津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「旦夕覺書」 花--6

2011-05-25 08:04:38 | 旦夕覺書

妙應院様初而御入國萬治四辛丑二月五日上使稲葉美濃守様御出御小袖五十白銀五百枚御馬壹疋同三月廿七日江戸御發駕四月廿八日に熊本御着座同日江戸江為御禮長岡監物殿住庵被差立候
    辛丑六月朔日改元寛文元年
  献上
黒繻子   籃鶴一箱   昆布一箱   御樽一箱
右之刻御船中より直に豊前小倉小笠原右近太夫様へ御寄被遊候御仕舞被成鶴崎江小倉之御供御家老澤村宇右衛門友好・坂崎清左衛門・柏原新左衛門・小姓組十人此時之江戸留守居番長岡九郎兵衛十左衛門殿■親父四千石人持

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    桑山左衛門殿江三齋公被■候節御書之写

  五月十三日之御状拝見申候 扨上様御息災之由目出度存候事

一、駿河大納言殿甲州江御越候由兎角何之道にもかた付不申候ては成不申事に候 朝稲彌太郎近年大納
  言殿江被成御付候 駿河在府之由此比此地江被参貴老江被参候時様子御尋候へは御気色替事は無
  之候 はり程の事棒之様に申成候と被語候由主君之事を加様に御成下候時左様に贔負に被申は奇特
  にて候へ共此中之ことく歴々之者子供を理不儘に御切候外別之気違は有間敷候事
一、馬之儀先書にも承候 年寄候故能も悪きも馬は入不申候事
一、松奥州彼年寄在江戸御奉公成間敷候間隠居被仕頭をそり有度由大炊頭江申来候由世間に沙汰仕候
  得とも貴老なとは一圓無御存由左様に可有之候 右之分に被申上候は如御書中気違か色を被立類に
  て可有候 されとも謀叛可仕と被存候はヽ政宗被上事十月可為時分候 上りきわに被申出其往来之面
  に當所務取こまるへき儀と存候 然を前永に被申出候事不思議千萬に存候 是こそはりを棒に申候か
  気違かにて可有之と存奉候
一、貴老両御所様江御目見候様子被仰越尤存候積殊之外強候へ共御食事さへよく候へは餘之事は入不
  申候 珍重存候 私此中無病に候つる當月に入積差出申候 いつも五月は如此候 大發無之候間可御心
  安事
一、島弾殿腫物同前之由貴様御父子御迷惑推量申候事
一、浅采女殿困之左様可有之と存候笑止にて土杢事さのみ痛不被申由珍重存候事
一、永傳十本丸へ口々夜々被詣息災之由珍重存候事
一、南光坊被炊大事と申候へ共又々能候由是おしき人にて候事
一、國師噂此前同前之由苦々敷儀候事
一、藤大學別儀も有之間敷體之由左様に可有之候 雅楽殿ひいきにて候間神明三寶もよけて通可申候
  谷大學身上可有御覧事
一、渡勘兵衛事少能様子有之由被召出か帰参此両條之内帰参に成候へは笑止と存候
一、御出頭衣之怖はやとくよりのことにて巳之刻之かヽやきはや申之下刻目出度頓而御口切たヽ一人御慰
  候由尤存候たヽ一疊の上に風爐御すへ御采女土杢にも無御見せ御一人御樂之山無餘儀候 當暮か
  来正月早々可罷下間私も池を掘り島をつき其中に堂をたて其中を半疊餘團一人之茶給所可仕と命を
  あらまし申候恐々謹言
           五月六日            三齋
                      桑左様
                         御返報



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オークション「幽齋宛利休書状」の顛末

2011-05-24 23:58:33 | オークション

5月21日にご紹介した上記オークションは、自動延長が繰り返され83,000円まで確認したが落札金額は良くわからない。多分そのあたりの金額で決着したのだろう。

左上にある「○○法印様尊報」の「○○」が読めずにいるうちに、果たしてこれは本当に幽齋公宛なのかという素朴な疑問が沸いてきた。特別利休の書状をの史料を持ち合わせているわけではないし、ギブアップ状態であった。ふと文面に「圓乗坊」とあったことに気づき、なんとなく藤井学氏の著「本能寺と信長」を開いてみた。この本には27ページに亘り「圓乗坊」のことが書かれているのだが、・・・・あった。

私の勘が当っていた。幽齋公宛ではなく前田玄以宛の書状だった。書状の左上の二文字○○は「○民」と読めるが、「民」法印、すなわち「民部卿法印」のことだとある。
以下次のように紹介されている。(写真の文面とわずかな差異が認められる) 

      圓乗坊迄尊書并生鮎百拝領過分至極令存候 頓可遂賞玩候

      此中先参候て御礼可申上候處ニ 圓 如存知 爰元忍にて居申候条

      態参ても不申入候 明朝可参候 忝奉存候 恐惶謹厳

         六月八日                  宗易 花押

      民法印様尊報                       

 

桑田忠親氏の「定本利休の書簡」に取り上げられている。所在もはっきりしているのだろう。

さて、出品元はこういう品物を手がけているプロのようだが、幽齋公と前田民部法印を間違えて高額落札させた始末はどうなるのだろうか。日付もないし真贋も怪しくなってきた。

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「旦夕覺書」 花--5

2011-05-24 08:44:19 | 旦夕覺書

       三齋様御具足下之覺

一、羽二重御袷裏布長サ二尺九寸但しカネ尺 紉も右同前 御袖下一尺一寸 御袖口五寸袖口の下
     三寸五分アケボタン二ツカケ
左脇に御袖下より三寸さげて長さ六尺の紉一方に二尺置ぬい付て御
   ゑりたてにほたんあり
   (ぼたんという言葉がこの時期からあったとは知りませんでした)
一、布之御具足下も御ゑりたて同布ほたん右同
一、御下帯絹のも布のも半下帯に引廻す所より二ツにたちてたち目をとちて前下り両方に緒を
   付首にかける様に
   (いわゆる六尺褌の前下がりの布を胸前に持ち上げ、布を二つに裂いて首に廻して結ぶのだそうです。
     死んだときはずれぬようにするためです。「雑兵物語」に書かれています。)

一、木綿の花色にて両面に大廣袖に綿入具足の上に着由尤布にてもかきに染大廣袖同前
一、福島右衛門殿は番具足迄木綿わた入にて包有之由 上月文右衛門内三木又兵衛咄し
   (細川家家臣・上月氏は福島正則の家老職を勤めた人)

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       明廿三 御目仕度候御返事次第にて候

大御所様今日御精進あかり候由承及候 我等在所より此袖くろの鶴鉄炮にて打一昨日のほせ申候 幸にて御座候間上申度候 不苦候はヽ御ひろう奉願候 無用と思召候はヽ御さしつ次第可仕候恐惶謹厳 
          九月廿二日                三齋
                土大い様
                    人々御中

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家光公御代三齋様八代に被成御座候時分薩摩へ上使馬場三郎左衛門殿御下り三齋様江も為上使三郎左衛門殿御越御對面之刻上使之趣被仰達候へは三齋様御意に年寄候へは耳聞へ兼申候高く被仰聞候へ定而将軍三齋は未存命可も申候 此比柿被為拝領との事にて可有御望候 遠路御苦身に存候 上意之趣は済申候拙者も尻ひえ申候らくに居可申と羅穀(ラツコ)の蒲團にばんや入申候を御敷御頭巾被成三郎左ゆるりと御座候様茶をも可進候と御挨拶被成御長袴の上に十徳を御召候由 尤道筋橋なとの事神野理兵衛に被仰付候 橋の前にて三郎左衛門御挨拶被成候へは御馳走に橋をも申付候へ共不見申候次而に橋をも見可申と御歩にて橋を御通り過御暇請被成候 三齋様御挨拶に将軍御機嫌能御満足に思召由其後従江戸能勢次左衛門殿為上使御越鶴御拝領被成候 鶴を備後表に包青竹に釣候由御ひろめ之時御自分之鶴三ツ御添被成八代町人迄不残被為頂戴之由

ばんや : 文面からするとパンヤ綿(クッションの詰め物)だと思われる。この時代にこの言葉が普通に使われていたことに驚かされる。ラッコの毛皮にパンヤの詰め物とは豪華なものである

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「旦夕覺書」 花--4

2011-05-23 08:39:54 | 旦夕覺書

駿河大納言様御行跡不宜時分忠利公土井大炊頭様へ御物語被遊候由及両度候由大炊頭様被仰候は御舎弟様の事故か唯今迄一人も御自身之様に被申聞候仁無御座候達上聞可申候との事にて委細達上聞御代々忠節之事三齋様御勝れ被成候事に思召候へ共乱世之時分にて唯今治世の時節第一之忠節と被思召上事之外御感被成候由南光坊と申は上野御佛殿の開山にて有之候南光坊も忠利公御同意にて被達上聞候由肥後國御拝領被成候は本より三齋様御忠節にもおたらざる事と被思召上如此大國を御拝領被成候よし 阿部主殿と申五百石被下堀七郎兵衛母方の祖父にて在宅の時分近邊に心安き仁に咄申候由覺書見申候 妙應院様御隠居被遊候時分御代々御忠節右之趣も達上聞候由承及候 山名十左衛門殿も此噂を御聞候由拙者へ御噺被成候 多分弾蔵は委細可存候 惣體御代々御忠節之儀は書物にも見へ申候 箇様之儀は見へ不申候へ共各能承置可被申候上を學下と俗語にも申候 小倉にても志を御代々の御家来大身歴々に負可申様なく候

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忠利公熊本にて或時御家老中へ色々御咄之時御意被成候は乱世の時は忠不忠上下共に人の心顕れ申候 御治世の時は御仕置に夜白御心盡され萬民安穏にと思召外なく候 何も其心得仕候而随分心を盡候へ 萬々一御乱心にて御謀反なとヽ御座候時は即刻公儀へ言上可仕と誓紙仕候へ御深志に思召故與風被思召出候由御家老中へも何れも右之趣之誓紙を被仰付候由是は細川修理殿に御家中老人誰か名は覺不申左京殿と申時咄申候由後藤文右衛門は幼少之節小姓にて居候右之咄承候故書付置候 

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史談会5月例会

2011-05-23 08:36:32 | 徒然

昨日は史談会の5月例会、いつもの事ながら会場は熊本市中央公民館だが、お隣の白川公園が何かのイベントで賑わっている。気温も上がって風通しの為に窓を開けると、イベント会場からの歌声やら笑い声が飛び込んでくる。
こちらはといえば「有吉文書」の勉強と、中村正尊の「孝子傳」を現代風に読み直しての復刻にチャレンジしておられる卆寿の高本先生(高本紫溟先生のご子孫)のお話をお聞きする。
有吉文書は講師の下津先生(下津棒庵のご子孫)がすべての読み下しに係ってこられたが、今般読了されたらしい。史談会の為にお力をいただいたことに感謝申上げたい。
「有吉文書」「孝子傳」ともに、なんとか一般の皆様にお読みいただけるような手立てを考えなければ成らない。会の終了後はお隣のホテルのラウンジでお昼をいただく。ざっくばらんな話が飛び交ってこれが又楽しい。「来月(例会)は雨の中ですね」とご挨拶して散会。

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切腹 vs 一命 = ?

2011-05-22 08:22:05 | 徒然

          http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/harakiri.htm

 映画を見てから原作を読むということは余り無いのだがが、小林正樹監督・橋本忍脚本の映画「切腹」はその例外的な一つである。映画の強烈な印象から、原作はどういうものかと滝口康彦の「異聞浪人記」を読んだことを思い出す。(新潮文庫・上意討ち心得-所収)

 同原作で再映画化された「一命」が、カンヌ国際映画祭で評判らしい。
          http://www.ichimei.jp/
監督三池崇史、脚本山岸きくみそして音楽は坂本龍一だという。
そして配役は(原作名にて)
                   (切腹)      (一命)

       津雲半四郎        仲代達也     市川海老蔵
       女婿・千々岩主水     石浜朗       瑛太
       井伊家家老・斎藤勘解由  三国連太郎     役所好司

カンヌ国際映画祭での結末も気になるが、こちらの結末もそうとう気になるではないか。
公開が待ち遠しい。

 

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「旦夕覺書」 花--3

2011-05-22 08:21:28 | 旦夕覺書

 関ヶ原御帰陣の上秀忠公東照宮へ御咄被成候は加藤肥後守馬藺の差物細川越中守銀の中くりの差物か此二ツの内に御替被成度思召候 いかゞ思召候哉御伺被成候へば家康公差物などはあやかり物にて候 肥後守は若き者も能けなけ成者にて候へども太閤代競斗に合候 越中は信長數度難儀成義戦迄を能勤先年小牧表の退口を敵に成能見届候 越中守差物可然と被仰出土井大炊頭為上使右之趣被仰渡忠興差物被召上唯今は御まといに成銀の半月と號す 此節土井大炊頭内意被申候は松平氏被遣度御内存に候いかゞとあれば忠興曰上より被仰付候へば兎角は難申上候御内意と御座候はゞ迚の事に徳川氏を候免被下候へば一入難有可奉存とあれば其後は無挨拶退座なり

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寛永十五年寅戌九月七日於西御丸細川三齋へ被下御茶の次第
      御一客       三齋一人此時七十六
前日為上使佐久間将監を以明朝可被御茶候 御道具何也とも望次第御飾可被旨上意也 御請に投頭巾安國寺虚堂鶴一聲拝見仕度由

御表迄迎に松平伊豆守御出し御病後故御さかやき御断之上意也 家光公三十五の御時

御路地へ三齋手を引土井大炊頭御数奇屋四畳半大目縁有之御床安國寺虚堂御爐御ほり出口廣の御釜御棚に羽掃御香合御置合ふくべの御炭計

御壺當年御茶末御取寄不被遊候為休息の急御上せ可被遊と思召去年之御壺之内其儘有之候を今日御口切被遊候由上意之旨大炊頭傳之

御勝手口御明被遊三齋今日被参被遊御満足候しかと被居候へ今日初て爐御開被遊候處雨天故寒く候て仕合たるとの上意也 扨御炭被遊御勝手へ御入御會席出る

御吸物之節出御盃被下之寒気前可被為成御上せ候 目出度頓て被致参府候様にとの上意御茶菓子過ぎ御路地江被出大炊頭手を引

後の御飾御床鶴一聲御花菊を御入被遊候處に永井信濃守見事の木瓜献上被遊御上覧三齋は老人公方は病気木瓜ところにて無之四季と云菊可然との上意にて則菊を御生被遊
    一 御茶入投頭巾        一 御茶碗割香(ママ)臺高麗
    一 御茶杓二尊院        一 御水指烏帽子箱
    一 メンツウ引切御持 出御御茶被為立

御茶終て前々ふくべに御炭御組出御有て畢而御勝手へ被通緩々と被居候様にと上意也

御数奇屋より直に御暇申上退出之節御路次口迄被遊御送大炊頭外御路次迄手を引被送之

      右御會席
         生蚫 細作り 鰹掛ク      御汁 鴨 シメチ
         御椀 煮豆腐          御飯
御自身御重箱二重 水なやきて 蒲鉾
         御吸物 白魚
         御肴鱈 細くシテ焼
         御茶菓子 ウツラ焼 芋

御勝手定家古今       一子皍硯珠光文琳
      此外色々御飾有之

右の書附在江戸の飾寫置片桐石見守殿覺書之内抜出す由小堀遠江殿所に此書付有之由 


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「旦夕覺書」 花--2

2011-05-21 15:41:10 | 旦夕覺書

家光公御代土井大炊頭様・酒井讃岐様・酒井雅楽様・阿部對馬様・堀田加賀様被仰合御屋敷へ御出三齋公へ御申被成候は御隠居の上は向後共に越中殿え何事も御任せ被成候て皆共方迄不時に御使者被差越被伺御機嫌候て可然と存候 此段は越中殿と可然様に御談合可仕候 又御隠居に而は御家中の様子も御かろく被成可然様に各存候由何も御申候へば御請拙者存候とは抜群相違にて候 唯今の将軍へは私終に御奉公不仕候 内府様へは如形ひじに仕候と存候 然れば各被仰聞候忠節は栗柿にて不時の御訪れにて済候哉得其意申候 内々は當将軍へ差たる御用をも不承候間老極仕候共何様何ぞと御座候はヽ穴くさく罷成候へ共少々侍共洗濯仕召置候 向後最早不入にて御座候はゞ児小姓一両人に草履取にて上方に罷在候て能御座候由被仰候へば何も御行當の體にて土井大炊様被仰候は曾て其御合點にて無御座候上に思召處は御老極の所御残多思召候左様思召候へばいつ迄も御身の御養生にて御長久にも候へば何ぞと御座候時は一御談合をも必可被成と思召候 就夫遠國海陸共に隔り有之事に御座候へば江戸御参勤等に付此趣にて我々奉存候所は御養生と存候に付御公儀向何事も越中殿へ御任被成可然様に奉存候由御挨拶此所にて越中様を三齋様御呼被成唯今の御口上を能承置候へと三齋様御意被成候 大炊頭様然れば御心休にと奉存候へば御心に當り候へ共左様にては無御座候御失念は有御座間敷候先年御参之砌御一人御馳走の然三齋は能すきにても御座候と上意にて御能御見物被成候 扨其以後御下り之時上使被成遣候御口上に老足被致候儀惜敷被思召いつ迄も國元にて被致養生何卒長命に被罷居候へとて御秘蔵の白苻の大鷹の御手鷹一居御拝領被成忝由の御禮被仰上候 定而御失念は被成間敷と存候由御申被成候て何れも寛々と御咄被成候て御帰候由也

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三齋様忠利様御登城被遊御直に色々御咄従前々御忠節之上意御座候砌三齋様御請度々に無御座候に付井伊掃部様其該之御老中上意之趣毎々高々と被仰通候時に三齋様御請御座候 御下城以後忠利様御意被成候は段々難有上意共に御座候處御耳遠く御聞不被被成候哉御請無御座候に付掃部殿其外御老中方被仰通候 忠利様殊の外御迷惑被成候由御意被成候へば今日之様成御懇之上意は御次の間に詰被居候若き衆迄慥承傳候様にと御請御延引故掃部殿初御老中方御■次に御次に請居候若き衆も慥に承可被申と思召由被仰候事

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独楽園

2011-05-21 07:14:37 | 書籍・読書
独楽園 (ウェッジ文庫)

    薄田泣菫

  私が著者の薄田泣菫をしったのは、松井佐渡守を主人公とした「小壺狩」という作品からである。青空文庫で39点の作品が公開されているが、「利休と遠州」や「侘助椿」などの小品を何度も読んだ。椿の侘助の名前の由来だとか、加藤清正が一枚咬んでいるような話を是で知った。歳をとるとこの人の作品が段々素敵に思えてくる。
         http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person150.html

「独楽園」というこの本は、発売日が2009/12/21と割りと新しい。何故今頃という思いが有り読んでみようと思い立った。

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オークション「幽齋宛利休書状」

2011-05-21 00:14:46 | オークション

書出しはどう見ても「圓乗坊」ですよね・・・利休の女婿である圓乗坊宗円の事だと思われますが、この方の女婿が茶道肥後古流の祖である古市宗庵です。明日は拡大コピーをして読み下しにチャレンジです。入札は人様にお譲りします。

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最近のNHK

2011-05-20 11:56:51 | 徒然

■5/18の歴史秘話ヒストリア「関ヶ原、奇跡の敵中突破! 九州最強・島津兄弟の生きるチカラ 」
        http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/index.html

時間の制約もあるから仕方ないとはおもうのだが、秀吉に矢を射掛けたりして抵抗し、後切腹せしめられた島津歳久のことや、使者として薩摩に赴いた幽齋のことなど取り上げてくれないかなーと思っている。「敵中突破」のまえに、義久・義弘兄弟の辛い想いが在ったのだが・・・

  島津歳久  http://washimo-web.jp/KingoSa/KingoSaIndex.htm

■「タイムスクープハンター」というバラエティーを二回続けて見たのだが、これが結構面白かった。
        http://www.nhk.or.jp/timescoop/

5/12の「のろしを上げよ」、5/19の「髪結い・ちょんまげ騒動記」とも、笑いながら眺めていたのだが、これが「目からうろこ」の情報を教えてくれる。

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「旦夕覺書」 花--1

2011-05-20 09:41:07 | 旦夕覺書

将軍家光公御代寛永九壬申十月廿八日肥後國忠利公へ賜る 御年四十七 同十二月九日豊前小倉御發駕同十三日熊(ママ)へ御入城御先鐡炮頭井門亀右衛門(1)・寺尾左助(2)切火縄にて大手へ御着の時亀右衛門差圖にて鐡炮打放し申候由 大手御門けはなしを御頂き被遊候由 同月廿日三齋公八代より被成御出府大手之脇杉垣の所より御下被遊候故忠利公其儘御召被遊候様にと被仰上候へ共右之通にて御登城松の間にて御料理御吸物出候に目出たふ謡候へと三齋公御意被成候へば忠利公中村靭負(3)を召候へば靭負はいらぬ伯耆(4)四海浪謡へと御意被成聲立兼候へば何もつけ候へと御意被成御機嫌能御立被成候由 翌廿一日雨中にて川尻に御逗留被遊候 歩行之衆御飛脚に被差上候て帰候刻御自筆之御書津川山田畑へ被下候御紙上

        昨日申度候つれども初而参候間無其儀候
        今日天気悪敷候而川尻に逗留申に越中所より
        歩之者参候間幸と令申候仍檜垣(5)の女塔肥後守
        居間の庭に居て御入候此女は三代集(6)之内にも
        入無隠儀に候左候得者國之古跡にて候に其墓の
        石塔取候事も有間敷儀に候殊に主城の庭に
        石塔居候事も気違の一ツの内たるべきと存候
        其上少も見事に無之候萬事肥後被仕様悪事を
        仕り可直儀に候當年中に是を被取除昔の所へ
        遣むかしに不替様被立置可然歟と存候各御
        分別候而能時分越中に可被仰聞候哉以上
             十二月廿一日         三齋
                四郎右衛門殿(7)
                道孝殿(8)
                竺印
                中庵
                  参る

右之御書二代目之竺印へ有之候 蓮臺寺(9)中興開山文海叟梅原九兵衛(10)を以古三盛(11)を頼所望竺印より蓮臺寺へ寄付其後長岡友山老(12)より檜垣の老女の繪に西園寺左府(13)讃の歌御書寄附長岡筑後殿より檜垣集森崎玄幸に御書せ寄附之由綱利公寺領拾石(14)御寄附


(注)
  1 細川家家臣・後宇土細川家家老

  2 細川家家臣・宮本武蔵二天一流後継者
  3 細川家家臣・中村正辰(1,000石)
        金春流肥後中村家祖 中村靭負(中村一氏の孫)の嫡男
  4 細川家家臣・志水伯耆守清久(青龍寺以来)
  5 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%9C%E5%9E%A3%E5%AB%97
  6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E6%92%B0%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86   
   7 細川家家臣・津川辰珍 管領・斯波義近二男
  8 細川家家臣・大友宗麟二男-利根川道孝
  9 http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/higaki.html
 10 細川家家臣・元柳生但馬守家臣-乞われて召出さる。光尚死去後の六丸相続に奔走した。
 11 傳右衛門祖父・三盛
 12 細川忠隆嫡男・忠恒(初名・坊丸-与八郎)三千石 宝永六年五月朔日没(89)
 13 細川忠隆女婿・西園寺実晴
 14 御侍帳(元禄五五年比カ)に 「寺社領 一、高拾石 飽田郡 蓮台寺」とある。

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チャレンジ「旦夕覺書」

2011-05-19 13:52:22 | 歴史

 赤穂浪士十七名を細川家に預かった際、接待役を仰せつかったのが堀内傳右衛門である。

         http://homepage1.nifty.com/longivy/note/li0075.htm

かれがその顛末を書き綴った「堀内傳右衛門覚書」は、赤穂事件研究の第一級史料として知られている。この傳右衛門は後年「旦夕覺書」という記録を残している。肥後文献叢書・第四巻に所載されており、国立国会図書館のデジタルアーカイブスでも紹介されている。

「旦夕(たんせき)覺書」について「肥後文献解題」は次のように紹介している。

享保九年十一月頃子孫の為に書き残したもので、「花」「鳥」「風」「月」の四巻に分けて百八十八ヶ条余り書いてある。「花之巻」は主に古人の話を書き、「鳥之巻」は古人の話及自己修養の話。「風之巻」は自己勤務上の話。「月之巻」は人物月旦(評論)及び自己勤務上の注意すべき事を書き、何事も信実から出なければ善いとは申されぬと子孫を誡め、且奨励している。寛文・享保頃の武士生活を描写したものが多い。

所載の「肥後文献叢書・第四巻」に於いては、163頁をついやする膨大なものである。
これをじっくりと読み、且タイピングをして「注」なども配しながらご紹介しようと思っている。
一日一頁を目標にすれば10月いっぱい位には終わるだろう。 いざ

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1,500疋

2011-05-19 08:26:54 | 歴史

                        
                        100文さし(実際は96枚)

 我が家の先祖附の最後尾に、「明治三年七月改革に付当職(穿鑿役)被免・・・・数年出精相勤候付金子千五百疋被下置」とあって終わっている。当時29歳の高祖父のことである。

千五百疋というと、一疋=十文だから一万五千文、この時期一両=一貫文約8,000文だとする資料があるから二両弱ほどであろうか。もっとも「疋」と明記してあるから、いわゆる100文を紐(さし)で通した「100文さし」を150本(?)頂戴したのだろうか・・・

一両の価値というのがこれまた色々な説が有り定かではないが、5~6万円として10万~12万円、ボーナスみたいなものだろうか。

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重賢公の御子達のこと

2011-05-18 11:16:31 | 歴史

 「度支彙凾」に記載ある記事から、重賢公御子胤次殿(治年)並びにの消息を探る。
今一人の男子豪次殿は三歳で夭折している。(明和六年)

嫡子・胤次殿は宝暦九年四月廿五日、熊本花畑館で誕生している。生母は金澤氏女・屋越ノチ此井。
宝暦九年(1759)1歳
■胤次殿御名字之儀、先長岡と御定被為置旨候、此段可被承置候事 (九年七月)

■胤次様御花畑御近所追廻田畑邊、折々御手輕御出被成筈ニ付、参懸之面々扣居候ニ不及、御時宜仕罷通候様、御先御跡ニ足輕罷出居知せ候筈候旨御達九月廿五日

宝暦十二年(1762)5歳
■胤次殿御出生之砌御虚弱有之、御届之儀御見合被為置候處、御丈夫ニ御成候ニ付、先月十八日御用番之御老中様え御届書被差出候處、無御滞御受取被成候、此節細川之御苗字被進當年五歳ニ御成候段御届有之候、尤御嫡子之御届ニは無之候間、諸事當時之通相心得候様、此段觸支配方えも以下例文
        宝暦十二 五月十三日

明和二年(1765)7歳
■胤次殿當春中御出府被成候様仰出、公儀え御届も被遊筈之段申来候ニ付、来月十一日御發駕之筈之段御用番達二月十日御達
明和七年(1770)12歳
■胤次様御嫡子様被遊候旨、先月廿三日御用番松平右京大夫様え御届書被差出候段、二月十三日御達
■若殿様先月十五日御實名賢年様と被進候間名乗候、右之文字并同唱之字付居候者ハ改候様三月廿九日御達
■若殿様細川中務少輔殿息女と御縁組御願之通相済候、五月廿七日御達
■御垣様御事此節より様と相唱、御両敬之御方様えも、若殿様同様御両敬ニ相心得候様、六月廿五日御達
安永二年(1773)16歳
■若殿様先月十五日初て御目見被為成、太守様御禮も被仰上候段御達、右ニ付御両殿様え御歓、御物頭列已上便状、御郡代以下御家老廻之儀、十二月廿二日御達
安永三年(1774)16~17歳
■若殿様五節句月並御出仕御願之通被仰出、先月十五日御登城初て月次御禮被仰上候段二月廿八日御達
■若殿様御元服被仰付候間、先月廿二日御城え被成御上、太守様えも御登城御禮可被仰上旨、御老中様より御奉書御到来ニ付廿二日被遊御登城、諸事御家格之通御首尾好御元服被為済、被叙任従四位下侍従、被蒙上意御一字御拝領治年公御名乗、御名中務大輔様と被遊御改、太守様え被為蒙上意候段御到来、四月十三日御達
■若殿様當秋御入部御願ニ相成候處、太守様御在府之節御願被遊候様との事ニて御延引之段御達、七月十八日

安永四年(1775)18歳
■若殿様九月廿八日江府御發駕御歓、御物頭列以上便状仕出、鶴崎御着之上御断之旨、十月廿四日御達
■若殿様初て御入国ニ付、御目見麻上下着御通筋砂敷等、太守様御上下之節之通、御着座即日御歓、組不入御中小姓以上麻上下御殿謁之御達、太守様へ御中小姓以下便状等儀、十月廿六日御達之事
■若殿様御在国中、年等・五節句等、太守様御在国之通、例月式日御禮ハ御受被遊旨、其外御禮御機嫌伺等之儀ニ付、十月廿九日御達
■若殿様十一月七日大津より御着座之段御達、右ニ付御家中御禮御花畑ニて十五日・十八日・廿二日御受被遊候儀ニ付、十一月十日御達

安永五年(1776)19歳
■若殿様四月廿一日御發駕御見立麻上下着、御歓勤并書抜御禮、五月四日江府御着之儀追々御達
安永六年(1777)20歳
■若殿様十一月十八日御前髪被遊御執候、御歓御中小姓以上御家老廻之儀、十二月廿三日御達
安永九年(1779)22歳
■若殿様舊臘十五日御登城、御病気後之御禮被仰上候段御達 (五月九日御達)
■長女・壽姫誕生(松平播磨守頼説室)
天明元年(1781)24歳
■若殿様御下國五月廿二日江戸御發駕、閏五月五日鶴崎、同十一日熊本御着座之儀ニ付追々御達
■長男・年和誕生
天明二年(1782)25歳
■若殿様二月十九日御發駕、三月廿三日江戸御着等ニ付追々御達
■若殿様四月十一日御婚禮被為済、若御前様と奉穪候旨、五月三日御達

天明三年(1783)26歳
■若御前様八月六日御流産之段、八月廿五日御達

■天明四年次男應五郎誕生(夭折)
■天明五年三男浄丸誕生(夭折)

天明七年(1787)30歳
■御家督御祝御能、御穏便ニ付正月十八日・廿三日ニ被仰付旨、正月十三日御達
■次女就姫誕生(久我前大臣通明簾中)
■太守様二月廿八日御發駕、四月八日江戸御着座之段追々御達

■太守様五月中旬より御不例之儀、八月四日御達、先月廿九日雇者御同篇御達、八月三日之御飛脚着右同断、八月八日之御飛脚少々御甘之旨御達、八月廿七日御勝レ不被遊御達、九月二日御容躰奉恐入御達、九月五日追々御達快然御歓御物頭以上便状御達、九月十二日御疲奉被為増候段御達、九月廿日御食量も減候段御達
■去ル十四日江戸仕出飛脚着、太守様御容躰至て御大切之由御到来有之、誠以奉恐入候、然處應五郎殿ハ御幼年ニて御出生之儀も此節御届被為置候程之事ニ付、御國家御堅固之儀を被思召上、此節は細川和泉守殿え御相續之御願書、其日御用番之御老中え被差出候處、無御滞御受取被成候、此段御家中之面々も奉畏候様可申聞旨被仰付致候、以上
       九月廿七日
■御療養不被為叶、去ル(九月)十六日御逝去之段、同廿八日御達
■先太守様御法號大訽院様、御前様瑶臺院様と御改被成候旨、十月十日御達
■大詢院様御尊骸九月廿九日江戸御發棺、十一月十日熊本御着ニ付、御目見御着當日麻上下着、妙解寺御法會御香奠等之儀御達

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                オノ  トキ  トキ  チカ
たった一人の女子親姫(斧・説・節・親→光輪院)は明和二年九月十三日・江戸龍口邸にて誕生、生母は小陳氏・嘉門である。茂木藩主・細川興徳室、文化三年十一月廿四日卒、四十二歳

明和六年(1769)5歳
■斧姫様、先月朔日説姫様と御名御改候 (十二月十七日御達)
明和七年(1770)6歳
■説姫様御事此節より御中老以上、様と相唱、御両敬之御方様へも、若殿様同様ニ御両敬ニ相心得可申旨被仰出候間、以下例文 (三月朔日 奉行所)
明和八年(1771)7歳
■説姫様御名、説姫様と御唱御改候 (十二月十四日御達之事)  誤植カ
天明元年(1781)17歳
■説姫様閏五月十五日親姫様と御改被成候、六月十三日御達
天明三年(1783)19歳           八月十四日
■親姫様喜十郎様と御縁組御願之通被仰付候段、九月五日御達

 史料によっては初名を「親」次に「斧」→「説」とするものがあるが、この史料が信頼に値するものと思われる。

コメント (2)
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