そんな思文閣のサイトのなかのブログ「シブログ」や、PR誌「鴨東通信」を時折拝見している。「鴨東通信」はPDFで全文が公開されており、そうそうたる方々の論考を拝見でき有難い事である。
いとも簡単に真贋を見極められ、軽いユーモアを交えてのコメントには定評があるが、これは「思文閣」の70年という歴史に裏打ちされたものであろう。「鴨東通信」などを拝見すると、思いの深さが本物である事が感じられる。
戦乱の世を疾駆した武家文化人、
細川幽斎(一五三四〜一六一〇)
のすべてを再検証し、新たな幽斎像を提示する書。
没後400年記念出版。
付・細川幽斎年譜。
【はじめにより】
慶長十五(一六一〇)年、当代きっての武家文化人として世評の高かった細川幽斎は、静かに京都三条の自邸で息をひきとった。幾つかの記録に、その死のみが伝えられる、ひっそりとした最期であったようだ。
以来、永らく文学史において幽斎は、微妙なニュアンスを含んだ「古今伝受の歌人」であり続けた。だが、没後四百年に近づく中で、この歌人について多くの知見が学界にもたらされるようになった。
古今伝受研究もその実態の精密な考証が進み、また一方、幽斎その人についても、近世和歌への連続から見た新たな和歌史上の定位がなされつつある。それにともない、逆に未着手の課題が顕在化してきた。機は熟したといってよい。
幽斎像の再検証。まず手をつけるべきは、「文」の面「武」の面の統一的把握。そのためには、文学研究、歴史学研究双方からのアプローチが必須だ。その方法として、鳥瞰的な把握と、多様な具体的諸側面からの照射という二つの視点をとる。そこに幽斎は新たな息吹をえて蘇るはずだ。
学界は無論のこと、広く戦国時代の文化に関心を寄せる読者に向け、ここに新たな躍動する幽斎像を提示することとなろう。
【目次】
Ⅰ 戦塵の中の人生
細川幽斎--人と時代●小川剛生
足利将軍直臣としての細川幽斎●山田康弘
Ⅱ 和歌と歌論と
衆妙集冒頭の百首歌について
--成立・異伝・表現●浅田 徹
幽斎の歌論
--名所ならぬ所の和歌の詠み方●大谷俊太
『詠歌大概聞書』試読
--講釈の論理を追って●鈴木 元
細川幽斎と古今伝受●海野圭介
Ⅲ 芸能と有職故実
細川幽斎連歌序説●長谷川千尋
細川幽斎と能●大谷節子
細川幽斎と武家故実●末柄 豊
Ⅳ 古典学の世界
細川幽斎の伊勢物語注釈
--『伊勢物語闕疑抄』の達成●青木賜鶴子
細川幽斎はいかに源氏物語を読んだか●徳岡 涼
百人一首『幽斎抄』編纂前後
--三条西家和歌註釈の行方●鈴木 元
幽斎の兵部大輔藤孝期における典籍享受●森 正人
Ⅴ 近世への展開
細川幽斎の狂歌●高橋喜一
細川幽斎の紀行
--もう一つの紀行紹介への布石●鶴崎裕雄
細川幽斎と徒然草
--『墨池』所収色紙について●川平敏文
幽斎(学)の享受●西田正宏
細川幽斎年譜●稲葉継陽・徳岡涼編
索引
私は昭和21年4月発行の、川田順氏著の「細川幽齋」を持っている。
川田順氏についての知識はまったくなく、この本を購入したときインターネットで検索して、「歌人、実業家。住友総本社常務理事」という経歴を知った。それとともに、夫ある身の「歌人鈴鹿俊子との恋に苦しみ、自殺未遂を起こし、いわゆる”老いらくの恋”と騒がれた末に結婚した。」とあり、いささかこの著作の筆致と乖離があるように感じた事だった。
’84年版ベストエッセイ集を読んでいたら、俳人・山口誓子の「微笑」という一文があった。
その中に川田順氏のことが記されている。
山口氏は住友時代の二年後輩で文学者としてのお付き合いもあったようだ。
川口氏が亡くなられた後、老いらくの恋のお相手である夫人から歌集が送られてきた。
その中にある短歌に、山口誓子は微笑んでいる。
すきものと
みずから名告る阿闍梨にて
わが老いらくの恋をとがめず
この自らを「すきもの」とのたまう阿闍梨とは、東大寺の上司師という方だそうだが、すっぱ抜かれて迷惑なことであったろうが、不倫ともいえる老いらくの恋をとがめることも為さらなかったというのだ。
こうした人柄を知って改めてこの本を読むと、「幽齋公はお堅い」といっておられるような気がしてならない。ほかの著作も読んでみようかという気にさせる。
2009/8/31のブログで「細川家の家紋・・(3)松笠菱紋」を書いたのだが、当時はいろんなサイトを覗いてもその紋形を見出せないでいた。つい最近「武家家伝-細川氏」を拝見したらここに紹介されていた。(素晴らしいサイトに感謝)
さてそのブログでは次のようにご紹介した。
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綿考輯録にはこの「松笠菱紋」について次のように記している。
「既に南朝の正平十年(1355)細川頼之、西岡・山崎表発向のとき、楠正儀夜討を懸、軍不意に起り、築山市正保俊一人を連、北嵯峨より帰洛之由、此時築山と鎧を着替、松笠菱の紋付たるを直にあたへ、子孫に伝ヘ候ハゝ御申候との事、築山か家記に有之、此時の感書も今以伝来致候、此砌は築山も公方御直参なり、殊に頼之の聟なり、右保俊より六代目市正俊方、藤孝君之御家士と成、松笠菱ハ代々の家紋に仕候、頼有君も松笠菱御付被成候」
御家譜抜書に「頼有公御譜中・・家之紋松笠菱代々用之」とある。
この築山家こそが、細川家根本家臣としては一ニを争う古い家ではないかと私は考えている。築山家を関係資料からご紹介すると次のようになる。
保俊(市正) 足利将軍家直参、又細川頼之婿 細川家家紋松笠菱拝領
(綿孝輯録・巻二)
弥十郎重俊(市正) 母細川頼之庶女・福(築山家・系図)
弥右衛門長俊(兵庫介)
弥右衛門俊親(兵庫頭)
弥十郎貞俊(兵庫介) 妻沼田上野介光兼女( 同上 )
細川藤孝君誕生消息
(綿孝輯録・巻一)
天文二年十二月朔日(藤孝公御母)着帯(一部略)義晴公より沼田上野介、
築山弥十郎貞俊御附被成、翌年四月廿二日万吉様御誕生被成・・・・・
1、弥十郎俊方(市正) 城州境 百石 (於豊前小倉御侍帳)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「幽齋公400年御遠忌」にあたり、この築山家についても調査をしているが、今般その菩提寺の情報を得た。お寺様をお訪ねすれば判明するだろうとわくわくしている。