ニ、文化生活の種々相
忠興・忠利・光尚の初期三代の中でも、初代の忠興は多方面に才能をもつ人物であった。細川家の家史である「綿考輯録」に、「弓馬軍礼の故実は御家伝の蘊奥を極められ、御編書の類も多し、又御詠歌・連句・御狂歌等も数々伝り、茶湯は利休か奥義を尽され、御作の茶器等人これを尊ひ、御著述ものも有之由、御画を被遊候事は探幽も不及と誉奉り、蹴鞠は飛鳥井家の奥意御授り、乱舞も諸流の秘事を得られ、刀劒の御作世に伝わり、甲冑の製等は御家一流の伝普く知所なり、惣而武具の御物数寄はいふに及はす、衣服もろ/\の器物の制、ものに応して御名誉の御事とも悉くは伝はらさるは残念の至也」と記しているのは、藩祖を讃えるための誇張を割り引けば必ずしも不当なものではなかったと思われる。忠利・光尚が父や祖父、また前述したような細川家を取巻く婚姻関係の中で強い影響を受けたことはいうまでもない。この三人の行動を調べるについては、残念ながら日記類は残っていない。しかし三者の間に交わされた二千通をこえる大量の書状が残存している。書状は日記と異なるので限界はあるが、これらや「綿考輯録」その他によりつつ、彼ら文化的関心どのようなものであったかを探ってみよう。
古典 和歌・連歌等古典の教養豊かであった幽齋は、その死後忠興に多数の古典類を残した。それは定価筆といわれる「新勅撰和歌集」をはじめとする多くの歌集の写本、「岷江入楚」(みんごうにっそ)、や「伊勢物語」「吾妻鑑」などの写本、歌論書などで、その中には幽齋自身の歌集や書写本も多数まじっていた。これらの典籍はその後贈与等で相当移動はしたが、いまなお細川家に伝わるものも多い。しかし忠興が筆写した典籍類はほとんど伝わらない。忠興は父幽齋のようには積極的な関心はなかったのであろう。前述したように幽齋は古今伝授を他に相伝したが、忠興には伝えなかったのも、そのためであるかもしれない。元和三年(1617)頃と思われる書状に、忠利の手許にある六冊本の「万代和歌集」について「其方も不入、我々もいらぬ物候、烏丸弁殿へ遣度候」と書いているのは、この種のものにたいして、忠興の執着がうすかったことを示すものかも知れない。しかし折に触れての感慨を和歌にたくすることは、当時の常人以上ではあったろう。たとえば文禄の役で朝鮮に出陣し、いよいよ帰国となったとき、戦死した家臣の墓に詣でて「ひとたひの 別れのみかはあとをたに 知らぬしらきの山に残して」と詠じ、また元和六年家督を忠利に譲って隠居が決定すると「やすからぬ おもひの家は出にけり しか住はてん柴の庵に」と詠むなどしているのがそれをしめしている。このような正統的な和歌のほかに、諧謔をまじえた狂歌風のものもある。忠興はある経緯があって、隣国の黒田長政とは犬猿の仲であったが、そのことをよく知っている親友の藤堂高虎が、黒田の悪評を書いた手紙に狂歌一首を添えて寄越した。一読してそれみたことかと快哉を叫んだ忠興が作ったのが「藤堂和泉守よりのふみの内に、黒田筑前道をつけかへてはち(恥)をかきたると聞へしほとにとて、関の戸をとむれは黒田荒果て、ひらかてはしる今の百姓、と申越され史返事に、はゝからす(烏)黒田の稲をおしつけて、道をなしても人は通らん」であったという。(綿考輯録)
近世朱子学の祖といわれる藤原惺窩の和歌集のうちに「細川内記の東にくたるとていとまこひにきたれりけるか、すゝろふ涙のおちけれは」と題する和歌一首が載せられている。内記とは忠利のことで、忠利はこの歌にたいする返歌として、「いまそしる 心の花のなかき春は ときはいつかとわかぬかきりを」と詠んだ。一書に、惺窩に儒学を学んだ武家として、細川忠利、浅野長重、曽我古祐、小畑孫市(小幡直之)、城昌茂の名をあげているが、この和歌の贈答をみると師弟の親愛の情を察することができると共に、元和時代に、早くも忠利が朱子学の教養を身につけはじめていることが注目される。忠利の和歌の師は冷泉為綱といわれるが、その他禅僧沢庵にも帰依し、沢庵と親交のあった柳生宗矩とも親しかった。細川家に現存する忠利宛柳生宗矩の兵法免許に、沢庵の花押の白紙が添えられているのは、この三者の密接な関係を物語るものであろう。