津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ご紹介「天草本いそっぽの物語」

2017-04-17 17:31:12 | 書籍・読書

 

  天草本いそっぽの物語
   かとうむつこ
    海鳥社   

 

商品の説明

内容紹介

イソップ作の『蟻としぇみ(アリとキリギリス)』、『狼とわらんべのこと(狼と羊飼い)』、『犬が肉を落としたこと(よくばりな犬)』など、およそ100の物語を収録。安土桃山時代の衣装を着た愛らしさいっぱいのさし絵。鳥、狼、羊、人々が織りなす愉快な寓話絵本『平成・イソップ物語』。

著者について

福岡県柳川市に生まれる。福岡教育大学美術科卒。同大在学中に福岡県展県にて知事長受賞(油絵)。西日本女流絵画展、文部省県展選抜展招待出品など絵画活動後、高校教諭として勤務。1971年アーティストとして米国永住権を取得。現在、サンフランシスコ在住。1980年~86年、サンフランシスコに「ギャラリー・シオー」開設。2014年、童話「神さまって ほんとうにいるの?」が日本こどもの絵本研究会選定図書に選ばれる。2015年、福岡県朝倉市美奈宜の杜に「ギャラリー・シオー」開設。柳川同人誌「ほりわり」の表紙絵を25年担当。北原白秋生誕百周年を機に、同誌に童話を発表し始める。絵本、童話、歴史小説を出版、個展を開催するなど作家、画家として活躍中。
【著書】
かとうむつこ童話集I~III(東京図書出版会、2003、2004、2006年)、『急ぎ御文参らせ候―寶樹院殿悲話哀話』(西日本新聞トップクリエ、2013年)『神さまって ほんとうにいるの?』、(銀の鈴社、2014年)『三つの星』(銀の鈴社、2015年)、『お花のお見舞い 天使のお見舞い』(銀の鈴社、2015年)ほか

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■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(五)

2017-04-17 09:15:02 | 歴史

 鷹狩 山野を跋渉して、飼い馴らした鷹に猟をさせる鷹狩りは、古来武士の好んだ遊戯であった。戦国時代には一時衰えたというが、徳川家康が天性の鷹狩好きで、若年のときから死没の直前まで、暇さえあれば鷹野に出るという風であったから、これに倣って諸大名の間にも盛んに行われるようになった。秀忠も鷹狩りを行ったが、次の三代将軍家光もまた大の鷹狩り好きであった。これはしばしば夢にみたほど尊崇していた祖父家康の好尚を見習ったものであろうが、家光がその一生の間に行なった鷹狩は数百回に及ぶであろうといわれている。
 忠興は、慶長八年四月忠利に宛てた手紙の中で「其方如存、我々鷹ふ(不)すきに候故、鷹数無之候に付」と書いている。鷹狩りは好まないので所持している鷹の数も少ない、と言っているのであるが、家康・家光ほどの熱中とは見みえないが、結構しばしば鷹狩を催していることは、現存する書状などによって知られている。山野に鷹を放って獲物を狩ることは、それ自身で一つの豪快なたのしみであるが、しかし当時の大名の鷹狩りは、それだけではすまない点があった。鷹狩りが武士の、それも大名を中心とする上級武士の遊戯として定着してくると、それに伴う様々の儀礼を生じ、大名間の交際の一手段としての面を生じたからである。忠興は慶長七年伏見城にいた家康から鷹を拝領した。この後しばしば鷹の拝領があった。忠利・光尚にも折りにふれ鷹が下賜された。これは当時としては大きな栄誉を意味していた。鷹の下賜ではなく、鷹狩の獲物である鶴・雁・鴨・うずらなどが下賜されることもしばしばである。中でも鷹の鶴拝領は最高の名誉であった。忠興が領国の九州に在国中に鶴の拝領があった時などは、おそらく塩漬にしたその鶴が早飛脚で届けられたりしている。将軍ばかりではなく、蜂須賀至鎮その他の大名からの贈与があり、また細川家からも贈り、時には秀忠に鷹狩り用の勢子犬二匹を献上したこともあった。
 鷹や隆の鶴拝領などよりも、一層の栄誉とされたのは鷹場の拝領である。忠興は元和三年に帰国の時、秀忠から手鷹を拝領し、帰国の途中で放鷹することを許された。道中の放鷹は、将軍以外には禁ぜられていたから、これは大きな恩遇であった。さらに忠利の時代寛永七年、家光から下総国小金・深屋の二ヶ所で高場を拝領した。江戸の周辺地域には将軍家の御鷹場があったほか、御三家や有力大名を限って高場が与えられたが細川家もそれに加えられたわけで、忠興もこれには喜び、早速まだ十歳そこそこの孫光尚を連れて出かけた。帰宅後、忠利に宛てた手紙には「先書に如申、御鷹数又こかねと申て当地より六里程在之所にて御高場被下に付、則参候て雁物数させ申候、面白さ中々申も疎に候、塩雁不珍物に候へ共、拝領之鷹にとらせ申候間、一ツ進之候、可有賞翫候、中三日之間に廿四とらせ申候、六(光尚)をも召連参候へは、うれしかり候事可被察候」とある。こうして鷹狩は、上級武士の身分を象徴するものとなっていった。 

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御恵贈御礼「東大史料編纂所研究紀要第27号抜刷 寛永一六年細川忠興の人質交代」

2017-04-17 08:36:34 | 史料

 東大史料編纂所の林晃弘先生から、研究紀要第27号抜刷 「寛永一六年細川忠興の人質交代ー新収史料 細川忠利・同光尚書状の紹介を兼ねてー」を御恵贈たまわった。伏して御礼を申し上げる。同論考については、研究紀要第27号に掲載されていることは承知していた。
これは購入をせねばなるまいと思っていた矢先のことで、おおいに驚いたことであった。
先般東大史料編纂所では細川刑部家の祖・興孝に宛てた細川忠利・息光尚の書状を購入された。
この書状を以て長い間證人として江戸にあった興孝に関する史料が補強され、今般の論考に至ったとされる。
その内容は大変興味深い。他の男子に比べ三齋に疎外された
興孝の無念さは如何ばかりであったろうかと忖度するのである。
「注」にある引用史料等をあわせ精読しようと思っている。
 

                  東大史料編纂所研究紀要第27号
       細川忠利書状  細川興孝 (「刑部殿」)宛 
         細川光尚書状  細川興孝 (「細刑部様」)宛 

 

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