津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

天草に関する鶴田功氏のご活躍

2009-02-13 00:01:18 | 熊本
天草の鶴田功様からメールを頂戴した。
天草方言集は第5版になられたという。
以下、氏のご活躍振りをご紹介しておく。

        「天草方言集第5版」 http://www.amakusa1.com/houge
              語彙数55,000語・一部に音声と写真を掲載
        「天草方言で読む古典集」 http://www.amakusa1.com/koten/
        「天草方言で読む近代小説」 http://www.amakusa1.com/syousetu/
        「天草本邑のあゆみ」 http://www.amakusa1.com/homura/
        「本邑の民話」 http://www.amakusa1.com/minwa/
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時慶記・第三巻

2009-02-12 17:43:51 | 書籍・読書
 陽気に誘われて図書館行き、返却日をとっくに越えてしまった本をかかえて、今日は車で出かける。最近は心臓のことを考えて自転車はお休みである。一月ぶりの図書館浴、新着書の棚を眺めていると、「時慶記-第三巻」が並んでいる。小脇に抱え込んで館内を一回りしたあと、これを借りて外に出る。久しぶりに図書館の脇の江津湖の遊歩道に出て散策、しばらく「時慶記」をパラパラ・・・慶長八・九年の二年間のものであり、人名索引を見るとうれしい名前が並んでいる。ゆっくり読まずばと足を進めて、散策はわずか10数分にて引揚げる。じっくり読んで、またご報告したいと思っている。
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こう姫様

2009-02-11 12:05:25 | 徒然
 
 細川家菩提寺・泰勝寺(現・立田自然公園)にある斉茲公のお墓に、寄り添うように一つのお墓がある。これが六女耇姫(こうひめ)のものであることを知ったのは、古い話ではない。永青文庫には斉茲の筆とされる、大きなお座布に座った愛らしい耇姫の絵が残されている。元々は狩野弘信によるものらしいが、これを模写したものらしく、打ち掛けその他の色合いが違っている。
   www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/mh-kouhime.html

 それにしてもさすが殿様芸で見事であり、尚又耇姫に対する愛情が窺がえて興味深い。年老いてからの子供(64歳)だから一層の事であろう。耇姫は本山屋敷で生まれたとされる。後に「城下の人」を著した石光真清一家が過したという、石光家が拝領したとされるあの屋敷であろう。

 ところで耇姫の絵が残されている鎌倉・妙法寺は細川家の庇護を受けていたらしいが、ここに有る大覚堂には、熊本城天守閣にあった加藤清正の像が細川家により寄進されているという。
   www.geocities.jp/ktmchi/2006/0111_05.html

 タイトルでは耇の文字が表示できませんでした。
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島原の陣--決戦の日・・44(最終回)

2009-02-11 10:00:31 | 歴史
■小笠原氏・木下氏・毛利氏より此方へ被附置候使者の武功吟味被仰付、興長より書付差出候

 一、小笠原壱岐守様御使者前場与次右衛門事、二ノ丸門一番ニ着被申、戸ひらかうし
   の間より鑓を数多突出シ、鉄炮石を打申候所ニ度々鑓をつきこミせり合被申、下人
   なとも鉄炮にてうたれ申候由、其時小出半左衛門と申浪人と二人門之右脇を被越、
   敵弐人つき倒シ被申候へ共御軍法故首を取不被申、それより奥ニ而十人計居申候
   を鉄炮之者二人参会、弐ッ三ッ打せつきかゝり申候へは其まゝにけ申候由、其刻生
   田四郎と申者ニ言葉を合被申、本丸江乗被申刻ハ私手江居申浪人菅与三右衛門
   と一所二乗被申候、城之上ニ而は牧平左衛門言葉を合申候、其夜ハ本丸ニ居被申
   候、明ル日津川四郎右衛門ニ被逢候由、奥の松原ニ而は松平伊豆守様御内二被
   居候浪人水谷左近右衛門・宮川金兵衛と申仁一所ニかせき被申候由、木戸口ニ而
   之様子松平丹波様御家中西村左吉と申仁慥二被見候由、御家中にてハ竹原庄大
   夫見申候由、書付被指越候事
 一、毛利市三郎様御使国屋才兵衛と申仁今度働之様子、立花殿家中ニ居申候浪人嶋
   田勘左衛門と申仁平野弥次右衛門親類之由候、彼者弥次右衛門ニ首尾能御座候
   段懇に咄申候由、弥次右衛門より私方江書状を差越申候、私内松井采女も働之段
   見届申候由御座候事
 一、木下右衛門大夫様御使滝五郎左衛門と申仁廿七日肥後守様御本陳江被参、三ノ
   丸御乗込之刻不被参会、二ノ丸ニは先手同前ニ被乗込、本丸浜手ノすミ石垣際迄
   つき被申、足を鉄炮ニ而うたせ、そこにて私内中山助九郎と申者外松野半助・黒田
   角大夫ニも申届被帰候由、手負被申何之働も無之候へ共、二ノ丸本丸にも早ク付
   被申段書上可然之由ニ付如此御座候事
    右三人之衆私手ニ付居られ候御使者二而御座候、右之通可被仰上候、以上
       寛永十五年二月廿九日         長岡佐渡守
          津川四郎右衛門殿
   尚又佐渡ニ被仰付、三家江書状相添、働之様子委細相認、御感之旨夫々申贈り、三使を
   返し候

■一、廿九日、立允主城跡諸手の様子等御覧可有とて御出候、別而御乗入被成候道筋
   等入念御覧有之候、清田石見ハつよく鉄炮手負候得共、あおたに乗候而城跡等見
   めくり候と也

■一、廿九日、今度死傷の者を改名附可被相達申上使被仰候間、三月朔日迄ニ追々御
   達被成候、但足軽・中間・小者ニ至迄悉く其名を改偽なきの旨神文を以被遂吟味、
   太刀・鑓・長刀・鉄炮・矢疵之外木石臼杵類ニ而被打以来之疵ニ不成、或は塀石垣
   より腰を打刃旗(折刃族)にて踏貫き痛之類ハ、敵合にあらさる故手負の内ニ入さる
   なり、他家ニハ此類も手負の書付ニ入候由

■寛永拾五年二月廿七日、於肥前国有馬城、貴理師旦御退治之時、細川越中守人数手負討死目録
   手負、合千五百五拾四人内
      三拾八人ハ   組頭・番頭・足軽之頭
      百九拾六人ハ   自分之馬乗
      九拾八人ハ     家中之馬乗
      七百八拾三人ハ   侍
      四百三拾九人ハ   下々
   討死、合弐百六拾七人
      九人ハ      組頭・番頭・足軽之頭
      拾九人ハ      自分之馬乗
      四拾五人ハ     家中之馬乗
      八拾九人ハ       侍
      百五人ハ        下々
    惣合千八百弐拾壱人
   右自分之馬乗之分、名付別紙ニ在之
      以上
       二月廿九日      細川越中守御判
           松平伊豆守殿
           戸田左門殿

           
             これを以って一応完了と致します・・管理人

      
   
   
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島原の陣--決戦の日・・43

2009-02-10 09:09:18 | 歴史
■廿九日、忠利君御自筆の御覚書を興長江被下、又御旨を受て永良長兵衛より之覚書共弐通

         覚
 一楯同たて板並之板、不残国へ取可遣事
 一勢楼くつし、竹ハ薪たるへき事
 一明小屋ハくつしたくへき事
 一かなたて・大筒・石火矢三色ハもとの御衆へ相渡シ可申事
 一ためしの具足ハ国へ請取候分可遣事、是ハ上様より請取候具足之事ニて候
 一玉薬被下候分其分たるへき事
    以上
      二月廿九日


                  覚
 一松倉長門殿石火矢拾挺嶋原へもたせ被遣筈
 一十三丁之大筒は中坊長兵衛・鈴木三郎九郎殿へ御渡可有候
 一長崎石火矢ハ殿様御請取候、同船ニつませ可被成候、其刻馬場三郎左衛門
   殿へ御理り可有事
    以上
      二月廿九日          永良長兵衛
            佐渡様
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そろそろエンディング

2009-02-09 21:43:11 | 徒然
「島原の陣--決戦の日」は42回に達し、ようやく先が見えてきた。あと1・2回で終了としたいと思っている。いささか疲れたが、一字一句をタイピングする事で、理解が深まったことを嬉しく思っている。それにしても悲惨な戦ではある。諸士の活躍振りや、最後の有り様など生々しく、タイピングの手が幾たびか止まりさえした。綿考輯録は死者・手負など詳細に名前を記載しているが、いつの日かこれもご紹介し様と思う。しかし人数が夥しく、何時の日になるかは保証の限りではない。
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島原の陣--決戦の日・・42

2009-02-09 21:39:22 | 歴史
寛永十五年二月廿九日、三浦志摩守殿有馬を立て江戸ニ御帰候間、酒井讃岐守殿・堀田加賀守殿江被遣候御書

 志摩守殿御上候間申入候、今度俄ニ城乗御座候処、首尾好御座候而本丸迄乗取隙を明
 申候、本丸なとハ石垣ニ而一度ニ済可申所ニ而御座候様何も申候キ、先以目出度存候、 
 一両日落人尋方々山狩なと御座候ハん間、頓而在所江罷帰候ハん間、肥後事も頓而帰
 国仕、少シ足をやすめ江戸へ進上可申候、今度城乗之次第鍋嶋出丸明退候故、仕寄を
 付候へとの御事ニて御座候つる、其時鍋嶋は出丸へ仕寄虎口より着申所二之丸------
 (虫クイ)人参候故、城中さハき申候間、扨は乗と見申故三丸からも乗込申候間、敵もうろた
 へ申候間切捨二仕、二丸へ乗込せ申し候内ニ、鍋嶋手よりも三丸二丸ニ乗込、二丸ニ火
 を付申候所ニ、我々人数ハ二丸へ入申候而、二之丸より本丸江取込申候、人数ニ付本丸
 海手角から中程迄我々人数つき申候、石垣と申手負死人多御座候間、引取可申と存候へ
 とも引申事も成不申、二時あまり城屏きわへ付而居申内、はや日暮にかゝり申候間無是
 非無理ニのりこませ申候、我等人数本丸をやき申候事はや日暮申候つる、乗ハこミ申候
 へとも火を付申候故、のり口ニさくをつけこたへ申内ニ、夜更夜明よりはし/\人数入申
 つる、二ノ丸は鍋嶋はやく乗込申候、三之丸は立花・我等人数計ニてのりこミ申候、討捨
 之首数なと跡より可申入候、具ニは三郎左衛門我々手ニ被居候間、此段可被申上候、恐
 惶謹言
                              細越中守
     二月廿九日                      忠利
         酒讃岐守様
         堀加賀守様
               人々御中
 猶々、四郎にけ可申かと存候処、本丸ニ而我々者首を取いなせ不申満足仕候、此状之
 内御心得候而、掃部殿・大炊殿江御申候て可被下候、廿七日八ッ時より乗込、其夜直ニ
 せめ口ニて夜を明シ申候、本丸之後又下之小丸に何も手間を入取候て、廿八日九ッ時分
 ニ相済、人数打入申候、未はし/\すミ/\人残申候由候、右衛門佐殿・鍋嶋殿人数を
 残被置帰申候、以上
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島原の陣--決戦の日・・41

2009-02-08 13:33:21 | 歴史
廿八日之晩、伊豆守殿営室にハ戸田氏を初馬場・榊原・林・牧野氏等会合して諸手の軍功を論談有、三郎左衛門殿申候ハ、昨日午の刻はかり鍋嶋手より出丸に取かけ攻入を見て、細川越州の先手三の丸ニ乗入る、扨二の丸にハ榊原飛州父子先登二而下々早く入て火を付る、相続て鍋嶋攻入候へハ、二の丸ヘハ誰々と申ても鍋嶋先手より早く入たる者は有ましく候、はやく火を付候故奥へ攻入事不成と見へたる内に、細川・立花の両手海手より二丸に乗入、火を放、郭中の家十ヲ十五共焼ざる先に細川人数かけ抜、二の丸の奥本丸の下に着たる事ハ榊原飛州よく御覧之通也、其後肥後人数一時余りも犬走に在て相戦ひ、終に東の隅より本丸に乗込火を放て焼立るを、拙者横目として始終をよく/\見分、伊豆守殿・左門殿も後より御覧有かと存候、尤諸手の士卒・諸浪人も少々交りたると見及候、二の丸ハ七ッ時前に焼終り、本丸ハ酉の上刻に焼上る、右之段々ハ御代官衆を始歴々の見分ニ而紛なき事にハ候へ共、若相違候ハゝ、各唯今仰談られ候へかしと有けれハ、諸御目付いつれも尤と被申候、其後黒田氏其手を吟味有、上使の陣屋に至、本丸の一番乗は拙者家来也、四郎か家をも焼払はせ候と有、伊豆守殿それハ何時にて候やと尋らる、廿八日四ッ時と有、左候へは御了簡違にて候、廿七日細川手本丸に乗入火をかけ、四郎家焼る有無の事も不相知、廿八日の卯の刻に四郎家夜前焼残候を、唯今火矢にて焼せ候、見候へとの案内にて我等見候内ニやけ、其家ニ而紛なく四郎か首を細川手へ取候、煙下にて御覧し違有て、廿八日四ッ時を一番乗と思召候事尤余儀なく存候と仰けれハ、黒田氏何かと可被仰気色を見て、彼手の検使丹波守殿引取挨拶し同道にて本営に帰られ、翌日黒田氏より使者を以、昨日被仰聞候趣承り届候と伊豆守殿江被仰入候と也

廿八日監物ニ被下候御書并堀江勘兵衛より監物と御奉行江之奉書、外ニ口上書壱通、佐渡守より監物江之返状、廿九日監物より之御請状、共ニ合五通
   ■ 御端書御自筆
        此方之仕合可心安候、以上
      先度此方へ越候四郎母・大矢野の小左衛門・同四
      郎兄弟先度越候分急不残越可申候、爰元廿七日ニ
      三ノ丸・二ノ丸・本丸一日ニのり取候、可心安候、
          二月廿八日    越 御判
      又申候、小左衛門下人共不残可越候 已上
             長岡監物殿

   ■  為 御意申入候、今度貴理師旦御改之儀ニ付、宇
      土・益城・八代之御惣庄や・小庄やなと之人しち
      もはや可被指返之旨被 仰出候、一刻も急御返候
      へとの儀ニ御座候間、其御心得可被成候、郡筒も
      早々差返候へと被 仰出候間、明日郡々江之舟申
      付直遣申候間、其御心得可被成候、 御帰陳未何
      時分共不極申候、恐々謹言
          二月廿八日    堀江勘兵衛
             監物様
             河喜多五郎右衛門殿
             椋梨半兵衛殿
             沖津作大夫殿

    ■ 口上
      今日八ッ過ニ御人数不残御本陳へ御引取被成候、
      松平右衛門佐殿手ニ未弐百ほとも有之由候を、爾
      今御せめ被成候、もはや弐百迄ハ御座有間敷儀ニ
      候へ共、有之との被申分ニ而御座候、今度討死衆
      之書立御陳場ニ而立なから書進候
        尾崎金左衛門 岩越惣右衛門 小坂半之丞
        山川惣右衛門 平野弥平太
        野瀬吉右衛門 沖津九郎兵衛 神足八郎右衛門
        弓削与二右衛門 猿木勘左衛門 楯岡孫市
        西沢文右衛門 松岡久左衛門 外山平左衛門
      此外ニも可有御座候へ共、未与々より差出不参候、
      手負ハ殊外御座候、与七郎殿・角助殿御無事ニ候、
      角助殿ハ石疵少御おい候
     一五郎右息八助殿石疵ニ而候、少ハ御痛可有之と相
      見へ申候、其外之御息ハ御無事之由
     一椋梨殿御息も無事
     一ゑへの四郎首も参候事
      何も/\手柄を被仕候、跡より可申上候
          二月廿八日    堀江勘兵衛
                            
             監物様
             河喜多五郎右衛門殿
             椋梨半兵衛殿
             沖津作大夫殿
                    以上

    ■ 昨日城のり御座候由其元へ相聞申二付而、為御使
                                 本ノママ
      者南斎安左衛門被差越御状忝拝見仕候、昨日七ッ
      時分ニなべ嶋殿衆出丸之塀をこわし候とて取かゝ
      り被申候而、それより二ノ丸へはいり被申候を見
      申、則三ノ丸へ式部少一番のり仕候、それより拙
      者なと惣御人数ものりこミ申候、二ノ丸・三ノ丸
      ハやき討ニ仕候而早速事済申候、然処本丸へかゝ
      り候而殊外手つよく二時余しらミ申候而もはや引
      取申ニ究候処ニ、何とやらん仕 殿様御手之内式
      部少手よりのりこミ、それより本丸へ御人数のり
      こミ、本丸をかため夜前ハ夜をあかし、今朝夜明
      ニ其儘諸手取かけはな/\しき合戦御座候、先可
      別条手もおい不申候間、可御心安候、 殿様今度
      天下之御外聞被成候、 上使衆并諸手衆御目ノ前
      ニて候故、はれかましき事共ニ而候、尾藤金左衛
      門・西沢文右衛門・山川惣右衛門・平野弥平太討
      死ニ而候、我等内松井外記・堀口少右衛門其外馬
      乗二人討死、手負も数多御座候、急候而先あらま
      し申入候、四五日中ニハ罷戻ニて可有之候間、万
      々以面可申入候、恐惶謹言
                      長佐渡
        二月廿八日          
            長岡監物様
                  御報
      尚々、早々御見廻ニ御使者被上段尤ニ存候、昨日
      之城のりハ内々の儀ニても無之、俄之事候故御侍
      衆も漸々取合申ていにて候、我等なとも漸取合申
      候、急申候間、先あら/\申入候、御奉行衆へも
      比由御申頼存候、以上
      又申候、岩越惣右衛門・小坂半丞討死にて候、其
      外御馬廻り衆なと数多可在之候へとも、いまたく
      わしく不承届候、以上

   ■   以上
      咋廿八日之 御書、同日之亥之刻参着、謹而頂戴
      仕候、一昨日廿七日ニ三ノ丸・二ノ丸・本丸御の
      り取被成候間、其元之御様体心安可奉存旨被 仰
      下候、誠以目出度奉存候、殊本丸ヘハ御人数一番
      ニ乗込申、昨日迄押詰被為召置、則昨晩悉被為討
      果候旨、天下之御誉可申上様も無御座候、随而四
      郎一類・大矢野ノ小左衛門一党差越可申旨被 仰
      下候、奉得其意、四郎一類四人・小左衛門党六人、
      已上人数拾人則今朝差出申候、船中念を入候へと
      申付候、此等之趣宜預御披露候、恐惶謹言
         二月廿九日       長岡監物
             坂崎内膳殿


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一週間のご無沙汰でした

2009-02-08 11:23:07 | 徒然
 PSのトラブルその他、よんどころ無い事情で一週間お休みを致しました。思いがけないご心配をいただき、恐縮しております。ある方には電話をいただき、開口一番「あらー生きとったねー」・・・・心臓は時折悲鳴を上げ、耳の奥も相変わらず時折「がらがら」と音をたてますが・・・「生きとります」です。
今迄通りには参らぬかもしれませんが、又ブログその他頑張って情報を発信していきます。どうぞ宜しくお願い致します。
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島原の陣--決戦の日・・40

2009-02-01 08:19:59 | 歴史
先陳後軍の諸大将思ひ/\に攻よせ、詰の丸の先登ハ黒田家也、其の外国々の使者・台使・鑑軍の御内・諸浪人迄我劣らしと働き、各分捕高名有、林丹波殿に被付置たる松山権兵衛はやく本丸に入て、諸手の士卒諸方より攻入るを見に、有馬手の内より朝比奈源左衛門諸人を踏越勢力を励し攀上る、松山驚き朝比奈は元日の城攻に深手負倒れしかハ程なく死ぬらんと思ひしに、今日の勇壮希代の強兵なりしと感し、如何に朝比奈の幽霊、松山権兵衛見知たるかと大音ニ呼り、佚(たがい)に詞をかハし相笑ひて勇ミ進み賊を討取る、松平甚三郎殿も城中に入て下知せられ、被付置たる歩御小姓菅屋作大夫粉骨して敵を討、伊豆殿家士木村庄右衛門ハ早朝に城中に入、当手の上条角大夫と一所に働く、大江口にて小笠原右近殿の射手足軽大将白石市右衛門と当家の大竹与三左衛門壱所に相挊、互に証拠とす、榊原飛騨守殿の手に附きたる浪人成田十左衛門重勝昨今共に働有■■、諸手こと/\く本丸に乗入込合候間、鑓の柄を切折働も有、味方の鑓刀に中り同士討せし手も有之と也、福田次郎右衛門ハ一揆を討取、疵を被り候故、古塚の上ニ腰をかけ休ミ居けるを、黒田家の番差物したる武者五六人鑓を以突かゝる間、是ハ細川手之者也、手負を目懸味方討する比興者と詞を懸候へ共、物をいはするなといふて弐三人進ミ行く、福田もせんかたなく鑓取て立向ふに、残る者共彼等を制し脇に立退、難を免かれ候と也

天草四郎の最後
陳佐左衛門走廻り首二ッ討取候か、四郎か居宅の焼落る比煙下をくゝり其屋の内にかけ入る、佐渡か軽卒三宅半右衛門もつゝいて入に、創を被りたる者かと見へ、絹引かつき臥居ける側に女壱人付添泣居たり、佐左衛門つと入足音に驚き、かつきたる絹を押除る所を透かさす一刀に斬て首提け走出る、女驚き引留んとするを、三宅是を切捨にして走出ると忽棟を焼落し候、寺本久太郎ハ先時夜明ると早速忠利君の御意を蒙り、今日討取所の首をも拾せ、本陳前の堀に集め候に夥しく有之候、佐左衛門も其所に至るへきと思ひ、右の首を提、忠利君の御目通り近くを行くを急き行を屹と御覧被成、其首見所有、大将四郎なるへし、念を入候へ、扨々冥加の者哉と御意候か、果して四郎首也、御近習の輩驚き奉感候、扨佐左衛門惣首の所に至始終を語候へハ、久太郎猶も委しく様子を尋ね聞、陳か高名を感し候

扨て諸国の人数入乱て一揆を討、かくれ居たる男女老若を不撰見当を幸に斬て廻る、或はひろひ集め候間、思之外に首数多き手も有之候と也、当家の首数三千六百三十二、中ニも四郎首ハよく洗ひ髪を結、上使の実検に被備候、諸手よりも四郎首とて札を付たるか数多有之候と也

同日、軍を納て後、興長ハ賊徒平均を賀し奉し為上使の御陳屋に至けるに、折節両所会談の席なり、賀儀竟て伊豆殿被仰候ハ、今般陳中の大小事に心労有し功によりて、昨日其手より本城海手を乗破、其方の円居諸手一番に入たる事比類なき武功、日来の覚悟現れ雄々しき手柄之段、太守も御喜悦なるへしと察し入候と被仰候間、佐渡拝伏し、誠に農民とハ申なから城郭をかまへて矢石を発し、味方にも死傷多く其狼藉を仕候二、偏に御威光を以即時に平定し、越中守か寸志相達、尊覧の如く当手より本城を攻取、大将四郎か首を討果、上下快悦之至二候と申けれハ、両所尤と有、時ニ左門殿被仰候ハ、肥後勢本丸先登之事ハ我々親り見分いたし候、然に立花飛騨守内十時三弥来て、本丸一番乗立花家に在と云、又水野家の士卒先魁すとも云、其外有馬・寺沢の手につきたる諸浪人何も一番乗せしと告来る、細川手の人数其体を見たる者あるへし、委く吟味を遂、重て是を相達せらるへしとあり、佐渡申候ハ、仰の如く十時を初め其余の士卒先登を争ひ申事、心掛奇特之至余儀なく覚候、然共彼等に不限若干の諸浪人・心繰の諸士卒何れも当手の大軍を頼ミ屏下に近付、疵を蒙首を取の類、いまた其数を不知、御両殿御直ニ御覧之通、蓮池の頭より東ハ海手の隅まて越中守軍勢透間なく押詰、終に本城に攻込候へハ、当手の中にも一二を争ひ勝劣を論していまた決し不申、況や他家の輩二百三百当手の跡に屈し、威を借て乗入者ハ皆越中守か軍卒也、■(鎖)細の争論用ゆるに不足存候と答けれハ、御両所一笑有、是誠ニ大器の論也と被仰候、伊豆守殿重而今度越中守殿惣大将たりし験有て、俄の城攻に取あひ、即刻三の郭に先登、直に二の丸に附入、即晩本城をも一手を以乗入、旌旗を建、火を放て焼払ひ、殊更大将四郎を討取る条、残る所なく他に異なる軍功早速江府にも言上せし所也、随て其方父子粉骨の働感入候と被仰候間、佐渡守面目を施し退出す、此時返答之申様ニよりてハ猶又吟味も隙取へきに、よく申達ける故早速埒明たり、本丸を乗取手柄も同前と各感心いたし候と也
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島原の陣--決戦の日・・39

2009-02-01 08:18:11 | 歴史
氏家志摩・斎藤勘左衛門等はやくしまりの屏下に着相働く所に、有吉家士木部清大夫きのふの深手くるします、組の射手をすゝめ先を払て同所に来るに、鉄炮にて鑓の柄を打折、直にその僕に中て死す、同戸田十之允賊と突合鑓打落され候処、直ニ踏込抜打に其敵を仕留候を、藤掛伊織同所に働て見届候、同武藤十左衛門・荻野兵助等鑓を討取、原田三大夫もよく働て賊を討、葛西惣右衛門先にすゝむに、松の木の下にて賊徒一同に突て出しかハ、先徒少崩けるを見て葛西横合に鑓を入、敵二人を突伏首を取る、鑓手少々被り候、団六左衛門も鑓を入、敵を討取る、葛西伊織も壱人突伏首を取所に、余賊左の方より近々と寄、鉄炮打かけ候か、冑の立物共に打崩させ候へ共、幸にして疵を不得、急に追詰其敵を突伏首を取、見るもの甚賞美せしと也、其後所々馳廻り又二三人突捨る、岡田作之允 作左衛門嫡子 敵を突伏首を取時、石にて頭を打れなから又鑓を合けるに、敵鑓を投突にして作之允か足を突ぬき逃入る、疵深く痛、追討成難く本営に還る、本郷縫殿助貴延も鑓を合、首を取、岡沢兵左衛門為行もよく働て首を取、弟岡崎次郎右衛門清次も敵を討取、其後も岡崎は数度鑓を合せ突捨て働き候

米田与七郎家人姫嶋清大夫・毛利藤兵衛・同手に属せし浪人泉田五郎兵衛・野中文八四人一所二打出しに、四郎か宅の焼ゆ余焔近所の家に移、夥しく燃上り、すゝミ通るへき様なく猶予しける所に、焼家の下より賊十余被と一列に突いてかゝる、彼等四人鑓を合、各一人つゝ討取、泉田五郎兵衛ハ投突の鑓を喉に受て終に死す、其時腹巻はかりニ突留る、家人木村与三兵衛・同四郎左衛門・井手藤右衛門・塩木半之允・岡田権兵衛等もよく働く、右の外にも松井・有吉・米田か士卒いつれも能力戦いたし候
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