津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大名の文化生活‐細川家三代を中心として(八・了)

2017-04-22 13:18:02 | 史料

 以下第三項として、大名の文化生活を支えた京都・長崎など都市の役割について考えてみる予定であったが、既に与えられた枚数を超えているので、ごく簡単に触れておくに止める。寛永期の細川家史料のうち、京都・大阪・長崎などにちゅうざいさせてある役人宛の書簡の控などをみると、それらの都市が大名にとってどのような役割を持っていたかが具体的に理解できる。たとえば京都の場合、その地に駐在する役人の仕事は、一つには借銀の交渉、もう一つはさまざまな物品の購入であった。注文されている品物で最も大量のものは、小袖・帷子の類であり、さらにこの類の衣料・布地類として白羽二重・唐木綿・綾錦・足袋などがある。衣類は三齋・忠利等の着用や奥向女房衆の振袖もあるが、量的に多いのは諸方との贈答用であった。ほかに美農紙・鳥子紙等の紙類、紫革・菖蒲革・柄用の鮫革など皮革類、さまざまの用途の箱、これは蒔絵梨子地などの高級塗物も含まれる。また金・銀の箔や絵具絵筆類の注文が多いのは、御抱えの絵師や経師に材料を支給して国許や江戸で仕事をさせているものと思われる。このような注文の状態を見ると、江戸や国許に住居しながらも、大名の文化生活は、その調度類においては京都の生活に依存するところが大きかったように思われる。

 同じ注文でも長崎は様相を異にする。その品物は、さまざまの砂糖、生糸類、らしゃ等の毛織物、唐木綿などの錦織物が多い。これらはもちろん南蛮渡り、唐渡りの品で前述した南蛮趣味を充足させる源泉であった。
 大阪についてみると、この時期には蔵屋敷関係の記事と、江戸・大阪に品物を送る舟使の手配記事が多く、京都・長崎のような買物の注文はほとんどみられないのが目立っている。
 このようね状態は、細川家だけではなく、徳川将軍家においても、また他の諸大名にも共通したものであったと思われる。

                             (了) 

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