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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

澤村家三代のこと

2013-02-20 17:43:00 | 歴史

澤村大学には男子があるのだが、継嗣は養子(松井二平次・嫡男)の友好である。
先にも書いたが、大木土佐の息・織部の召出しについて、澤村大学・吉重の男子・湘雲守沅が関わっていたことが判る。 

その湘雲守沅(8-51)(10-553)について、日本近世史料・細川家史料の人名索引は次のように紹介している。
       東福寺塔頭靈雲(不二)庵第七世庵主。諱は守沅、號は湘雲(或は湘雪か)。細川家臣澤村氏の子。幼くして集雲守藤の弟子となり、法を嗣ぎ、
       守藤歿後靈雲庵主となる。忠利・光尚と交誼を結ぶ。寛文八年十月十八日歿。年八一。(棘林志)
このことからすると、湘雲守沅の生まれは天正十六年(1588)という事になる。
父・吉重は「澤村大學介覺書」によると、三齋公より三歳年上であるとしているから、永禄三年(1560)の生まれである。吉重28歳の時の子である。
なぜ嫡男を仏門に入れたのであろうか。

二代目友好(松井二平次・嫡男)を養嗣子として迎え入れるのは、肥後入国の翌年(寛永十年)だとする。江戸定府であった為忠利に御供し帰国、島原陣にて首二つの活躍をしている。婿養子なのかどうか先祖附からは伺えない。これは菩提寺である成道寺に御聞きすれば判るかも知れない。今後の課題としたい。

三代目友雅は友好の嫡男、貞享二年八月閉門となり、知行を召し上げられているのだが、このことについて先祖附はその詳細については触れていない。
かすかなヒントが、「肥後先哲偉蹟」の木村秋山の項に伺える。木村秋山は半平豊持、綱利代家老職を勤めている。綱利隠居を進言したとされる人である。
       妙応院様御代、澤村衛士様御物頭御妹の儀に付、世上専沙汰に及候、御役儀御勤成され難く、御断仰上て、御知行御屋敷差上られ候段、御
       内存の趣、松井求馬様迄仰達せられ、御病気の由にて、御引込在られ候段、御家老中様より、於江戸坂崎忠左衛門様、松月院様(秋山)へ、御
       連名の御状を以て、御内意仰越候處、右の筋至て難相済御事に付、御知行召上ら■候御様子に候處、松月院様御格別なる御取成有之、難有
       次第思召候由、求馬様より松月院様へ、御状を以て仰越され、衛士様よりも御禮状差越され候事 

知行召上・閉門という事態に及んだ御妹の事件とは如何なるものであったのか、資料を見つけ出せないでいる。

           名門澤村家は枝葉を広げ多家に及んでいる。

                       +---湘雲守沅
                       |
               大学吉重---+===友好---+---友雅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→11,000石 沢村衛士家
                               |
                               +---友久・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→  500石 沢村宇平家
                               |
                               +==友秋(吉重弟・九兵衛嫡孫)---+---権兵衛・・・・・・・・・・・→  700石 沢村半之助家
                               |                     |
                               |                     +---主膳・・・・・・・・・・・・→ 1,400石 沢村才喜家
                               +---友貴
                               |
                               +---武兵衛 

        

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京町vs坪井町 賜答の歌

2013-02-19 14:29:10 | 熊本

 雑花錦語集三十に京町vs坪井町の「賜答の歌」が紹介されている。
これが何とも楽しい雰囲気で当時の人達の心の豊かさを感じさせている。
現在においては使われなき語句が登場しているが、ご理解をいただきたい。 

 

       上句京町               下句坪井町

   京町に三十三所うち初め       市えびすこそ広丁にあり 
   京町に利休の流れ数寄者有    謡地がしら本町にあり
   京町に後家の扶持取酒屋有    親孝行が二人まであり
   赤旗も今は紅屋の小短尺      稲荷まつりに白はたもたつ
   釣瓶綱ろくろで打ば京町よ      五尺の桶をゆふものも有
   遊湖とて其名も高き点取有     八百屋さかなや二タまちに有
   医師のかど歌壇かゞやく菊畑    宰府をうつす心見の地
   目薬の四方に聞し向台寺      一文くすりうるところあり
   沢山にいでからいもは龍田口    餅こそ新堀に売

 

      上句坪井町               下句京町

   尼寺は外にはあらじ龍田口     おしの比丘尼か二人リまで有
   藤吉は人形細工上手なり      綿打弓は京町に有
   じく/\と苺もきたなき四間町   小便丁は坪井にぞある 

 

新町vs古町バージョンもあるらしい。
是非とも探し出したいと思うが、170冊からなる雑花錦語集からこれを探し出すのは至難の業である。 

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大木兼近・・・??

2013-02-18 23:14:16 | 史料

大日本近世史料・細川家史料十三 1192(p209抜粋)に大木織部(兼近)に関わる記事がある。
寛永十三年九月十三日付忠利の書状だが宛名は切り取られているという。光尚に宛てたものであろう。
以下の記事について大木織部を(兼近)と()書しているが、これが間違いであることを明らかにしておきたい。 

      (兼近)
   大木織部者、籠を破出候者之事、小川亀介と申人之所ニ居候を、被届候へは、かどり自害仕ニ付、亀介殿より理ニ付、相済候由、得其意候事

頭注には「大木兼近家来破籠潜伏中逮捕ヲ気取り自害ス」とある。
つづいて人名索引をみると、織部は大木兼近(1192)として紹介されている。
   細川家臣。織部。加藤忠廣家臣大木土佐の男。遺領三千四百石余相續のところ、忠廣改易により筑後へ立退く。寛永十年澤村吉重子湘雲守沅并に
   平野源太左衛門を以て忠利に召出さる。当時十四歳・・・(以下略)

ここで兼近だとする十四歳の大木織部の召出しに関わる詳細を知ることができる。
「細川家主要家臣」を開き大木家の項を見てみると、大木織部を兼近としている上記の記述が間違いであることに気付いた。

             弥助・織部・土佐守   弥助・四郎・土佐   兼久・四郎・織部      織部・隼人・舎人
   大木駿河守-----------兼能----------兼友---------兼憲------------兼近 

人名索引は兼憲と兼近とを取り間違えている。大木織部は兼憲であり、兼近はその息である。

 

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江戸の小判ゲーム

2013-02-18 19:36:11 | 書籍・読書
     江戸の小判ゲーム (講談社現代新書)
 
                   講談社

                 

内容紹介
松平定信と経済官僚たちの所得再分配のためのプロジェクトX!

幕府も武家も商人もWin-Winの関係だった!?
借金棒引き、貨幣改鋳に込められた真の狙いとは?
支配─被支配という旧来の歴史認識ではわからない江戸時代の実像に迫る興奮の一冊。


目次
第一章 お江戸の富の再分配
第二章 改革者たち
 1棄捐令プロジェクト
 2町会所プロジェクト
第三章 お江戸の小判ゲーム
終章  日本を救った米相場
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尻ふくらのお値段

2013-02-18 18:21:18 | 徒然

かつて 拝領ノ茶入尻膨并山の井ノミヲ所持ス を書いた。 

寛永十六年十月の忠利書状にこの「尻ふくら」の茶入れの消息が見える。

      十月十七日書状(大日本近世史料・細川家史料十二・990)         一樂:三齋側近 

                 (前略)
    又、此尻ふくら、千貫ニハはなし可申由申候、左様ニも取可申候哉、以上
          十月十七日                   越中
                 一樂

    三齋自筆書入返事
          人を被上之由、尤存候事、此尻ふくら千貫と申候由、かやうの物
          ノ代、今ノめきゝハ不存候、已上 

    

 この時期尻ふくらを売ろうとしていたのだろうか。
三齋は今の目利きは根を知らないと云っている。
千貫が高いのか安いのか・・・ 

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史談会出席

2013-02-17 10:53:33 | 徒然

 今日の熊本は、政令都市移行を祝して始められた熊本城市民マラソン(第二回)+熊本30ロードレースが開催されている。
市民マラソンはフルマラソンと5キロほどの短距離に10,000人位の方々がエントリーされている。只今まさに走行中である。
日本の有名なマラソンランナーを輩出した伝統の熊日30キロロードレースでは、公務員ランナーの川内選手が見事に優勝された。すごいとしか言いようがない。
そんな喧騒の街中に向けて、史談会の二月例会に出席のために今から出陣である。 

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西南戦争講演会「西南戦争とは何であったか」

2013-02-16 16:51:55 | 熊本
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大川友右衛門

2013-02-16 07:56:01 | 論考

 昨晩遅くMTさんが電話をしてきた。「大川友右衛門」について知りたいとの事である。

細川家家臣の名前がすべて網羅されている「熊本藩侍帳・人名索引」をめくってみるが見当たらない。
どうやら話の中身からすると、歌舞伎かなにかに登場する人物の名前らしい。電話を切って「大川友右衛門」でググってみると・・・・あった。
 「染模様恩愛御書-細川の男敵討-」に登場する、劇中人物である。そしてようやく気が付いたのだが、「細川の血達磨」をベースにした衆道を取り上げた
ものであった。二三年前に染五郎と愛之助で歌舞伎公演がなされたらしく、WEB上ではこれに関する書き込みがあふれていた。 

2006.4.30 「肥後の血達磨」異説 を書いているのだが、歌舞伎については認識不足の頃であった。

コメント (1)
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細川家家臣坂崎家と旗本岡田家の関係について

2013-02-15 21:37:47 | 歴史

 細川家家臣坂崎家の嫡家の初代・成政は、坂崎成方の養嗣子で、筑後牢人岡田修理の二男・源太夫である。
この岡田家がよく判らないまま随分経過した。

元和六年八月、大坂城の城普請を受け持っていた柳川城主・田中筑後(忠政)が亡くなり、幕府は継嗣が無いため封地を没収することになる。
城普請はそのまま引き続き田中家中に命ぜられた。 

このことに伴い、大日本近代史料・細川家史料(八)の元和六年八月の忠利の書状に有力な情報があった。

■ 八月十四日書状(33)
   一、大坂田中普請ハ、先家中之者ニ仕候へとの大炊殿(土井利勝)被申様ニ御座候、何も御使之衆被上候てから、右之段々家中へしらせ可申由
     御意ニより、右之様子在たるもの無御座候、然共、坂崎清左衛門(成政)ハ岡田将監親類ニて御座候故、清左衛門を尋ニ遣候ヘハ、内證被申
     越候、隠蜜ニて御座候、何も奉行衆被上候てから申出候へとの 御意ニ御座候、普請を油断不仕、又ハ家財ものけさせ被成ましきとの儀と奉
     存候事
                                  (以下略)
岡田将監は柳川城の受取の為の準備に取り掛かっている。これらの事に付(34)(35)(40)(45)等の書状でも将監の行動が見て取れる。
将監と坂崎成政の関係は定かではないが、叔父・甥といったところか(?)、そして筑後牢人というのは柳川の前の藩主・立花宗茂に仕えていたのでは
ないかと推測しているのだが、如何だろうか。解明にはとど遠い。 

岡田将監(善同)について 人名索引から
     将監。はじめ織田信長に仕へ、次いで加藤清正に属し、のち豊臣秀吉に仕ふ。慶長五年関ヶ原戦には徳川家康に属し、六年六月知行五千石。
     美濃國奉行並に近江・伊勢・筑後等の郡代を兼ぬ。のち山田奉行。寛永六年九月従五位下伊勢守。八年五月二十九日没。年七十四。 

 

 

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好物の食べ過ぎは・・×

2013-02-14 19:54:25 | 史料

 寛永七年二月の三齋宛て忠利の書状案(356 抜粋)に、忠利の食養生の話がある。

                        我等食物之事被仰下候、すきにて給申候物をハ、事之外給申候由被聞召旨、
                        如 御諚にて御座候、左様に候へハ、後は毒ニ罷成物之由被仰下候、奉忝存
                        候、随分我等もひかへ申候様ニ仕候へ共、何と仕候而も、食物之養生難成御
                        座候而、迷惑仕候、爰元にてハ、心安儀ニ御座候間、此比ハ随分給物過不申
                        候様ニ仕候、彌如 御諚食事之養生可仕と奉存候事、此等之趣、可然様可有
                        披露候、恐々謹言

三齋の側近貴田権内(政時)に宛てられた書状であるが、権内もニッコリと笑みをもって読んだことであろう。
いつの時代も飽食はよろしくない。肥満のために城中で杖を突くことをお許しいただいた殿様もある。(お名前は伏せておく) 

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Q&A 兄鷹

2013-02-14 19:29:41 | 徒然

 ある方から「兄鷹」とはどんな鷹なのかというクエッションをいただいた。
わたしも綿考輯録とか、大日本近世史料・細川家史料を読む中で最初は意味が判らず、首をかしげたものである。

答えは「雄の鷹」である。ものの本によると「しょう」と読ませるのだともある。
兄があるから弟もあって、「弟鷹」は「雌の鷹」で「だい」と読ませるという。
「だい」「しょう」は「大」「小」であり、雌の方が雄より大きいから「だい」なのだそうな。

「兄鷹」を頂戴したとか、足を痛めたとか、随所に見られる言葉である。
鷹狩は徳川将軍家がこれを好んだため(綱吉は×)、各大名家においても好んで行われた。鷹の贈答や売買の記録も多い。
細川家の花畑邸においては、藩主の常の間の側近くに、「鷹小屋」が設けられている。 

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江戸幕府と国防

2013-02-14 17:04:52 | 書籍・読書
       江戸幕府と国防 (講談社選書メチエ)
 
                      講談社内容紹介
禁制キリシタンの密入国、傍若無人の密貿易船、そして黒船──打ち払っても打ち払ってもやってくる外国船。
「天下太平」の常識を覆し、幕府開設当初からつねに異国船への対応に悩まされていた江戸時代の実状を、綿密な実地史料を基に活写する。
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千代姫伝説と立花家記

2013-02-13 12:37:56 | 展覧会

 熊本とはなじみ深い柳川立花家、立花宗茂夫人・千代に関する資料の展観である。千代は立花家没落の砌、加藤清正により保護され、熊本の長洲の地で過ごしている。この地で没し、ぼたもちさんという面白い形をしたお墓が建てられている。また立花家の家臣をあずかり、熊本城にほど近い京町に「柳川丁」をもうけて、此処に住まわせたりしている。
また、継室ではあるが忠興の弟・興元に宗茂女が輿入れしている。

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父娘の情

2013-02-13 11:26:23 | 史料

 元和六年、三齋が娘・萬(烏丸)にあてた書状だが、父娘の情にあふれた書状で、私が一番好きなものである。(大日本近世史料・細川家史料八--1911)
病み上がりの三齋がやせて、頭も丸めその姿が父・幽齋にあまりにも似てきたことに自分自身驚いている。
「歌道をしらぬ幽齋」のようだと想像してもらうと良いと云いながらも楽しそうである。
私たちがよく目にするすっかり痩せた三齋の姿というのは、この時期あたりからそうなったのであろうか・・・・・ 

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これ何方・2

2013-02-12 09:37:30 | 徒然

 大日本近世史料・細川家史料八 の、人名索引「知足院」から、簡単に答えが出てしまった。

元和六年九月二日忠利書状案(36抜粋)

 ちそく院より進上被申候太田八郎右衛門儀、廣島ニ太田名字さまをくゝり申者御座候由
被聞召候、中/\右之者ニては候ましく候へ共、萬ニ一もそれニ候ハゝ、御抱候ましき由、
又左への御状ニ被仰越候由承、法印へ申遣候ヘハ、如此之状給候、此等之趣、可然様
可被申上候、恐々謹言
    九月二日
                          魚住傳左衛門殿

 

筑波知足院から又左(曽我尚祐)をもっての召し抱えの依頼であるが、ここでは太田八郎右衛門であることが判る。
廣島とは福島正則の家臣でもあったのだろうか。身上調査を行っていることが判り召し抱えには躊躇している様子が伺える。
再び人命索引から太田八郎右衛門を検索すると、どうやらこの人物は召し抱えられている。

 太田八郎右衛門 元和九年知行五百七十九石餘 (豊前御侍帳)   とある。

ところがその後の侍帳には一切この人物の名前は見受けられない。どのような人物であったのか闇の中である。 

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