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俳句のユーモア (講談社選書メチエ) |
坪内 稔典 | |
講談社 |
さて昨日は荒木村重のご子孫のお宅(福岡県大牟田市)まで出かけました。
行きの道筋の途中、西南戦争の激戦地田原坂(タバルザカ)周辺の田んぼは、見事な金色に稲穂が頭をたれ一部刈り取りが終わった田んぼのあぜ道には彼岸花が群生し、・・ああ秋・・と思わず車を止めて見入りました。 玉名から府本越えで大牟田に抜ける近道をしたのですが、コスモスが群生している風景に出会い目の保養をしました。帰り道ではナビゲータが付いていない我がポンコツ車は暗闇のなか、行きに通った道に入るのを間違え、南関周りの国道3号線で5キロほど遠回りして帰宅しました。真っ暗な田舎道を走ると、今日の素晴らしい秋晴れを予感させるように、星空がすばらしくきれいに輝いていました。
秋はいいですね~ 皆さんはどんな休日をお過ごしですか・・
昨日も書きましたとおり、「青龍寺以来御家来」「田邊籠城御家来」のご子孫の調査で、ばたばたして一日を過ごしました。うれしニュースが届く一方、残念なニュースも到来複雑な気持ちにさせられます。
しかしながら今後のためにも、一人でも多くの方々の所在を明らかにしておきたいと頑張っています。今からでも結構ですのでご一報お願いいたします。
田辺城・青竜寺城にまつわる子孫たちの「幽齋没後四百年の集い」
1910(明治43)年に、田辺城・青竜寺城に縁のある人々が集まり、「幽齋公三百年祭」
が行われました。今年、幽齋没後四百年を記念して、11月7日に熊本市黒髪の泰勝寺
跡にて「幽齋没後四百年の集い」が検討されています。
左記は明治43年開催時も参加者一覧です。これらの方々と縁のあるご子孫の方は、左
記連絡先までご一報ください。
そして「青竜寺城召出子孫」として26名、「田辺籠城者子孫」として23名のお名前が列記してある。
9月27日当ブログでは、【謹告・・「青龍寺以来」「田邊城籠城衆」のご子孫様】を書いた。
まさにこれが、この催しについての事であったのだが残念ながら直接のご連絡はなかった。
400年の時の経過は如何ともし難い。しかしながら、いろいろな伝を頼って若干ながらも消息をつかみつつある。皆様のご協力を切にお願い申し上げたい。
綱利の弟・利重(新田支藩祖)の二男(利武-)として延宝四年(1676)十一月廿日に生まれ、元禄十年(1697)新田5,000石を内分された。綱利は継嗣・吉利を、宝永三年(1706)四月廿五日に亡くしている(18歳)。その後は柳沢吉保の男子を養嗣子とするように画策するが、老中稲葉氏の反対を得て失敗に終わった。綱利が、利武を養子とするべく願い出るのは、宝永五年(1708)正月のことである。利武はそれまでにニ男ニ女を成しているのだが、皆夭折した。宣紀と称し従四位下に叙任されたのは翌六年(1709)四月のことである。この時期にでも正室を迎えられなかったかと疑問に思うのだが、次々と側室に子をなさ〆ている。五人の子が夭折している。十人目の子が後の宗孝であり、その後重賢を含め十人も息災に育った。最後の子・龍五郎(家老木村半平養子)は三歳で夭折している。
養父 細川綱利
実父 細川若狭守利重(新田支藩祖)
生母 築山氏女 辨
夫人
※小野田太郎左衛門女 與幾(ヨノ)
1 男子・竹之助(夭折・三歳)
3 女子・亀(夭折・六歳)
5 女子・春、名世(夭折・五歳)
6 男子・萬次郎(夭折・一歳)
※鳥井氏女 際
2 女子・蔵(夭折・六歳)
4 男子・八三郎(夭折・六歳)
8 女子・富(夭折・三歳)
10 宗孝(七代)
12 禰々、喜和(宗対馬守義如室)
14 照、三千、千代(安藤対馬守信尹室)
21 男子・龍五郎(家老・木村半平豊持養子・夭折三歳)
※姓氏不詳
7 女子・村(夭折・三歳)
※安野氏女 民
9 女子・勝(夭折・三歳)
11 八代、花(松平讃岐守頼恭室)
17 衛世、悦(長岡助右衛門是福室)
19 津與(小笠原備前長軌室)
20 興彭(長岡図書興行・養子)
※岩瀬氏女 利加
13 重賢(八代)
15 豊、常、岑(織田山城守信舊室)
18 幾、常、成、軌(細川大和守興里室)
※友成氏女 佐衛
16 紀休
これらの側室(?)たちがどの様な生活をしたのか、詳細は判らない。
享保五年(1720)十二月廿一日、宣紀は生母・高正院を新田藩から本家に引き取っている。これは実兄(新田藩二代藩主)利昌が正徳五年(1715)に亡くなった事によるものだろうか。理由が良くわからないが時間がたちすぎている。この人とて正室ではなかったから、上々様としての扱いではなかったのだろう。翌六年七月の末に亡くなった。
■同(御着座後)時習館江御入之式・2
一、夫より諸師役被召出候間御座所南
側二枚御襖取除ニ相成此儀ニ不拘致
座着候上ニて講堂之内ニ入左之御襖より
一間之程を左後ニ取東北之隅向座着
例之御座所江御出坐之時平伏夫より
頭を上居候得ハ左之通
何連も出タ歟
右之通被遊御意候間御取合左
之通
御意之趣何レも難有仕合ニ奉存候
右之通御前之方ニ東向申上平伏仕
候得者御襖立候間元之座ニ下り候且又
見習之人ハ初坐着之侭堂中江者
不進平伏等之様子同席ニ応可申事
但夫より詰間へ罷越候間合無之候尤
御用人江懸会御程ニ應可申事
付紙
文化九年御入之節御用人江懸合
候處師役中江御意ハ不被下
候筈之處其節ハ臨時 思召ニて
御意被下候由御定不被下候得者何
れも被召出難有奉存段御取合
申上候右之通候間同十一年御入之節
平井典助江懸会候得ハ師役之儀ニ付
毎御意被下置旨柏原新左衛門奉
窺之段典助被申達候間以来其通
可心得事
御奉行学校御目附ハ
御前を下諸師役召出之節ハ西外
之御入側ニ坐着之事
一、御供宣ク申上之節初之通御居間御
縁伝イ御敷出しニ罷出候御縁より被遊
御下候節より次第ニ平伏御一ト通
御意有之御三拝儀御駕之戸立
候而頭を上奉見送御小姓頭御用人等
一同ニ御辞儀退去詰間へ罷越候事
御立役ニ最前ニてハ役方詰間へ罷出
恐悦被申上候事
一、此御式之節ハ講尺不被仰付由之
事
但御社参之節ハ当所ニて御長袴
被召替候と相見候事
一、右之御式相済御帰殿之節ハ、平服
二て御出迎諸事例之通尤御次ハ麻
上下ニて候得共御庭御社参被為在
候付而之事之由、文化十一年六月郡
九郎太郎より被申達候事
一、今日御帰殿之上為伺御機嫌御備頭
御留守居大頭出方有之候此節両御役
詰間へ罷出陳行営御備頭銘々より兵
一、右之通ニて相済御社参被為在
候得者御帰殿前御花畑へ出仕之
事
但御社参之節ハ当所ニて御長袴
被召替と相見候事
一、右之御式相済御帰殿之節ハ平服
二て御出迎諸事例之通尤御次ハ麻
上下ニて候得共御庭御社参被為在
候付而之事之由文化十一年六月郡
九郎太郎より被申達候事
一、今日御帰殿之上為伺御機嫌御備頭
御留守居大頭出方有之候此節両御役
詰間へ罷出陳行営御備頭銘々より兵粮積り
大頭連名一同ニ御用番江達有之候尤
箱ニ入封印ニて候事
但志らへ方出来兼候得ハ其段内意
有之追而差上ニ相成候様及差図
候事
一、右者請取佐弐役江相渡置近日中
封之侭御直ニ差上候事
■同(御着座後)時習館江御入之式
年頭并御発駕前
御入之御式相替儀無之
一、御登城御奉行所より御当所江
被為入候間麻上下着
御登城前出仕之事
但右之出前点外也例之通路次より
君子齋江罷出候大御目附も一所
之事
来ル幾日時習館江御入ニ付諸師役
被召で候段ハ、助教江御用番より
以紙面申達候事
御登城以下御出之儀、御用人より
達之事
一、御入前御奉行学校方一人助教御目附
詰所江相見候事
一、御入前諸師役ハ講堂ニ繰付有之候
例之聴衆之通ニて西頭北向ニ座着尤
鏡板之カマチより一間餘も引下り坐着
と相見候事
但此座着之程合ハ人数之多少ニも
より可申事
一、東間より被遊御入候御中門外喰違出居
之間、北側並木之下ニ御奉行御目付ハ出方無之
助教学校御目付等相揃東頭ニ罷出
候事
但初御入國之御初入之節ハ南門
御通り尊明閣より被為入候得候へとも
御平年ハ本行之通
一、御居間之北軒口より日覆差御有之
箱段下二間ニ三間程御敷出有之
候事
一、御奉行所御供廻御注進有之夫より多門より
講堂南西ノ御入側を通り
御居間御縁伝イより北ノ御縁箱段
より下り御敷出ニ罷出候事
但押立たる御注進ハ此一度ニて候事
一、御敷出ハ御打場口候御取次一人
御駕付之所江罷出居南側御用人
其次ニ大御目附北側御小姓頭其次
少引下り箱段之向通り位ニ同席見習
之人共東頭ニ罷出候
一、御中門内ニ御駕御乗入之時分より次第ニ
平伏御駕居り候所ニて御三拝儀御一ト通
御意有之其上ニて頭ヲ上ケ御居間江
被為入候而大御目附等之跡ニ付上り脇差を
脱持元之如御縁通御座之御向通りハ
御見懸ニて無之共敬之罷通講堂西
之中御入側御次入口二枚屏風之外東向
北頭ニ見習之人共一所ニ座着之事
但同席座着之後手西外之御入側
二三間程御屏風囲出来御次江取入
御茶道なと罷出居候と相見候事
一、夫より御用人案内有之御次江罷通左手
障子之元ニ脱剣見習之人一同御居間江
南頭へ罷出候事
一、御居間御敷居外ニて御三拝儀是江ト被遊
御意候付、御敷居内ニ摺入館中不相替
旨恐悦申上、御手熨斗長被下候間頂戴之
左江開直ニ御次江下り帯剣二枚屏風
之外元之所ニ坐着之事
一、同席召出之内ニ御奉行助教学校
御目附講堂西外之間御入側ニ罷出居
同席下り候上於御居間被召出御奉行
副役ニて候ヘハ御手熨斗ハ無之由候事
但此時列坐等無之候事
(2へつづく)
公的に使用される奥まった部屋だが、古い絵図によると4間×5間(定かではない)ほどの広さがあり部屋の真ん中に柱がある。これが「中柱の間」の命名の所以であろう。この部屋は「御花畑中柱御間より御奥向御裏御殿迄之図」によると三拾八畳半とある。その上(東側)に間仕切壁で仕切られた部屋がありこれが三拾畳とある。後代の絵図によるとこの二部屋をもって「中柱の間」とするものが見受けられる。不思議に思っていたのだが、この二部屋は大部屋として使うためにその仕切り壁を取り外したと考えると辻褄が合う。もともとの部屋の中央にあった中柱と、襖が立て込まれたかもしれない元の仕切り壁の中央の柱が残った。つまりは六拾八畳半の広間に二本の中柱が残ったことに成る。(・・と考えたのだが、わたしのこの推論を裏付ける絵図がない・・クク・・)
「大坂玉造ニ越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置、何時も大地震或火事ニ而も外へハ不出、地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置・・・」
「四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置・・」という記述は、ガラシャ夫人に殉死した河喜多氏の資料によると、部屋の四方の鴨居に火薬を仕掛けて火を放ったとあるから、内容的には同様のもので信頼性の高い話ではないかと理解している。
通常「地震屋(間)」とは、地震に備えた構造を堅固にした建物と思いがちだが、「関原集」の記すところによると、いささか意を異にする。豊前入国後の忠利代、小倉城内に「地震の間」の建設にかかわる記述が、福岡県史「小倉細川藩」で伺うことが出来る。同様の目的をもっての事であったのだろうか。
肥後入国後はどうであったか。正室は江戸住まいが義務付けされているから、頭書のような性質の建物は必要ないと思われるが・・・実は存在していた。御花畑絵図の初期のものにこれが書かれている。藩主の居室のすぐ後ろに4.5間×7.0間ほどの建物がある。入り側を廻した12畳と8畳のニ間という間取りである。後代の絵図にはこの建物は書き込まれておらず、取り壊されたのであろうか。平和が訪れた時代不要の建物となったのか、どうも「奥」からお庭を望むにこの建物が邪魔をしているように思える。真実はいずこにあるのか、大変興味深い。
文書を読むと「政府」という言葉が出てくるが、この御奉行所こそがそれである。大奉行(1人)、奉行(6人)の下に下記のような部局があり、選挙方・郡方・刑法方は一局独立し、その他の局は二局、もしくは四局を合併して六人の奉行が兼任する形で割り当てられた。
・機密局 國中の大事、告論の号令、士の選校、勲封考課、積分三年大比賞罰の政令を司る。
(奉行全員で此局を指揮す) 家老・大奉行が指揮す。
・選挙局 歩使番以下、官吏卒徒隷に至る迄、進退の政令、考課忠課賞褒、及市井農商の勤
惰褒貶を司る。
・郡局 國中戸口圖籍、井田貢賦の補欠勾會、川瀆陂地、築堤、堰決、溝洫、河渠の導達、
山林の蕃滋、牧牛蓄馬、養蠶桑樹、土木道路、橋梁舟筏の政令、又貧民賑恤の事
を掌る。
・刑法局 罪人を治罰する事を掌る。
・當用局 當番奉行の府なり、日々雑事、臨時の用を取調ぶ
(種々の書類を受附担当の局に配布す)
・客屋局 巡見使諸侯の通行、諸方の来賓、使節来住、吉凶禮の儀式、都て他郷に係りたる
事、及使僧飛脚の類、君公東都参勤朝聘を掌る
・普請作事掃除道方 土木の事経営興造の衆務、普請は城郭石壁修築を指揮し、作事は公
館の経治興造■塀の修理を指揮し、掃除は城中を始め、公館庭中、都下街道の掃
除、堭塁の修理を指揮し、道方は道路の修造を指揮す。
・船方 川尻、鶴崎両水塞の舟檝指揮を掌る。
・勘定局 國中勾會度支、金銀銭粟出納の指揮を掌る
・城内局 城中の出入、戎器の修造、資糧一切、城内の政事を掌る
・学校局 学校の上府なり、学政を掌る
・屋敷局 都下侍屋敷大小身より、中間に至るまで、住居の屋敷、出入の指揮を掌る
・町局 城下市中の支配を掌り、公事訴訟、萬事の指揮を取調ぶ
・寺社局 佛寺、神社、修験、沙門巫祝の類の支配、神明祀祭、災祓除禳、及公廟享祭、
道佛葬儀の事を掌る。
・類族局 耶蘇宗門改、生死存亡、改名住所替、縁組等を掌る。
・(手当方) 軍國師旅の事を掌る。・・・・(後年設けられた部門)
今回いろいろ検査をしたのだが唯一血糖値が高く、糖尿病の一歩前だとのご託宣である。
最近はベジタブル派になりお酒もほどほどにしているのだが、いささか口汚いところがあって時折甘いものを口に運んでいる。これを止めて少し運動をして完全健康体にしようと思っている。今朝起きると散歩に最適の曇り空である。新聞を読みながら朝食をとっていると、急に雨が降り出してしまった。天気の予報欄をみると日中雨の一日らしい。(残念無念・・)
一日PCに張り付いているのも良くないから、少し体を動かしあちこちに散らかっている資料の片付けでもしようかと思っている。
・山本博文 大奥学
あるサイトに次々に上梓する氏の活躍ぶりに、いささか批判めいたコメントがあった。
判らぬでもないが・・・又買うかもしれない。
・石川英輔 江戸人と歩く東海道五十三次
これは買います。こういう類の本は大好きなのです。
・吉村 昭 桜田門外の変
この本には泣きました。映画化されたそうですが、見てみたいものです。映画鑑賞の前に文庫本をどうぞ。
ついでといっては失礼だが、文春文庫のサイトをぐぐって見た。
・松村賢治 旧暦とくらす
すぐ買います。こんなの大好き・・
・山本一力 にこにこ貧乏
最近ご活躍の山本さん、たまにはエッセイもよいかなと・・・
・帯津良一 めでたくポンと逝く
そろそろ死に方も考えなきゃ・・・
集英社文庫もちょっとチェック・・
・津本 陽 巨眼の男 西郷隆盛 1
びみょ~
中公文庫は・・
・読売新聞取材班 著 検証 日露戦争
これは買います。
その他未チェック・・ 秋の夜長は読書ですよ。
御城を出られた藩主は西大手門脇の奉行所に入られるが、今回はその「御奉行所御入之式」である。次回「史談会例会」に先立ち、
奉行所の間取図を見たり、奉行の構成を「官職制度考」などを眺めて・・予習である。
■御着座後御奉行所
御入之式
年頭并御発駕前御入之御式
相替儀無之
一、御登城より御当所へ被為入候間麻上下着
御登城前出仕之事
但政府ハ御勝手方より罷出候間両人之節者
両人共出勤差支之節ハ其外よりも罷出候
一、出勤之上先毎之所ニ毛氈敷有之候間、此所ニ
刀を脱置候得ハ、御入前坊主より機密間江
直ニ置、御立後差出候事
一、詰間江者
公儀御法度之懸札外ハ張上刀懸等
皆取入ニ相成候事
但毎ハ畳敷替ニ相成候へ共、以来ハ有懸
之侭ニ而差直候事
大目附ハ御城時習館江出方有之
政府江者出方先ハ無之候事
一、御先番之小姓役等相見候ヘハ御用人より
御取次を初召連詰間江参、御刀懸等
出之御雪隠見繕下居候事
一、御注進前詰間煙草盆硯箱其外
総而坊主より取入候上、何連も口之間江参
西壁付北向南頭江坐着、御注進を相
待居候事
但大御奉行右同断
文化十三年六月十九日御入之節雨天ニ付
傘被遊御免旨ニて御小姓頭より
差図有之候間、御時宜申上候節迄傘
取候由之事
一、辻為御目見御奉行中ハ御玄関栗石
罷出、御目附中ハ御侍口前ニ罷出
其外御役人中士席巳上中門と中門之廣キニ
御左右ニ罷出、且又大手内ニ請場々々
罷出候御役人有之候事
一、御注進左之通
御城御立 御城御供廻
一、右御城御供廻ニて御用人等一同御敷出ニ
下り御敷臺脇南塀を後ニして壁を左ニ
取北向東頭ニ坐着之事
本文東頭と有之候得共、諸御先番等都而
御出之方を口ニ致候事ニ付、舎人方申談
御出方を口ニ坐着致し候事
一、文化十三年六月十九日御入之節雨天ニ而
御駕御敷出之上ニ居御出迎難成
候付、宇右衛門嘉津次儀会議
御入之時之通り御玄関箱段ニ罷出候事
政府ハ御小姓頭御先番無之
一、御路次内ニ御駕御乗入ニ相成候時分
より次第ニ平伏、御駕居候處ニて御辞退
御一ト通り御意有之、其上ニ而頭を上
被遊御上候御跡ニ付口之間始之通
坐着控居候事
一、夫より御小姓役御口祝差上候而御用
人より案内有之候得ハ、口之間南壁付ニ
脱剣一同ニ罷出、詰間敷居外ニて御辞
儀是江と被遊
御意候上、尚ニ南頭ニ御敷居内ニ入
御奉行所不相替旨恐悦申上
御手熨斗鮑頂戴之仕、左江披口之間江
退去之事
但同席被召出候内御奉行以下被
召出之御役人口之間へ繰付有之候、尤
是より差図等之手数無之
大奉行并御奉行本役迄御手熨斗
被下置、左候而御口祝取入候上、副役御目付附
御郡御目付御勘定役書役まて被召出候事
但同席列坐無之御用人諸事
取計之事
一、右之面々召出相済候得ハ、直ニ御供廻り
候付、御敷出初之通罷出、御玄関
被遊御下候時分より次第ニ平伏御一ト通
御意被為在候間、御時宜御駕之戸
立候上、頭を上ケ奉見送、御用人等一同ニ御
辞儀退去銘々之坐ニ着候事
一、御算用頭は召出無之、辻
御目見ニ罷出、御穿鑿頭ハ其儀
無之候事
一、夫より御奉行始ニ召出候御役人一切ニて
詰間被罷出恐悦被申述候事
一、右之通ニて相済、時習館へ被為
入候御間ニ南御門通り御帰殿前
御花畑江出仕之事
四年前の今頃(2006,10,6)の新聞に「細川分家の墓確認」という記事があった。
忠利の二男尚房一族八人のお墓を、九州新幹線工事に伴い熊本市教育委員会が調査をしたものだ。尚房とその妻、尚房の生母(永寿院)、長男尚方とその妻、二男、長女、二女の八人である。その調査報告は2008年3月「智照院細川家墓所 -花岡山・万日山遺跡群第一次調査区発掘調査報告書」で詳しく報告がなされている。
光尚の死後肥後熊本を三分割しようという案があった。六丸・宇土細川家そして光尚弟・尚房である。綱利が幼いながら54万石を襲封するわけだが、これには尚房の岳父・松井寄之(忠利末弟)の努力があった。光尚室は寄之娘、尚方室は松井直之の娘であり、八代松井家とのかかわりが深い一族である。綱利襲封から17年後、尚房は二万石を拝領する。完全に綱利の支配下に組み込まれた。遣領は息尚方がそのまま受け継ぐが、貞享五年(1688)二十歳で死去する。継嗣がなく結果として絶家するのだが、尚房室・慈法院は享保12年(1727)85歳、尚方室・瑞仙院は享保11年(1726)57歳で亡くなり、一族は絶えた。