の五月、忠興は将軍秀忠に紫の絹・錑(もじ)の蚊帳地十疋・小袖の棚などを進物として献上した。この小袖棚の使用法について、忠興は「御小袖のたなは、つねのものは匂をするふせごのやうに存候、むかしの公方には御小袖のだいにて御にほひをなされ、即其御小袖を御座之間に此台にのせてをかれ候事に候、左様之儀佐州も大炊殿も被存間敷候、公方之御そばに在之御道具之由、其方直々被申か、さなくは誰にても能被申候はん衆を以可被申候、匂のふせごと計被存候てはと存候ての儀に候事」(細川忠興書状)と述べ、将軍の側近者の誰も知らない公方用の特殊の小袖棚の使用法を伝達するように忠利に命じている訳で、文化的伝統の薄さに弱みを持つ側にとっては、このような献上は貴重なものであったに違いない。
 さらにもう一つ、細川家は自分の故実知識を売り込むだけではなく、別に人材そのものも斡旋口入している点も見逃せない。将軍秀忠の夜詰の衆、いわゆる御伽衆の一人に曾我尚祐という人物がいた。いわゆる室町幕府に仕えた家柄で、尚祐は足利義昭に仕えたが、義昭の没落してのち転々とし、文禄四年(1595)細川幽齋の推挙によって秀吉に仕えるようになり、秀吉に足利家の故実を伝えたという。その尚祐が慶長五年以後は徳川氏に召出され、家康から「公方家の法式を問せられ、故実等所用せられるべきにより」秀忠に附せられたのであった。(寛政重修諸家譜)。新興の幕府としては、威儀を整えるために故実家を求めていた訳である。そしてこの曾我尚祐と子の古祐は、幕府内部の情勢を細川家に報ずる最も主要な情報源の一つでもあった。 

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