4月25日綱利の継嗣・兵部大輔吉利が亡くなった。
千次郎、利章、内記、兵部大輔、従四位下、侍従
元禄二年己巳二月十九日江戸ニ生ル、同十五年壬午九月十五日初テ将軍(綱吉)ニ謁ス、
同十六年癸未三月十三日水戸宰相養女ヲ内記ニ配偶ノコト定マリ、同六月九日結納ヲオクラル、
同年十一月廿二日内記登城将軍ニ謁シ、名一字ヲ賜イ従四位下侍従ニ叙任、兵部大輔吉利ト称ス
宝永三年丙戌四月二十五日江戸ニテ卒ス、年十八、
奏者番田村因幡守弔問ス、法号圓明院惠海宗達、妙解院ニ葬ル
母、仁田氏女・熊 元禄十五年壬午六月廿三日江戸ニ卒ス、法号安住院日永妙静 池上本門寺ニ葬ル
父・綱利の悲しみは如何ばかりであったろうかと察せられる。
綱利は「夜食越中」などと揶揄されながらも時の権力者・綱吉の側用人・柳沢吉保に接近、吉保の三男を養子に迎えようとしている。
しかしながら幕閣の反対により子の養子話はとん挫した。このために吉保の家老の薮田氏の子息を細川藩に召し抱えるなどしている。
弟・細川利重の二男・利武を養嗣子としたのは宝永五年正月のことである。
正徳二年綱利は隠居、「鸚鵡籠中記」では家中で「押籠め」の噂があったとも伝えるが、「肥後先哲遺蹟」では家老の木村半平が隠居を薦め、三日ほど詰間に詰めたと記している(木村秋山項)。