津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川齊護公「道の記」 -- 1

2009-11-24 21:02:27 | 歴史
   明治36年、池部義象・池田末雄氏編集による細川家12代当主齊護の
   陽春集から、道の記をご紹介する。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   今年、天保三の年の卯月に、
   君より御いとまたまはりて、國へ歸り侍るとて、五月朔日といふに、
   龍の口の館を立ち出んとするをりしも、そらさへうち曇りて、人/\
   にわかれむることは、志ばしとおもへど、かなしくて

    せきあへでおつる涙をとゞめかねまだ露わけぬ袖ぞぬれける

   午のはじめごろ、門出しはべるとて、

    旅衣けふたちいづるあずま路の名残はてなきむさし野のはら 

   ほどなく、志ろかねの御館につきて、御二所の君に、御いとま申し侍
   れば、おほみき給りて、とりどり御名残は盡きせぬものから、門出の
   ならひ、こゝろいそがれて、志ろかねの御館を立いでぬ。品川のむま
   やもすぎ、大森てふ處に志ばしやすらひけるほどに、永田町より、御
   はなむけとて御便あり、いろ/\の菓子ともたまはりぬ。

    かしこしな深き恵のかゝるよりなほ露そふるたびのころもで

   このあたり、むかし荒■がさきといひけるよし聞えければ、

    志ら波のあらゐがさきを越えきつゝむかしをとへば松風の聲
  
   日もかたぶくころ、河崎のやどりにつきぬ。

    けさまでは思ふことのは川崎を旅のわかれのはじめとやせむ

   こゝまでは、志ろかね龍の口の人もまゐりつどひて賑しければ、み
   きくみかはして、ふしどに入りぬ。
   
   二日
   きのふにおなじく、そら曇りぬ。川崎のむまやを立出で、程が谷もう
   ちすぎ、境木てふ處に志ばしやすみけるに、このところは、武蔵と相
   模との境なるよし聞えければ、

    名残あれや馴し武蔵も行つくしけふ相模路へかゝると思へば

   ほどなく、戸塚のやどりにつきぬ。

   三日
   夜明けて戸塚のやど立出づるに、けふもきのふにおなじく、そら曇
   りて、小雨ふりぬ。藤澤のむまやも行きすぎて、江の島の道あり、十年
   あまりのむかし、この神やしろにまうでしこと思ひ出して

    昔我まうでしこともおもひ出ていのる心は神ぞしるらむ

   馬入川うちわたり、平塚のむまやもすぎ、花水橋といふにかいたりぬ
   るに、杜若の花の咲きしを見て、

    なほこゝに春をとゞめてかきつばた色ぞうつろふ花水のはし

   志ばし、このところにやすらひて、大磯をとほりしに、鴫立澤とて、か
   すかなる堂のうちに、西行の像を安置せり

    いまも猶むかしの跡や志のばれむ志ぎたつ澤の秋はいかにと

   酒匂川うちわたりて、申すぐるころ、小田原のやとりにつきぬ。

   四日
   けふは箱根山をこゆとて、夜をこめて小田原のむまや立出しに、す
   こし雨ふりて、明行くそらも、ほのぐらく見えぬ。

    あかつきの人の八聲の鳥ともろともにけさ立いづる小田原のやど

   夜明けて雨やみぬれど、猶曇りて晴れやらず、山路を一里ばかりのぼ
   り、湯本てふ處の前に、たにがわの音高く清く流るゝをみて、

    志らなみはせゞの岩間にくだけつゝおともすゞしき谷川のみづ

   けふは東の方も雲にへだゝりて見えず、いとゞおもひやりて、

    かへりみり武蔵の方をこゝろなく幾重はだつる雲もうらめし

   猶登りてゆくに、雲も志だいに晴れぬ、折ふし時鳥の鳴くを聞て、

    あづまより語らひきつゝ箱根山なれも旅とや鳴くほとゝぎす

   ほどなく、関にいたりぬれば

    四方の國治まる御代の志るしとて関もとざゝでけふぞ越しける

   はこねのむまやにやすむ、そこに廣橋どのゝ歌とて、主の額になし
   てかけぬるを見るに、仰山鑑水といふことを、

    山をあふぎ水をかゞみに動きなく心くもらずやどにすむらし

   となんありつる。またそのかたはらの額に、はこね一の本陣にて、父
   子相つゞき勅使にてふじをみることも、君恩かしこまりて

    君の恵あけくれあふぐ箱根山かそのとまりとおなじやどりは 
    箱根山ちゝのもとみし一の夜にふたゝびわれもめづるふじのね 

   となんある、げにこのところは、向ふにふじもみえ、前に湖水ありて、
   ながめいとよし。けさは曇りてみえず。志ばしやすらふほどに、雲も
   やゝ晴れて、冨士もすこし見えぬるに、うれしくて

    我もまた君の恵のかゝらずばけふこのやどにふじをみましや

   この山路は名たゝるけはしき道なるに、夜べの雨にて、岩かどなめ
   らかに、ひちりこふかくして、ゆきなやみぬ。日のいるころ、からうじ
   て、三島のやどりにつきぬ、このむまやは、三島の神の御社、かみさび
   ていとたふとく、かしこければ

    いのるぞよまたこむ春に立ちかへり猶もみしまの神のめぐみを

   ほとゝぎすを聞て、

    もろともに山路や越えし草枕かたらひがほに鳴くほとゝぎす 
     
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下津権内高名

2009-11-24 11:28:04 | 歴史
「古武士の面影」より  下津権内助

    長岡兵部太夫藤孝丹後を領す。家来に下津権内助と云へるあり。
    元亀四年七月廿八日信長淀城を攻むるに方り、敵将岩成主税助
    大力の聞えあり、打て出づ。下津之を見て態と引受け、橋の上に
    て岩成に組むと見えしが、我より誘ふて橋より落たり。下津は河
    内の育ちにて、水練に名を得たるもの。さればこそ、水中にて岩
    成を突き放しては息を継ぎ、一刀さしては突き放ち、三刀まで刺
    して、遂に首を得浮出でヽ藤孝に見す。藤孝
      「急ぎ信長に獻ぜよ」
    とありければ、下津自ら首を提げて、江州高橋に至る。信長見て
    大いに悦び、下津の機知武勇に穪搖し、感状並びに百金を賜ふ。

     出典:「古武士の面影」 編者:有本天浪 明治四十二年 東京・文成社

                 
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北関始末實記・・その18(追加-2)

2009-11-24 08:14:03 | 歴史
一、又藤田在宅在宅所近村の老人物語仕候節有成事承り及候藤田先年
  京都買物奉行にて数年在京仕候其比妻ハ嫁娶いたし候得とも
  婦女もいまた出来不仕候已前にて候藤田在京之間に妾を召抱申候
  一両年召仕候に近年の中本国へ下り候ハゝ召連可罷下候と申聞候妾
  申候ハ其段ハ忝奉存候得共老母壱人罷在候申聞せ存寄ニ而御請可申
  由にて此段老母へ申候得共母存寄御座候由にて断申候故其分にて
  罷在候処に無程母老死仕外に男女之兄弟も無之候に付此上ハ
  弥近年之内召連罷下り申筈に申付置候然處に其年の冬役替

  被仰付藤田儀被後へ罷下り候其砌右之女召連罷下り候儀藤田
  望に不存候意味有之暇を遣申候断申渡候へハ女申候ハ夫レハ御約束之
  末届不申難得其意候決て罷下り可申候よし難渋仕候に付色々
  申聞候得共合点不仕其内立前無余日成申候弥六ッヶ敷儀を申藤田
  大にもてあつかひ申候女申候ハ兼而ハいかやふ共可被召連と誓云を以て
  被仰候に只今に成り如此の御変改ハ可有事に無之候弥不被召連候ハゝ
  此元にて御所司代様へ訴出候て御捌方次第に可被仕由申候藤田存候ハ御所
  司代に御沙汰におよひ候得ハ御国之御名も出其上御所司代より御国江
  なと申来し筋ニ成り申候てハ至極不参事に候ゆへ先偽て左候はゝ
  召連可申由申聞なため置無程罷下り候節淀川下り船之船中ニ而
  寝入る所を刺殺し川へ志つめ申候船頭ニ茂過分ニ金子を遣し沙汰
  仕間敷と誓言を仕せ候に付夜中と申曽て外へ相知不申女
  一類共も無之何方より尋も無之相済申下着仕候て其翌年本妻

  の腹に婦女出生仕候此女子成長仕候に随イ右之刺殺したる女に能く
  似申候段々おひ立十六七歳とも成候得ハ弥以右之女に少しも不違候て容
  儀こわね万端少しも違不申外に相知れ可申様も無之其時節より召仕
  候家司と鑓持此両人数年相勤京都以来も勤候て當時ハ暇を申
  在所へ引込農家ニ帰り候此者共元より藤田知行所之百姓にて候故に
  今心易く出入いたし申候此者共出合候てひそかにさうにても旦那之
  御婦女は彼淀川にて刺殺されし女に少しも不違似られたる事哉と
  申けれ者一人之者我等も兼々さ様に存候人に申すへき様もなく過行候
  其方も同前に見被申候事扨々不思議なる事にて候彼女うらミ
  強く可存候間娘に成生出てくるにて可有候哉と昔話にてそかゝる
  事も有之たるに不思議至極の事此上已後旦那の御家に彼
  御息女御悪事に成事なとも出来致すならんと両人之者ひそ
  かに申けるかあんのことく此娘縁組之儀より事おこり藤田父子

  滅亡に及ひ申候ひとへに彼悪事か致所なるへしと後の世まても語
  傳ふるとなり或人の評に藤田にハ右之首尾にてうらミ祟る事も
  尤之事ケ様のことハ古今和漢とも例にも多く有事なり然るに
  又前川いえにハいかなる悪霊有と云ふ事を聞す然連ハ悪霊いかか
  にても有まし其悪霊のおこりは藤田か不行跡より事おこりそれニ
  段々枝葉つけてケ様に大きくなる事に成行両家の禍に成たる也
  然連者(シカレバ)悪霊よりも我方寸の心の中を恐連慎むへき事也と
  いふ人も有たり右此断山鹿郡藤田在宿所昔より申伝たる巷説
  なり無用の単墨をついやす事なれとも後世少しのいましめ
  の端ともなりやせんと書付置候なり

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

       大君綱利君于山名十左衛門賜書写
          今朝南関旅行北関至先年其方義藤田父子
          令誅戮無比類働申場所今見様存候其邑
          老村女マテ感心申候天下静謐ノ節家老職
          其方ヲ持申事世上無上稀有之事存候謹言
             三月六日   越中 綱利 御判
                      山名十左衛門殿


                     了

      これにて全て完了しました。お付き合いいただき有難う御座いました。
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北関始末實記・・その17(追加-1)

2009-11-23 17:18:12 | 歴史
        追加
 一、山鹿町に浪居たる何の文右衛門甲斐/\敷北之関迄供しけれ共
   不仕合にて討相の時手に不逢手をも負さりしか者口惜き事ニ思ひ
   山鹿迄ハ供をして帰りけるか武名利に尽はてたりと云て髪を切り
   いつくともなく出さりにけるとや文右衛門北ノ関にて臆病ハせさりしが
   如此に仕舞たるハ其場所において働自分存候よりとくと無之跡にて
   落着武辺はならにものそと我身を見限りての事にてや
   あらんと評判有けり
 一、北ノ関討相の場所にて十左衛門ち縫殿進切合たるに十左衛門の太
   刀縫殿進かひたいに両度迄ハあたりけれとも手疵もつかす働たり
   十左衛門の刀重代の大物切レなれと如此なるハ不審とて死骸の鉢巻
   をとりて見るに小ぶくろの鋸(ママ)を鉢巻に包込て居たりける
 一、北ノ関にて討死前川・山名両家の者共の死骸ハ直に彼地討

   相の場所のあたりに葬なり藤田一手上下の死骸ハ誰そ取納る人も
   なく其まゝにて数日有之八月朔日に柳川より申来北ノ関村之人夫
   出候手取納候様にとの儀に御座候故に八月二日に夫方各罷出候処去月廿三日より
   今日迄日数十日におよひ残暑極熱之時節故死骸殊之外くさり
   流れ虫も夥敷出来臭気甚敷近所へ夫方歩付候事も難成
   御座候然共脇にこもをしき其こもの上に長きてこを以て寄せ候て
   やう/\堀埋め申し候然るに藤田父子の死骸ハ少も別条なく昨日杯
   死申候様子にて臭気もなく色少し変したる変したる迄にて腫も相見へ不申
   由所の夫方共申候ハ武士は各別の事なり前代にて未聞にもとそ申ける
   其内少し心有者申たるハ肉身ハ御土末々とて其差別有まし
   き儀なり此父子者怒りの気甚敷勇気にて身肉こわり居申た
   るなるへし昔相馬の将門の御首数日死せつして有けると語り
   傳ふる事も今の藤田の父子の死骸を見れば此類にて有へしと

   そ申けるなり
 一、縫殿之進か其節働候手切相候刀ハ高田行長之新身弐尺弐寸五歩
   なり出来物の物切レなり此刀に付咄し有其打相の四五年まへ
   縫殿之進十ニ三歳の比之事なりしに何レか藤田か心安き士衆之中に
   高田行長弐尺壱寸五歩と弐尺弐寸五歩にさらしぎたいに弐腰打せ
   ためしなと試ミて無疵にも有之候ハゝ陣刀にこしらへ可申とて
   打せけりぬり砥にして其比斬罪ものゝ有しに出して試たるに
   弐尺二寸五歩ハ勝レて切レ味翌本胴其次に桶すへ物の見事に
   落けり一腰の弐尺弐寸五歩ハ本胴三分ニほど懸りけりこれハ
   切レ悪敷とて其分に置くだんの弐尺壱寸五歩を研上ケ拵て秘蔵
   せられたり其頃藤田此刀主へ参候て彼新身行長頃日ハためさせ
   のよし承り候きれあぢいかゝ候哉と云刀主の被申たるハ成程一腰ハ
   本胴并桶すへ快く落申し候故只今拵に遣置たりと助之進■云

   今一腰ハいかゝ哉と申刀主今一腰の弐尺二寸五歩ハ切レあしく本胴
   散歩一ほと参り申候是ハ不出来物にて候ゆへ可拵様もなく打込置候由
   にて助之進申候ハ其不出来物ハ御用無之候ハゝ拙者所望仕候間可被懸
   御意と云刀主の云安き御用にて候得共きれぬ物にて何に被成候哉
   難心得と有藤田申候ハ只今世忰縫殿之進當分指替之刀に能き寸合
   無御座候寸かつこう能く候間御所望申拵遣し度と申刀主の云
   幼少之衆ニ而候得者猶以なまきれの物者さゝせられす候外ニ御求
   候ハゝ被然と云藤田申候ハ只今色々求メ申候得共弐尺三寸より内の刀
   有兼申候得被仰ら連幼少者にハ別て刃早き道具さゝせ申候事
   候とも得世忰當年十ニ歳に成申候彼者か働に本胴三歩一打込候
   得ハ十分之働にて候追々盛長仕候間無程相應之道具求メ遣可申候
   當分之儀ゆへ達而御無心申候由申候て無理に小(ママ=所カ)望仕候て早速拵
   立申候に拵候様子縫殿之進至極心に叶秘蔵仕候て今一腰の

   刀ハ召置此刀のミを差居申候被蔵故當年十七歳に成まて常に差
   申候此刀にて北ノ関にて大働仕候に驚目切レあぢにて候よし新身者
   研も落着不申刃肉のあやにても切連ハあなかち切レむと片付る事ニも非す
   され共持懸り不十分事も可有事なり此事承り候まゝに配置候後代の
   若き衆之心得にも可成事なり

    いよいよ残り一回と成りました。進捗率96%です。
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熊本市歴史文書資料室の講演会

2009-11-23 15:02:15 | 熊本
 熊本市歴史文書資料室の、本年度の残り二回の講演が面白そう。
http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/content/web/asp/kiji_detail.asp?ID=6970&mid=3&LS=31

第5回
 1月26日(火)「河尻幸俊と肥後の南北朝内乱」 前熊本市立必由館高校教諭
                                 柳田 快明氏
第6回
 3月23日(火)「戦国時代の熊本と隈本城」 熊本大学文学部准教授
                                 稲葉 継陽氏
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織田信忠の諱

2009-11-23 13:32:24 | 歴史
 信長直筆と確認できる貴重な史料として有名な、細川与一郎(忠興)宛の感状である。

                        働てからにて候
                        かしく

                      おりかミ
                        披見候
                      いよいよ
                        働之
                        事候
                      無油断
                      馳走候へく候
                       十月二日

                     (折り返し)
                        与一郎殿

 天正五年片岡城攻めでの活躍に対するものであるが、信長側近の堀秀政の添状があって信長自筆である事が判る。この時与一郎は15歳、信長の嫡男信忠の諱を受けて忠興となった。又信長の刀の模様にあった九曜を許しを得て家紋とした。光秀女玉と結婚するのは翌六年八月である。
 「何故信忠の諱」なのか勉強不足で承知していない。岳父光秀の謀反は五年後の天正十年、織田信忠も宿所を出て加勢に向うが途中自刃して果てた。光秀の謀反がなく、信忠の天下が訪れたとすると、忠興の運命は如何なるものであったろうか・・歴史に「もしも」はないけれど・・。
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北関始末實記・・その16

2009-11-22 20:15:11 | 歴史
  勘右衛門自刃・・・思いがけない結末

  此程ハ諸方を流浪して大敵を持たる身なれ者
  用心にハ臆病なるかことく心ハ剛なれとの傳に任せ長崎を出し
  以来各姓名を改勘右衛門ハ佐山宗宅と改惣髪二なり筑波少助ハ下
  田弥兵衛市野権内ハ守田三太夫瀬戸源七ハ高木甚兵衛と相改む
  三月十一日之晩方より臼杵より迎之船三艘参り一艘ハ勘右衛門乗船に侍
  拾人乗来り弐艘ハ用心船にて足軽大将壱人宛に大筒小筒の足軽拾
  人宛乗来り濱ノ手裏御門より入られ御城内ハ足軽大将組の足軽を率
  し取かこみてそ入にけり御城内稲葉右京亮景通君御家督御入城之
  年にて候処に如此の武功の他国者御家を頼入来り殊ニ肥州ハ御縁の御国なれ者

  景通君不斜御悦也御馳走ハ云に計りなし昼夜四度宛の御饗応
  御料理美を尽され御家老後藤市郎右衛門に御預けにて万端心を付
  可申旨被仰付馳走人ハ中小姓三宅甚左衛門徒故障武雄富左衛門其外料理方
  壱人荒仕子五人所々之番足軽六人交代して相勤る小遣に坊主壱人昼夜
  被詰る勘右衛門被召置候所ハ御城二ノ丸也
一、三月十六日景通君ハ勘右衛門被召置候所に御入被成御懇意の御意也當地
  者何之支もなき事緩々と暮さるへし先に成てハ又住所之宜敷所ニも移
  すへし不自由ニも可有なれ共先々心安ク落着可被居殊に細川家訳之
  有る衆なれ者よ所と可見様なしと身に余りたる有難き御意成り源七小助
  権内三人之者共をも被召出御目見へ被仰付御直の御意に何連も去秋ハ
  不慮之殊能取合せ働候段御聞被成御感心被成候段御直に詳成御意
  冥加之至たり中にも森田三大夫下田弥兵衛か其節の働高木甚兵衛
  前後之智勇別而夫々に御意にて御感心被成候御一老之粟屋五右衛門

  を始御家老列座にて五右衛門右三人か働き其後勘右衛門方々被仕候内
  之奉公之儀御取合せ被申候へハ其後段々御懇意云盡しかたし
  かくて其年も暮翌年に成り春過夏立て秋も半過る頃或夜
  勘右衛門源七ニ語りけるは/人間ハ皆一度ハ死せて不叶殊珍からす
  我等如此安楽に被召置御厚恩難有事身に餘り海山共天地共云
  舌にかないかたしされとも去秋以来の事をつくづく思ふに人間一生
  夢のことくなる世の中に去秋はあまたの人を殺し其上に身の置所なき
  まゝに諸方を流浪し一類中の心遣にも成其方共迄艱難を懸る事
  我々身つの無分別故なり只今者當地殿様の御恩にて身一つ
  者安楽なりといへともまた例の敵ともうかがひ来り當御地殿様の
  御心遣ニも罷成事なとあらハ迷惑無此上候得者あはれ早く病死
  にてもいたし度事也
/とよその様に咄にて其よる八月晦日自害して夜
  着引かふりて臥して有三人の家頼共驚ひて早々此段を後藤市郎

  右衛門方へ相達す景通君へ早々達御耳乍上何とそ療治の仕様ハ有
  間敷かと被仰出候市野権内は此事達のため八代江早々罷越ス勘右衛門
  死骸を者臼杵の御城下の法花寺に葬送し普光院浄心居士
  と号す一七日に當ル日法花寺にて勘右衛門茶湯被仰付茶湯料御施
  被成後藤市郎右衛門に御代番被仰付相勤申候
一、右相済候て源七小助を御前へ被召出御懇意之御意にて後藤市郎
  右衛門相伴にて御料理被下候て被仰出候は源七・小助・源内とも直に
  當地に御留置度思召候得とも八代佐州より用事有の候間先々返し
  可申旨申来候に付被差出筈に候被下江被仰遣筋も有之候間無程
  又御逢可被成との御意なり御次にて道中着に可仕旨にて御紋付
  ちりめん袷羽織同小袖被為拝領道中要用として白銀五枚宛被為
  拝領候市野権内ハ先達而八代江罷越居合不申候二付源助手前より
  右拝領の品々相渡す
一、勘右衛門遺骸法花寺にて火葬仕遺骨者源七・小助持帰り
  菩提所禅定院へ納なり
一、瀬戸源七・市野権内・筑波小助肥後江着姓名を本名に復し
  右三人の者共ハ長岡佐渡・山名十左衛門召仕可申旨肥後太守君より被仰
  付両家江仕イ候なり

            北之関實録終

  実は未だ完了していません。追加なる記事が4ページほど残されています。これを終わらせて完了とします。
   現在の進捗率90%といった所です。

  
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二人の鹿子木量平氏

2009-11-22 11:33:31 | 歴史
               はなぐり井手のことが紹介されている、矢野四年生著「加藤清正・治水編」
 「世界女子柔道の母」と呼ばれるR・カノコギさんが亡くなったことが報じられている。アメリカで女子柔道の発展に努力され、今日の女子柔道界隆盛の道筋をつけられた。ご夫君は柔道家の鹿子木量平氏である。加藤清正が熊本城を築城する100年ほど前に、「隈本城」を築いた鹿子木氏のご子孫である。現在の熊本県立第一高校があるあたり、古城と呼ばれる一帯である。
   ja.wikipedia.org/wiki/ラスティ・カノコギ
   武家家伝-鹿子木氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kanokogi.html
   熊本古城      www.geocities.jp/zanyphenix/shiro359.html
   寂心さんの楠    homepage2.nifty.com/Hiro-Akashi/kyushyu/jakushinkusu.htm

 昨日は「熊本史談会」の例会があり、鹿子木量平氏についての話があった。こちらは加藤清正が築いたという「馬場楠のはなぐり井手」についての報告での話である。
   はなぐり井手    inakajin.or.jp/sisetsu/4302.html

 はなぐり井手については上記サイトでどのようなものか御覧頂きたい。
これは加藤清正が築造されたものとして認識されてきたが、これにかんする文書が残されておらず、関係者がその史料収集に奔走されている所である。
ところが意外な所にその手がかりが在った。加藤清正の墓所・本妙寺浄池廟の横に巨大な石碑がある。これは肥後の大土木家・鹿子木量平が加藤清正を「神君」としてその功績を称えたものである。その石碑の中にこの「はなぐり井手」にかんする一文が存在したのである。加藤家の没落と共に史料が殆ど残されていない中では、唯一の貴重な史料になると思われる。(碑文については、国立国会図書館のデジタルアーカイブス肥後文献叢書で検索第二巻藤公遺業記をごらんいただくと巻末部分に見ることができる。尚本文中p148~149にかけて記載されている)関係者のご努力でその存在が見直され、多くの方々が見物に訪れている。

 日をおかずに、お二人の鹿子木量平氏の情報に偶然であい、吃驚している。
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北関始末實記・・その15

2009-11-21 23:07:56 | 歴史
  事件から一ヶ月後、前川勘右衛門等出奔流浪・・
 長崎→八代→球磨・灰村→(口の津→長門・ひんちう→下ノ関→豊後・安伎)→臼杵  

 前川勘右衛門同八月廿四日の夜出国す其節前川与三兵衛来て
 申けるは/今度勘右衛門出国に瀬戸源七手疵平癒仕候ハゝ供に行
 へしいまた疵候ハゝ駕籠にても供すへきよし八代より御申腰候
 此段拙者より可申入由申渡す/源七畏て/手疵いまた平癒不仕
 候得とも少々御用にも可立者と被思召被仰付候段冥加之至有かたく
 奉存候駕籠にて参候儀前後左右見わたし申儀成かたく自然
 之時の用心に相成不申候間馬にて罷越可申/由願に付馬上乗懸ニ而
 参候其外家頼市野権内・筑波小助供仕候其外にも一族中より
 差添遣候併数多右一族中八家より屈強之侍壱人宛都合八人
 差添候長岡左門よりハ原田養元と云内外兼帯之醫師を添遣ス其
 夜者山鹿まて行けるに瀬戸源七が手疵馬上にてふられ候二付以之外ニ相煩ふ
 原田養元療治して翌朝者大半快成けれ共馬上は養源とめける
 ゆへ駕籠にて罷越候同廿九日小倉江着大坂迄之約束にて船を

 借り下ノ関迄着けるに大坂江行んよりも長崎へ行て可然と各相談
 して長崎へ趣(赴)かんとせしに船頭長崎江被行間敷と申により又前の船を
 かり九月十日ニ長崎に着森田与三左衛門宅に落着ける与三左衛門甲斐
 /\しく請合宿を借し候ゆへ熊本より附人之侍衆共原田養元
 ともに熊本に差返し勘右衛門ハ上下七人にて森田か宅に七十余日逗留
 しけるに同十一月廿三日の夜に入り森田ひそかに前川に申けるにハ/此元に
 逗留之儀方々へ相聞へ藤田か本国播州之一族共沢与次兵衛を大将分
 として長崎中所々に打散り此方をねらふよし相聞候爰元に御逗留
 の中若彼者共か寄せ来り候ハゝ私儀ハ一類家頼共多く候得共私
 寿命を不借して戦ひハゝおそらく百弐百参候とも風前之
 塵何之気遣も無之候と存此段いまた御聞せも不申過行候處に
 彼者共いろ/\手立にて犬を入レ私か平生之男の道を聞付威に恐レ寄り
 附不申候焼討に仕可申たくミを仕候由依之町内之者共隣町迄も

 迷惑に奉存候由はつと取沙汰仕町内昨夕よりさわかしく罷成候如此
 にて御奉行所之御沙汰になと及候ハゝ甚以御為に成申間敷候ハゝ可仕哉/と
 申けれ者勘右衛門聞て/尤之事也早々立のき可申/とて十一月廿四日之
 暁に長崎を出船し肥後八代へ一先引返し/何とそ成行了簡も可有
 之/と無程八代川口は着船し筑波小助を使として此段城内へ申達
 しけ連者返答に先粗忽に着岸如何なり近き邊之嶋に可被扣之由
 にて河口より拾丁斗沖に有拼櫚嶋(ホウロジマ?)と云嶋に上り逗留す然共此嶋に
 ハ人家も無之殊ニ水もなくして及難儀ける処翌日之暮方に小船壱艘おし
 来る何者なるらんと尋ぬるに植柳村の庄屋甚兵衛と云もの自身に
 船をおし来り八代家司山本源左衛門申付に任せ水をのせ参り候と
 云上下大悦す此嶋に十餘日逗留する處に山本源左衛門よりひそかに
 使来るて球磨之御家老役に山本源左衛門より内々にて相頼候へと八代
 城主より内意を以球磨之御家老中江申遣候得ハ引請可申由申来候早々

 彼地へ被罷越由申来候翌日早々川船にて棹上候山本源左衛門諸事
 取斗ひ船中并彼の地落着之弁當認等餘慶(余計)に送之十ニ月十日球磨
 江着灰村と云所へ落着此段人吉御城江相達候處早々白米五俵
 塩(味カ)噌・塩肴など添て相良君より贈り彼灰村ハ要害の地にて
 用心宜敷所なれハ此所に可被居とて宿等取繕林弥五紗枝門 知行百石 
 と云士を用聞に被附置其邊之地侍拾人警固之躰ニ而付被置
 此者共昼夜相詰て物語なとして伽に成り筑波小助は多芸なる
 者之由傳へ聞て地侍とも剣術捕手なと稽古する瀬戸源七も
 此節手疵漸く平癒して相共に指南する此處にて心安く年を
 越て有ける所に明るハ正月九日に八代山本源左衛門より勘右衛門へ以飛札
 申越けるハ球磨の老中より八代江申来り候ハ球磨之儀ハ鳥も軽々
 通ひかたき所柄なるに何とてか各の隠れ被居候事を存知たる者
 にて扨々無是非存候由申来候如此に被申越様にて候得ハ其地江

 逗留最早難成候早々被引取候様ニと申来る依之延宝二年正月
 十一日に球磨を断て立でる相良君よりも達て御とめ被成候来ル二月三日
 我等参府之時迄なりとも可被居由を被仰出けれ共辞退申上又川船ニ而
 八代江下り直に植柳村少也甚兵衛か十四端之船を借りて乗組只今
 迄召連たる小者三人暇を遣熊本一類中迄差返し源七小助権内
 三人召連其内筑波小助ハ用事有之熊本へ遣けれ者是を待て
 天草乃柳の瀬戸に船をかゝりて有ける時に嶋原の町に出火有其比
 口の津に数日かゝりして居ける所に嶋原口の取沙汰に敵持たる
 人此邊に逗留すると聞付敵討の者大勢ひ長崎へ入込居ると
 風聞し此嶋原の火事も其者とも放火したらんとまち/\ニ風
 説したるにて口の津を漕出し鳩の釜といふ浦に船をつなき居
 けるに小助熊本より帰りいかゝして尋出しけん勘右衛門船に来りけれ
 者正月廿四日鳩の釜を出船し玄海灘を渡りけるに俄に

 大風に逢て万死一生の大難に逢漸く長門国ひんちうと
 云浦に吹付られ三月三日ニ下ノ関に着八九日船に逗留し是より
 豊後の安伎と云所に着て市野権内を使として臼杵の御家老中
 へ相頼遣ける臼杵の老中より返答に早々に参着可有との返事に付三月
 十一日臼杵に着船す

 進捗率80数%になりました。臼杵は果たして勘右衛門にとって安住の地に成るのでしょうか?
 

 
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北関始末實記・・その14

2009-11-21 14:00:52 | 歴史
  助之進娘聟・沢与兵衛の若党二人駆けつける

沢与兵衛ハ藤田か相聟也其頃山本郡之内に在宅す今度之一乱
無心元二十三日之朝若黨弐人に鉄炮を持せ加勢ニ差遣ス此者南ノ関本道
を参候ハゝ御盤所にて押留メられ隙取へきとおもひ和仁村十町村之
山路を急き候て北ノ関近所へ参候處ニ暮ニ成候て藤田父子共に被討候て
山名前川ハ南ノ関取之由場所見物に参候者共之物語を尋回て
すへき様なく壱人の若黨申候ハ/もはや遅くてかけあひに
成不申とて常の遊山の見物之やふに無手にハ帰ら連まし我等弐人
成とも南ノ席両人の宿にかけ向ひ一働仕討死するか本道ならん/と
申けるに壱人か申候ハ/至極なれ共今夜南ノ関の山名殿前川殿
の旅宿に夜討して討死もいわれなし我らハそれにても立可申候
得とも旦那の御身上御上より御いましめ有てハ不忠之儀を我々か仕た
るに成る旦那の御身上御滅亡もはかりかたし只此まゝに罷帰り
見物のもの共物語の通りを申上て可然/といふ壱人かいわく夫レ

にて者刀をさしたる甲斐無之候今日旦那御申渡しを承り罷出候
より死ニ身に成候手参しに在所之ものゝうハのそらの咄まて
にて罷帰りてハ男の一分立間敷候間勢免(セメ)てハ北の関に参り
候て藤田殿御最後場をも見て帰るへき/といふ壱人の云ク/そ連も
無益之事なり夜中に北の関に行ても打相の場を見たるとて何の益か
有へきか其方ハ死身に成候而今朝出たりと御申候我等も何等も何ぞ生て
帰るへきとハおもひ不申候にかけあいに成不申候ハ我等共不仕合此上
からハ少しにても旦那の御身上之儀を存候か大切の奉公にて候万一
今度かけ合に成不申候儀我等共臆病にて態とおそなわり事
過候て彼地へ参候へと御しかりも有之候ハゝ臆病にてなき証拠に
其時腹切て死るも覚悟の前にて少しも残念なる事なし/と
種々に申けれ者壱人の者承り伏してさあら者とて帰りけり
去程に沢与兵衛ハ其場所へハ不参候得とも飛道具等相持家頼

両人差遣候段不届之由にて大頭志水伯耆江御預ケ被成後に御隙
被下追放なり禄五百石なり
藤田助之進二男十一歳・三男九歳女子壱人嫡女縫殿進か姉なり
妻女皆々被召捕数ヶ所へ御預ヶにて其後追放被仰付候也本国播州
姫路へ参候との沙汰なり

          進捗率75%まで達しました。次回からは、勘右衛門のその後をご紹介します。
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細川家と近衛家

2009-11-20 18:04:34 | 徒然
 近衛忠氏が赤十字連盟の会長になられることが報じられている。細川護煕氏の実弟であり、(三笠宮)靖子様のご夫君である。ご兄弟のお母様・細川護貞氏夫人温子様が近衛文麿公のお嬢さんだから、お二人は近衛公の外孫という事になる。

 細川家と近衛家の関係は、宇土細川家が大きく係わっている。宇土細川家12代行眞の子・高範が佐伯三万石毛利家に養子として入った。その娘千代子様・泰子様ご姉妹が、近衛家の文麿公・秀麿公ご兄弟に嫁がれている。細川宗家自体が10代齊茲公以来、宇土家の血が強く入り込んでいる。
遡ると細川家14代護久の弟・承昭が養子に入って藩主となった津軽家も、近衛家とは深い係わりがあるという。

 ご活躍をお祈りしたい。
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北関始末實記・・その13

2009-11-20 14:46:15 | 歴史
   決闘の跡・・

一、南條左近元知に前かとつかへたりし外科 姓名不分明 此近在ニ浪
   人にて居たりしか此事を聞付馳来り/今日之儀
   遅く承り付只今参着残念至極に存候先以無残所御利運

   に成り候て目出度奉存候先々御上下共に薬御用被成候様に奉
   存候/由にて気遣疵薬を用ひ申し候
一、十左衛門下知せられけるハ/両家の手負とも之内快気仕かたき
   者をハ外科見分いたし留メをさし一戸頃に引のけ置へし/と
   有け連者五十里喜兵衛走り廻りて見れハ西郷祐道ハいまた
   息きれす正気少し有とハ見へけれ共大疵ニ手中々快気する手
   を無と外科申けれハ留メさゝんと立よりけ連者祐道喜兵衛か
   刀を抜て来るを見て/其方ハ見方ニ而はなきか/と云へハ/是者
   五十里喜兵衛にて候旦那より被仰手疵快気有ましき衆にハ
   留メをさし申事にて候/と申祐道申けるに/旦那は御手をも不被負
   候哉十左衛門様も御手も不被負候哉/と云喜兵衛申候ハ/勘右衛門様
   御手も負不被成十左衛門殿ハ薄手ハ負被成候得とも無御別条御
   働被成候藤田父子を御自身に御討留被成家頼共残らず討取

   申候と云けれハ祐道目を見開き/それハ目出度し/と云終て容
   悪しく成息も荒しく成候故即留メを刺し十左衛門へ此段を喜兵衛
   申候得者十左衛門の云く/喜兵衛取込て喜かつかさりしハ祐道夫
   ほとに少正気も有なら者嫡子平十郎をいかゝしけるそとさそ
   おもひつらんに御子息平十郎殿も手を被負候得共薄手にて能働き
   申候と申聞悦者せ申へかりしものを残念至極と被申候此時南ノ関
   よりあんだ五丁来りけるに手負共を乗せて先へ遣申候瀬戸源七
   田代左五兵衛ハ以の外之深手にてあんだにもかきのせ申候事難成様子
   ゆへ北ノ関近所柳川御領之喜原村に漸々畳を取寄乗せ候て
   差遣し外科を附置養生仕候て翌日は気力も能候故両人ともに
   南ノ関へ引取申候其翌廿五日に熊本江着申し候
一、右之通にて何も打立南ノ関へ引取んと仕候処に柳川御城下より
   足軽大将弐人ニ足軽弐拾人宛召連れ来り/相應之用叓承り候様

   に何も先此方領内に引取可有休足候へと申段惣老様にと立花飛騨守
   被申付差越被申候由申候/十左衛門勘右衛門立向ひ一々忝仕合ニ奉存候
   何そ差支申儀無御座直ニ帰国仕候/段を申柳川衆ハ返し申候
   此節藤田か中間弐人かけ来り/旦那之死場ハとこのほとそ/と
   よ者ハり廻り申候を十左衛門聞て/下々なれともうゐやつ共なり
   もはや討取るに不及取巻生捕にせよとの下知にて早速弐人共
   生捕申候是まて今日の討相一巻相済に成候手勘右衛門を先に立
   惣人数の跡押へして十左衛門ハ馬上にて南ノ席に引取候処馬上ニ而
   十左衛門足の疵より大分血を引申候に付おり立候而三尺手拭にて
   疵をゆわえ夫よりハ歩行にて鑓を杖につき候て閑に別条なく引
   取被申候道中にて被申候ハ/いつ連も我らか鑓を杖につき候儀
   疵痛候而の事と見苦敷存候者も可有候乍去ケ様に用心之
   節ハ鑓を者かい込てハもたぬ子細有依之たてゝ持也/とそ被申ける

一、藤田父子か首を者俵に入先にもたせ候且又生捕之者ハ壱人ハ
   今昼宿之待ちに人馬之儀申遣候使之小者壱人ハ北ノ関にて夕飯
   認ニ遣候者共也後ニ熊本にて御吟味之上にて壱年奉公人殊ニ
   御国者故御免にて在所へ御返し被成候
一、藤田父子并若黨五人鑓持弐人中間三人都合拾弐人なり
   内若黨壱人小者三人ハ落失上下九人ハ討取ける
一、勘右衛門家頼討死手負
   討死 鉄炮手・家司 西郷理右衛門入道祐道  討死 鉄炮手・祐道壻 元田伊左衛門 浪人・酒屋
   討死 鉄炮手・太刀疵数ケ所 一宮弥助
   手負 鉄炮手・祐道子 西郷平十郎  手負太刀疵 瀬戸源七
一、十左衛門家頼討死手負
   討死 鉄炮手 加々見権平  手負 鉄炮手 重光小右衛門
   手負 太刀疵 衣笠新兵衛  手負 太刀疵 田代佐五兵衛
  手負 太刀疵 遠藤傳兵衛  手負 太刀疵 五十里喜兵衛
  手負 太刀疵 吉井善兵衛  手負 鉄炮 鑓持・弥右衛門
一、廿三日之戌ノ中刻彼地惣仕廻仕南ノ関へ引取候処に南ノ関ノ方より
   人数大勢明松夥敷見へて馳来る定て是ハ藤田か相聟沢与兵衛
   加勢に馳付来りし成へしと各用心して足場よき所に相待候
   處敵にハ阿らて山名・前川之一族週此殊を聞付て各馳来るにて
   そ有ける中にも朽木与次兵衛と山名四郎兵衛ハ子細有て十左衛門と近年
   義絶にて有けるなり日比の子細を捨て真先に馳来る長岡佐渡
   よりも山本源左衛門を頭として侍足軽大勢差越也其夜廿三日之夕ハ
   南ノ関に一宿して一族中并山本源左衛門用心堅固に張盤し夜を明す
   翌廿四日之朝長丘佐渡方より使者明石五右衛門南ノ関に着手負候
   者共汗替之為として帷子弐ツ宛被贈之候

                   一件落着の気配ですが・・さて? 進捗率70%を越えました。

 
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北関始末實記・・その12

2009-11-20 08:24:22 | 歴史
 決闘の悲惨な有様に眉をひそめたくなります。しばらく我慢を・・・

 藤田か家司は歳ノ程四十斗にて大兵也しかあれ
 これに渡り合散々に戦ひ薄手少し負けるか主人父子か討れ
 たるを見て跡の妻子かた付んとやら思ひけん小川の端より
 田の中を横に北の関村へ走り行を瀬戸源七追かけて/きた
 なき男の仕形哉主乃討るゝを見捨てどこへ逃て行ぞ
 に具とも逃さぬそとのゝしりて追つてくるを此間立帰り/士の
 討果ぬ下々末々の様に雑言ハ何事そいさ勝負せん/と三尺
 と見はたる刀にて源七と人ませもせす戦ひかるに、源七か刀ハ
 
 徒者本(ツバモト)より打折飛ひらき弐尺壱寸の大脇差を抜合せて
 戦ふ相手の男手きゝにて電光の如くに切廻源七ニケ所に
 手負其所者田之中にて稲も穂に出る前ニ而腰だけ斗
 に有之ゆへ互に心まゝに戦れすされ共いかゝしたりけん源七
 の耳のはつれよりくひ半分に被切候を源七相討にあいての首
 中に打落す源七も深手にて首左へ落さかるをひだりの手にて
 押上て相手に留めをさゝんとはしけれとも深手故眼くらみ
 手すくみけれ者少心を取直さんと田のあせに俵なとなる
 石の有けるに腰をかけて気を鎮め大脇差を見れハ少し
 のりたると見へ其上血も多く付たる髪毛多く付て見え
 けるを漸く膝に當て押奴具ひけ連とも血も髪けも落ちす
 源七少し心地取直し/誰にても頼申頼切候たる刀ハ打折脇差
 ものり申候そこらに藤田父子が死骸有へし其刀を取てくれ

 られ候へと云朋輩共助之進か刀を取て渡すを取てさし気を
 繕ひて腰かけたり同勘右衛門家頼筑波小助は武蔵流之剣術
 きわめ居たりけるか此間大勢と切合藤田か家頼弐人を
 打取り自分ハ薄手も負す相働く右田通にて相手上下共
 討果し各畑の岸に腰かけて休息しいたる時ハ廿三日酉ノ上刻
 なり
十左衛門被居候前一段下之畑中に切伏られて居る藤田か
 家頼を文右衛門走り寄胴を切落すを十左衛門見て/それは
 誰そためし物にてハなきそ死たるものを理不盡にむさと
 切るな/と下知す文右衛門承り/是ハいまた死きれす居申候間切り
 申候/由申候
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北関始末實記・・その11

2009-11-19 18:51:15 | 歴史
          いよいよ決戦の火蓋がきられました。

 祐道すゝミ出て十左衛門                    
 に申けるハ/助之進父子当時かくれなき小筒の上手にて御座候に
 相かゝりに御懸り被成候事大事に御座候間私父子の右の方の畑之
 中より遠く廻り悪口を申的をせかせかゝり申候ハゝ藤田必定
 私共鉄炮打懸け可申其火音相図に二ノ屋込合之内二旦那
 御両人様ハ此左之方之高見ねを小楯ニ御仕寄被成彼者共か私
 父子を討申候と一同ニ御懸り被成候ハゝ御利運慥成る事にて此節

 御矢面之御奉公勤上/と云捨て祐道父子并酒屋伊右衛門一面
 二并右の方之畑ノ中より土烟ふみ立て声々によ者ハつて
 刀を振て討てかゝる山名内之加々見権平ハ御矢面は前川様
 之衆斗の持方にも有之ましと/此方より壱人も矢面に成候者
 なかりしと後代迄沙汰に逢はんも口惜し且主君の御名も
 出し事なり/とて祐道に相ならひて討てかゝる酒屋伊
 右衛門ハ常に多言ならぬ口おもき者也しか此節大声上て
 主之矢面にたつ事ハ成にくき事の様に連々聞伝へ成程
 左様に可有事と我もおもひ居けるに此場に成りてハ思ひし
 に違扨々成りよき心安き事哉/とから/\笑て討かゝるを各
 声々に/あの臆病者めおのれよりか相手になるこそ残念なれ
 但我等ともか様なる剛の者にハ己レ共か躰の臆病者の打鉄炮の
 あたるものにてハなきそ鉄炮にても石火矢国崩しにても

 何百挺もうたハ打て見よ此方共は花の散る様のもおもはす斜め
 と飽まて雑言し的をせかせて討てかゝる処をいかりにいかつ
 たる藤田父子祐道か智略におとされ大にせき上て三挺の
 鉄炮つるへ打ト打かくる祐道・伊右衛門ハ一同に水落を弐ツ玉に
 て打ぬかれ祐道ハ弐間斗走り懸壱尺五寸ほと飛上つて前へ
 かつ者と伏す伊右衛門ハ鉄炮請とめたるそ心得たりとこたへて
 走りかゝりけるを前に弐尺斗りの畑の峯の有けるにどうと落
 て起もあからて死けり加々見権平は乳の上のまん中弐ツ玉ニ而
 打連血煙おひただしく立て是も弐間余り走り懸つて
 かつ者と伏す藤田ハ聞ゆる早打の上手にて烟の中に早詰し
 て父子共に早打するに烟て矢筋不分明ニ也有けん西郷
 平十郎右の高腰を打けれ共少しもひるます討て懸る父子
 か内何レか打たるとハ知レさりけり一放ハ者つ連けり此鉄炮の

 火音聞と一同ニ左之方北の峯かけ飛か如くに討て懸れ
 者藤田父子平生鍛錬の早打の秘術を尽し父子一同に打
 かくるといへ共間相(ママ)以之外近く其上極て急成る事故ニさし
 もの藤田も此ニあわてゝや有けんまた山名・前川運や強かり
 けん両人ハ手も不負さ連とも山名内金光小右衛門高腰を打
 れ小膝をつく同鑓持弥右衛門と云もの末々なれとも謐りたる
 もの也しか鑓をハ主人に渡して我等も此侭にて只おる
 へき所かとよ者はり刀えお抜て十左衛門脇よりつとかけぬけ
 て先へすゝむ所を高もゝを被打ころひける其間合甚た近
 かけれハ藤田父子鉄炮なけすてけれ共鑓を取る隙もなく
 直に刀を抜いて討合けり助之進をハ十左衛門鑓付けるか助之進
 につこと笑て鑓をたくり寄る所を十左衛門踏付て留めをさす
 縫殿進ハ大勢を相手にし戦ひけるか父か討るゝを見て一文字

 にかけ来り十左衛門の左之方の小膝を折て上ケ切に切かくる
 家頼共それ/\縫殿進か懸り申候と云を聞十左衛門ハ此とき
 助之進を踏付て留メを二タ刀さす時なり殊ニ左勝手にて
 急に取合せかたく右之方江横飛に壱丈余り飛ひらくを
 家来共中にへだたり縫殿進を取こめ討ンとす縫殿進ハ
 四人をあいてにして前後左右に相當り働く事鳥の飛より
 も猶軽し此時十左衛門横飛ニ飛ひ被申ける所ハ高さ四尺はかりに
 よこ六尺余の土手洪水の節の水よけ乃塘也十左衛門無双の軽
 わざを得られけれ者たやすく飛越へ即時にまた土手を走り
 越へて鑓を者助之進に突立て被置ける故に直に刀にて相
 戦ふ此土手今ニ至りて年々水よけの修復有て今者
 高さ六尺余地なみ八尺程に成て有今に至つて此土手を
 山名殿の飛土手と所之農人者名を呼ふとや扨縫殿進ハ又

 十左衛門に討かゝり火花をちらして相戦ひけるか咽やかわき候ん
 横きれに小川の端に走り行て左之手にて水をすくひて
 飲む所を十左衛門かけ付て鑓をもつて背より突通す縫殿
 進拂ふ太刀にて十左衛門左の足に少し手負けり藤田か家頼
 共ハ何も命を惜まず切合けるか若黨壱人中間弐人ハ手負
 落失ける
                   現在の進捗率60%ほどです。
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玄猪(げんちょ)餅

2009-11-19 09:26:34 | 歴史
 11月6日のブログに、『出陣の折家臣の奥方が餅を届けたことを喜んで、今後の出陣の際の嘉例にしようと言ったと云う話があった』 ことを書いた。綿考輯録に在る話だが、懸命に探したのだが見つけ出せないでいた。ありがたい事に芦屋市在住のT氏が探し出していただいき、ご連絡いただいた。
「出陣の際の嘉例」は記憶違いだった。
 
【此時有吉将監立言は京都御屋敷御長屋ニ居候に、御出陳玄猪の日にて、立言餅を祝ひ立出ける時、妻心付、殿にも御祝可然と申て急なる折節故、器物も不有合、山折敷の有けるに乗せ持出候へは、藤孝君はや御馬に召れ候所に、玄猪の餅御祝被成候へと云て差上けれは、御出馬の折節、玄猪は能心付也と被仰馬上にて御祝、目出度御帰陳可被成と仰候、即御勝利なりけれは、御帰陳の上にても猶御賞美被成候、後々まて山折敷にて玄猪の餅差上候事は、段々御領知も重なり、旁以御吉例に被思召候に付、向後無懈怠差上候へとの御意有之候故と】 (綿考輯録第一巻p57)

 あいにく私は「玄猪餅」についてまったく知識を持たない。ぐぐってみるとすごいサイトがあった。 【 ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?歳時部/玄猪 】
〔類柑子〈中〉〕に出てくる細川家の茶道とは果たして誰なのか、これも気にかかる。
内容が安易な【 ja.wikipedia.org/wiki/亥の子餅 】を読んで、お茶を濁した。

 旧暦十月というからちょうど今の時期だろうか。和菓子屋さんをちょっと覗いて見たい気もする。そして有吉家にこの「玄猪餅」についての、言い伝えが残されているものか、知りたい処ではある。
コメント
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