津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

松寿庵先生 第84講

2014-01-22 18:44:06 | 史料

秀吉の智略「北野大茶湯」大検証   利休にたずねよ (PHP文芸文庫)             北野大茶会

      秀吉の智略「北野大茶湯」大検証                     利休にたずねよ                                                   利休七哲

                                             映画 利休にたずねよ  http://www.rikyu-movie.jp/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂の陣の細川家・ 三(首の注文)

2014-01-22 07:47:16 | 歴史

       細川勢首の注文

続亀之助(重政)  首二
              (大阪御陳)手ニ合候者--七月朔日御饗応、御褒美被下候
                銀子廿枚 鑓ハ不合、首一討取 
                御鉄炮五十挺頭、千五百石也    (綿考輯録・巻十九)

乃美主水(景嘉)  首二 又主水内にて首三
               (大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
              銀子廿枚 鑓ハ不合、首ニ討取、生捕壱人、此外内之者首三討取 (綿考輯録・巻十九)

              三斎様御付中津ニ相詰候衆 千五百石 米田助右衛門是政(二代)婿 (於豊前小倉御侍帳)
                   細川忠興公御書出(慶長六年)千五百石--豊前
                        乃美主水介知行村付目録(慶長六年)
                        乃美主水介知行方目録(慶長十六年)七百四十五石--豊前

加々山半兵衛    首一     調査中

朽木与五郎(友綱) 首一
              細川家家臣朽木家は、細川幽齋の兄・三淵藤英の三男昭貞が朽木姓を継いで(養子)初代とする。
              昭貞の父・朽木稙綱の嫡流は後の福智山藩主である(一万石)
              その稙綱の兄に友綱の名前が見える。

                     詳細調査中 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

解禁はいつ・・・?

2014-01-21 20:58:31 | 歴史

                    日テレ、細川元首相出演の特番を放送延期 都知事選出馬で

日本テレビは21日、元首相の細川護熙氏が東京都知事選挙への出馬を表明したことを受け、1月31日に放送を予定していた特別番組「封印された細川家の秘宝~信長59通の手紙を解読せよ」の放送延期を発表した。 
同番組は、歌舞伎俳優の市川海老蔵が司会を務め、肥後細川家に伝わる古文書を解読し、隠された真実を解き明かしていく歴史ミステリー。細川氏は細川家の第18代当主として番組に出演した。                                                                                    [シネマトゥデイ芸能ニュース]から

                                                                      

                                           http://www.asahi.com/articles/ASG1P5S6WG1PUCVL01F.html?iref=comtop_list_pol_n02

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お安く読む・中公新書「歳時記百話 - 季を生きる」

2014-01-21 17:32:19 | 書籍・読書
       歳時記百話 - 季を生きる (中公新書)
 
            中央公論新社

内容説明

歳時記は俳句を詠む人だけのものではない。季節を知り、人生を生き抜くため、私たちが祖先から受け継いできた知恵が詰まっている。すべての日本人の心情と生活の原点なのだ。本書では四季を彩る花々を中心に、雲雀などの鳥、薫風などの気象、涅槃会や酉の市など年中行事、そして芭蕉忌に至るまで、一年の折々にあらわれる豊富な事物を、古今東西の句歌詩文を通して味わう。巻末に俳人・宇多喜代子氏との対談を収録。

目次

春(早春賦;東風 ほか)
夏(葵祭;薔薇 ほか)
秋(終戦忌;震災忌 ほか)
冬(神無月;酉の市 ほか)
新年(初茜;初春 ほか)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

難儀やな・・・・

2014-01-21 14:00:05 | 徒然

                                                   大寒や 難儀の腰の痛みかな   津々

 熊本はここ十日間ほど早朝の気温が0℃から-2℃と冷え込みが続いている。勢い寝ていても布団を引っ張り上げたり、寝返りを打ったりと動きがでてくるのだが、ぎっくり腰の私にとっては地獄の朝である。今日も今日とて寝返りを打つたびに激痛、起き上がるのにもベッドから降りるのにも難儀する有様である。
こんな具合だから運動もままならず、正月から1キロほど体重が増えてしまった。

最近「体幹」という言葉をよく聞くが、体幹が弱るとギックリ腰に成ったりするケースが増えるといわれる。
私くらいの年齢に成ると、だんだん筋肉量も減り体幹も弱っているのは間違いない。腰が「ぎくっ」と来るときはまさしく体の芯がずれるような体勢の時である。
まっすぐ立っていたり、姿勢よく歩いたり椅子に座っている分には痛みが来ないことからもよく判る。
少し外に出て歩いてみようかとも思うが、ちょっと躊躇している。大寒の真っ只中無理をすることも有るまい。
相変わらず血圧は下がらないし、体重も一向に減らない。暖かく成ったら体幹を鍛えるためにも、少々運動を始めなければならない。
もっともギックリ腰が落ち着いての上のことである。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂の陣の細川家 ・二(高名)

2014-01-21 10:24:26 | 歴史

大坂夏の陣・冬の陣における細川家の活躍は、忠興にとっては必ずしも納得いくものではなかったろう。
夏の陣に於いては出陣早々講和がなされ12,000の軍勢は早々に撤退する。
冬の陣に於いては出陣はしたものの資金不足で海路を行くことがならず、陸路備前に於いて大坂城落城の報がもたらされた。
忠興は藤堂高虎軍に在って、藤堂軍が敗走する中、わずかながらの手勢ながらも活躍をみせている。 

槍つき候衆、一番七助(清田乗栄)、二番縫殿助(村上景則)、藪三左衛門(政三)、佐藤伝右衛門、佐方与左衛門(友信)、吉住半四郎(正景)、續少助(重友)
一又其後大崩に成候処、右近(松井昌永)一人取て返し候処に、酒井左衛門(家次)殿も被見へ候、又酒井左衛門小姓も右近と返し、中程に而にけ、又
  右近を傍へ返し候つる由にて筈を取申候刻、右近ハ甲共に頭を取申候事
一七助鑓ハ先を突まけ申候、伝右衛門も鑓二本之先つきまけ申候事
一首二亀之助(続重政)、首二主水(乃美景嘉)、首一加々山半兵衛、首一朽木与五郎(友綱)、首三主水内之者取候事

清田七助は後に石見を名乗った。妹が忠興の側室・圓光院である。ちょうどこの時期圓光院は妊娠しており、七月十五日豊前小倉で四男(東方立允・中務大輔立孝)を生んだ。高名を挙げた七助は後には忠利付となった。天草島原の乱に於いても出陣し、疵を負った。

村上縫殿助はその後も忠興の側近として活躍する。一万石を拝領し忠興が八代に入ったのち家老職を務める。忠興の没後は大徳寺に遺骨を納めるなどした後離国している。本藩との確執が諸資料から伺われる。

藪三左衛門は細川家に於いて一万二千石を拝領していた藪内匠の三男である。のち三左衛門は細川家を離れている。

               +--大隈    +--右衛門==丹左衛門---兵左衛門---丹左衛門---源太---隼之允 (九十郎家)

               |       |
      藪伊賀守----内匠--+--図書--------+--図書------三左衛門----右膳----弥次右衛門----内蔵允 
(一家)
               |       |
               +--三左衛門  +--熊之允(御暇)
               | (紀州藪家)|
               |       +--丹左衛門(兄・左衛門養子)
               |
               |       +--源太左衛門(男子なく断絶)
               |       |
               +--市正--------+--惣左衛門----弥次左衛門----久左衛門----+--市太郎  
(市太郎家)
                       |              (槙庵)  | (槐堂)
                       |                    |
                       |                    +--茂次郎  
(小吉郎家)
                       +--権左衛門(男子なく断絶)         (孤山)
 

佐藤伝右衛門     調査中

佐方与左衛門(友信)佐方家は丹後以来の家であり、幽齋公の田邊城籠城に際しても活躍した。

          佐方庄左衛門弟也、今度の働二付而、忠興君に被召出、御知行弐百石被下候、大阪
          陳之時鑓を合、組討の高名有、為御褒美、御加増五百石被下、其後三百石被下、都合
          千石ニ被仰付候、中務殿江被成御附、宇土にて病死   (綿考輯録・巻五)

          (大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
              知行五百石御加増・本知弐百石
 御馬栗毛四半差物御免
              鑓を合、組討ニ首一討取 右之眉疵一ヶ所被る   (綿考輯録・巻十九)

              (1)三斎様御付中津ニ相詰候衆 七百石 丹後  (於豊前小倉御侍帳)
              (2)千石 (八代分領侍帳・正保二年十二月) 

吉住半四郎(正景)田邊城に篭城した吉住庵清の子である。
          (大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
              知行三百石御加増 鑓を合、高名ハ無之  其後も御加増、都合六百石、
              佐方与左衛門敵を突倒し、谷の道へ組て落、与左衛門ハ敵の上ニ居候を、
              助太刀して其首を御前ニ持参候段申上候、御穿鑿之上、与左衛門鑓下之
              首ニ落着                       (綿考輯録・巻十九)
           元和八年正月廿一日 三齋公より忠利公江之御書
              江戸御屋敷(愛宕之下御屋敷)の作事について
              其地我等新屋敷作事之儀ニ付、吉住半四郎下候間申候 (以下略)
                                           (綿考輯録・巻二十一) 

             (1)三斎様御付中津ニ相詰候衆 丹後・四百石 (於豊前小倉御侍帳)・・半四郎 
             (2)御留守居衆 六百石
               寛永十二年九月~正保二年閏五月(病死)熊本町奉行、寺社奉行兼

續少助(重友)この戦に於いて首二をあげた續亀介の嫡男である。
           
          
(大阪御陳)手ニ合候者--七月朔日御饗応、御褒美被下候
              知行三百石御加増 鑓を合、高名は無之
              本知三百石此時三百石御加増、其後又加増ニて、八百石ニ成、御小姓頭、
              御側筒十五丁御預、御奉行役色々被召仕、其後御隠居之節、直ニ相勤居
              候処、御前を損し、御知行被召上候、亀之助病死後、忠利君より御断被仰
              上、亀之助上知之内八百石拝領、其後御小姓頭被仰付、江戸御供ニて罷
              登、江戸ニ而病死・・・              (綿考輯録-巻十九)  

                          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂の陣の細川家

2014-01-20 16:26:24 | 歴史

大坂冬の陣に於いて細川家は、毛利氏や島津氏の動きを制するために豊前に留め置かれた。忠興の強い希望に家康は歓び、細川軍は12,000の軍勢を忠利に托して出陣させた。しかしながら船団が小倉を発した直後、大坂からの和議の知らせが届き全軍引返すことと成る。

和平の状況は長く続かず慶長二十年(元和元年)四月に入ると決戦やむなしの状況となり、四月十九日付け細川家に対しても参陣の要請がでる。忠興はわずかに小姓組を引き連れただけで京都に在った。再び豊前小倉へ伝えられ二十八・九日の内に出発と決められたが、海路を行くための船頭の手配など資金が不足し細川軍12,000は陸路をひた進むことと成る。

                    惣人数雑兵共ニ一万二千也
              一番 藪内匠 加賀山隼人組付 長岡内膳(有吉興道)
              二番 内記(忠利) 長岡中務少輔(孝之) 益田蔵人        内記の旗本手先、左頭・坂崎清左衛門、右頭・住江甚左衛門
              三番 長岡式部(松井興長) 村上八郎左衛門人数 牧左馬丞 

忠興は先陣を望んだが勢の到着が遅れていた。四五百到着した中から鉄炮頭三人(佐藤伝右衛門・鳴海丹後・続亀之助)と鉄砲衆九十人をひきつれ、藤堂高虎の手に加わる。忠興の手勢がまだ到着しないうちの五日夜、大坂軍は道明寺へ押し出してきた。ここで後藤又兵衛等先陣が討死する。天王寺口に於いて藤堂高虎軍も破られ横雪崩となり忠興軍に襲い掛かる。以下が細川家記に記されているところである。

藤堂高虎先陳敗レ忠興カ備ニ横雪崩頽シ来ル 村上縫殿助ハヤ懸ラント両度マテ云ケレ共忠興許サス三度目ニ早駈ルヘシト云 縫殿助・清田七助・朽木與五郎・松井右近・藪三左衛門等我先二ト進撃す 村上・清田ハ馬上ニ槍ヲ横タへシカ込合ケル故村上ハ持タル槍ヲ三尺計リ切捨ケリ 前軍藤堂勢崩レ来リ本道は進ミ難ク両人畑中ヨリ進ミ敗兵ヲ遣リ過シ街道ニ乗出スニ敵七八人追撃シ来ル清田馬ヨリ下リ一番ニ槍ヲ合ス 村上モ續ヒテ馬ヨリ下リ敵一人ト三人トヲ左右ニ受ケ三人ノ方ニ走リ蒐リ一人ヲ突倒ス 其他續ヒテ槍ヲ合セ或ハ組伏セ奮闘シテ多ク敵ノ首級ヲ獲タリ

中国路を急いでいた細川家の主力は、十一日に大坂城の落城を備前で聞いた。忠興はその日京の吉田に着き、ここで陣後のことを指示している。
忠利は十四日吉田に着き、十五日家康・秀忠両御所に御目見を果たした。参陣に遅れた忠利の胸中は如何ばかりであったろうかと思うし、先陣を望みその約を得ながら十分な戦いを仕えなかった忠興も切歯扼腕の態であったろう。資金不足というのが如何にも悲しい。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七転八倒の朝

2014-01-20 11:08:00 | 徒然

 朝方六時ころベッドの中で寝返りを打ったら、猛烈な痛みに襲われた。生汗が出るような痛さで声も出ない。少し捻った身体を元に戻すことも出来ず、悪戦苦闘・七転八倒のうえ腹這い状態になり、腕で上体を起こそうと試みたが・・・これも痛い。
しばらく腹這い状態で時を過ごし、今度は膝を片方ずつまげてそのうえで上体をどうやら起こすことが出来た。ところがベッドから降りることが出来ない。
身体の軸がぶれると痛みが來る。なんとかベッドの端まで身体を動かし、また片足ずつ下そうと考えたが、これでまた激痛が来た。
激痛の中で強行して床に足を下し、両手をうしろにして上体をささえて痛みが治まるのをまつ。体中汗が吹き出して何とも気持ち悪い。
暖房も入れずしばらくベッドに腰を掛けていたのだが、痛みが落ち着いたところでなんとか立ち上がる事に成功・・・・・
30分ほどの悪戦苦闘の朝であった。食事後シャワーをして今の所落ち着いている。
奥方はPCのせいだとのたまうが、このようにタイピングをするのには全く支障ない。それを言うといろいろ支障をきたすのでただただ無言である。

よくなるどころかこのような具合で、状況はすこぶる悲観的である。
寝て静かにしているのが一番とかいうが、寝返りひとつ打つのに難儀する有様だから、寝るのさえ怖い。
姿勢を正して椅子に腰かけているのが一番のようだ。72歳に成りたて爺様の初日は、とんでもない状態で始まった・・・・・・・ 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂の陣と細川家

2014-01-19 12:04:11 | 歴史

  急度申遣候
一昨日六日に大坂より飯守下と大和口とへ人数六七万出候処に、藤堂手より合戦候而、首数多討取候、井伊掃阝手、本多美濃(忠政)手にて合戦候而
  首数多上り申候、大坂ニ而物頭衆相果候衆、木村長門後藤又兵衛薄田隼人にて候事
一今日七日午之下刻大坂へ少々よせ被成候処に、茶臼山より岡山迄取つゝけ、七八万も可有之候、此方之人数を立、此方よりひた物、無理に合戦をか
  け候処に及一戦、数刻相支候而半分ハ此方へ半分ハ大坂方勝に成候つれ共、此方之御人数之段数多候ニ付御勝に成、不残討果被候、度/\せり合
  中/\推量之外ニ候、本多雲(忠朝)も討死、小笠原兵阝(秀政)殿も手負候、是にて可推量候、我々事先書ニ如申鉄炮頭三人、其外小姓計にて大
  坂へ参候、合戦に逢申候事
一槍つき候衆、一番七助(清田乗栄)、二番縫殿助(村上景則)、藪三左衛門(政三)、佐藤伝右衛門、佐方与左衛門(友信)、吉住半四郎(正景)、續少助(重友)
一又其後大崩に成候処、右近(松井昌永)一人取て返し候処に、酒井左衛門(家次)殿も被見へ候、又酒井左衛門小姓も右近と返し、中程に而にけ、又
  右近を傍へ返し候つる由にて筈を取申候刻、右近ハ甲共に頭を取申候事
一七助鑓ハ先を突まけ申候、伝右衛門も鑓二本之先つきまけ申候事
一首二亀之助(続重政)、首二主水(乃美景嘉)、首一加々山半兵衛、首一朽木与五郎(友綱)、首三主水内之者取候事
一大坂御城天守も、申之下刻に火懸り申候、不残御果被成、一時之内に天下太平に成候事
一此状之内被見候而、不草臥飛脚にはやき者にもたせ、豊前に可被下候、取紛書状かきかね申候、恐々謹言
     五月七日                        越中 忠興
          内記殿
  又申候、我ら小姓共迄物に相候事申上候ヘハ、大御所様御前へ被召出候、是にて仕合可有推量候

 

大坂城落城直後の忠利に宛てた忠興の書状である。非常に簡明に主だった敵味方の死者の事や、細川家の働きについて記している。
この書状をはじめとして、大坂の陣における細川家の動きを見て行こうと思っている。
 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誕生日前日

2014-01-18 20:39:12 | 徒然

 今日は史談会の今年初の例会、「おきく物語」を主題に一時間半ばかりお話をする。あとは会員の皆様の色々なお話を伺って終了。
その後は近くのホテルの食堂で毎度の如く食事をしながら、またまたいろいろな話で盛り上がる。
何といっても東京都知事選のこと、遠く離れた一自治体の首帳選挙だが、なんといってもおらが国のお殿様の御出馬である、何とか勝利していただきたいというのが皆さんの偽らざる心境のようだ。原発廃止については人それぞれの思いはあるのだろうが・・・・・

帰宅したらすっかり疲れが出てしまった。何もする気がなくなってただうだうだと時間をつぶす。
夕食後PCの前に陣取ったら、うつらうつら小一時間夢の中をさまよってしまった。
そしてお昼よりもなお一層疲れが増した感じがしてきた。
実は今日は私の71歳最後の日なのだ。明日は72歳の誕生日、嬉しくも何もないのだが、年男で六回目の午年の誕生日である。
先にあと一回りの午年を目指したいと書いたように思うが、こんな状態で大丈夫かいなとつくずく感じている。

今日はビールでも飲んで早寝をしようと思っている。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風邪をひくとぎっくり腰に悪い

2014-01-17 18:53:11 | 徒然

 ぎっくり腰をやってから一段とひどくなっている気がする。ベッドの寝起きが一番大変で、どうやって布団に入るか?起きだすかに苦労している。
どんな体勢をとっても「ぎくっ」と来るのである。ここ数日気温が0度からマイナスを記録していて、鼻風邪気味の私は、くしゃみを連発してこれが又腰に来る。
鼻をかむのも影響して景気よくできずに、鼻はグズグズである。風邪はぎっくり腰には大いに悪い。
明日は史談会なのだが、二時間ほどもつのかしらといささか心配である。

なんとか準備は完了したのだが・・・・ 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂城落城400年の年に

2014-01-17 10:42:26 | 徒然

 「おきく物語」についていろいろ調べてきたが、今年は大坂城落城400年でもあり改めて大坂の陣を勉強するにはよいきっかけとなった。

戦いは時の運とはいえ大阪勢の劣勢は眼に見えている。加藤清正、前田利長はすでになく、福嶋正則は軍から離され江戸に留め置かれた。平野長泰は大坂籠城を願ったが江戸に軟禁された。黒田長政・加藤嘉明も江戸に留め置かれた。
そんな中での細川家の存在は、西軍にとっては是非とも迎え入れたい処であったろう。淀君を始めとして参陣を乞う書状が到来した。
しかしながら忠興はこれを拒否し、東軍に加担することと成る。細川家家譜は次のように記す。 

【大坂の陣】
十月六日忠利江戸城石垣築造課役畢テ暇ヲ賜リ江戸ヲ発シ駿府ニ赴ク途ニシテ大坂騒擾ノ由ヲ聞キ前将軍ニ謁シ本多上野介ニヨツテ達スル様ハ東西将サニ事有ントスルヲ聞ク 今假ヒ國ニ在トモ馳登リ若年ノ儀ナレハ一軍ヲ帥ヒ先登ヲ心懸ヘキ事ナカラ夫ハ一身ノ功ヲ貪スルニ似タリ此砌江戸ニ留ルコソ却テ将軍ノ為ナラン歟若此意ヲモ明サスシテ歸國セハ忠興ノ怒ニ觸ン事必然ナリ宜ク上裁アルヘシト云 前将軍深ク感シ普請ニ付テ残置タル人數ハ急キ國ヘ返シ忠利ハ江戸へ赴キ将軍出馬アラハ随従スヘシトノ旨ニテ又江戸ニ赴ケリ 既ニシテ大坂ノ城攻メニ決シ十月十一日前将軍遊臘ノ躰ニテ駿府出馬廿三日将軍江戸出馬アリ 忠利ハ跡ヨリ発ス 両将軍京伏見ニ至リ攻口等部署シ遂ニ大坂城ヲ圍ム 此時忠利は本多出雲守ト倶ニ森河内ニ陳セシカ無程和議成テ前将軍陳拂アルへシトノ事ニ付忠利講和ノ祝賀トシテ諸将ト茶臼山ノ営ニ至テ前将軍ニ謁ス 前将軍其夜俄ニ發途歸陳アリ 此役ニ嶋津・毛利ノ両氏ハ大坂へ荷擔ノ風説アリテ忠興ハ右両氏出陣ノ後ヨリ上ルヘキ旨命セラレシ故在國セシカ毛利氏程ナク出陣嶋津氏ハ異圖アルニ非ス寒風ノ節海路便ナラス遅参ノ由忠興深ク之ヲ知レリ故ニ十二月廿九日小倉ヲ発シ大舩五百餘豊前門司ニ着セシ時東西和睦ノ旨忠利ヨリノ報知ヲ得テ直ニ歸陳セリ

元和元年乙卯正月将軍江戸へ歸陳忠利は暇ヲ賜フテ豊前へ歸國ス 既荷シテ秀頼再ヒ大坂籠城アル由ニテ竊カニ諸藩ヲ誘致セラル 忠興ヘモ大野治長ヨリ書通ヲ以テ頼越又淀臺ヨリモ數通ノ消息アツテ是非味方ニ属スヘキ旨様々申越サレシカ共忠興肯スメ曰関東ト隙ヲ生セラレン事秀頼ノ為不利ナル事明ナリ希クハ和睦ヲ固フセラルへシトテ鉾楯ノ事ハ同意セス 然ル處大坂ノ和議遂ニ敗レ忠興父子早々参陳スヘキ旨関東ヨリ急報アリ 忠利ハ總勢ヲ率テ陸行シ忠興ハ小勢軽舸ニテ先ツ発スヘキトノ旨ニテ手勢四五百弓銃手五百ヲ卒シ廿八日小倉出舩 五月三日攝州兵庫花熊浦ニ着シ爰ニテ先鋒ヲ請フ 両将軍許容アリ 忠利ハ四月晦日出馬總軍一萬餘ヲ卒シ中國路ヲ軍行ス 五月五日前将軍京二條ヨリ出馬アリケルニ忠興淀京口ニテ謁シケル處早ク上リ肝ヲ潰シタリトアレハ忠興餘リ心許ナク存シ手廻許リニテ登レリ家中ノ人數ハ忠利召連陸路ヲ押ケル故未タ着仕ラスト申ス 然ラハ人數ハ忠利へ委子忠興ハ我等父子ノ側ニ侍スヘキトノ命ナリ 忠興今度先鋒ヲ望シハ一軍ヲ帥ヒ攻伐ノ労ヲ盡サントノ志ナルニ人數ト離レン事本意ニ非スト辞シケレ共前将軍特ニ厚意ヲ以テ命セラレケル故止ム事ヲ得ス 将軍ノ本陳へ出仕軍議ニ参與セリ
六日早天忠興本陳へ出仕ノ處枚方町口ニテ将軍出馬アリシ由ヲ聞キ急ニ歸リテ鎧ヲ着シ大和海道ニ乗出シ大軍ヲ押分ケ馬ヲ馳将軍ノ営砂村ニ至リ謁見ス 
七日前将軍ハ茶臼山将軍ハ岡山ニ向テ軍ヲ進メ備ヲ立ラル 前将軍先驅ハ越前少将忠直・本多忠朝・小笠原秀政等ナリ 将軍ノ先驅ハ加賀少将利常・井伊直孝・藤堂高虎等ナリ 忠興ハ藤堂高虎ト同シク平野海道ヨリ進ミ両人暫ク牀几ニ踞ケシケル處ニ本多三彌正重馳来リ越中殿々々将軍今日ハ蒐ラヌカ宜シカラント命セラルト云 忠興今日我ヨリ戦ハスンハ必ス敵ヨリ夜討スル事アランサレハ山ニ入リ木ヲ伐リ柵ヲ堅クスヘシ 希クハ早々蒐リ玉ヘト云ケレハ三彌心得タリトテ急キ歸ル城兵ハ七八萬程茶臼山ヨリ岡山ニ連綿シテ備ヲ設ク 東軍ノ諸将茶臼山ニ備ヘタル備ヲ靖メテ持重セリ 坂兵ヨリ騎者二人乗出シ七八町許リ来テ東軍ヲ候視シテ歸リ一軍忽チ鬨ヲ揚ケ茶臼山ノ勢ヲ下シ懸ケ東軍モ相懸リニ蒐リ黒烟ヲ立追手搦手一時ニ血戦シ本多忠朝・小笠原秀政・同忠脩討死ス 坂兵大ニ振ヒ勝負分タス死傷夥シ 藤堂高虎先陳敗レ忠興カ備ニ横雪頽シ来ル 村上縫殿助ハヤ懸ラント両度マテ云ケレ共忠興許サス三度目ニ早駈ルヘシト云 縫殿助・清田七助・朽木與五郎・松井右近・藪三左衛門等我先二ト進撃す 村上・清田ハ馬上ニ槍ヲ横タへシカ込合ケル故村上ハ持タル槍ヲ三尺計リ切捨ケリ 前軍藤堂勢崩レ来リ本道は進ミ難ク両人畑中ヨリ進ミ敗兵ヲ遣リ過シ街道ニ乗出スニ敵七八人追撃シ来ル清田馬ヨリ下リ一番ニ槍ヲ合ス 村上モ續ヒテ馬ヨリ下リ敵一人ト三人トヲ左右ニ受ケ三人ノ方ニ走リ蒐リ一人ヲ突倒ス 其他續ヒテ槍ヲ合セ或ハ組伏セ奮闘シテ多ク敵ノ首級ヲ獲タリ 然レ共大坂方鋭気愈振ヒ激戦シケルハ我軍又大崩ト成ル 忠興ハ高虎ト一所ニテ一段高キ所二上リ城ノ方ニ馬首ヲ向ケ機ヲ計テ見合セケル 斯テ高虎ノ軍モ返シ合セ其他諸将稠敷戦ヒ城方モ今日ヲ限リト奮戦死傷相當リシカ終ニ城兵ヲ撃■セシム 此日秀頼モ出馬アリシカ城中ノ諸将戦死持口危ク成ケル故本丸へ退ク 城兵之ヲ見テ気撓ミ終ニ總敗軍トナリ寄手追撃城内ニ乗入所々火ヲ放ツ於是天王寺岡山邊ニ備へシ敵兵回ル事ヲ得ス 或ハ自刃或ハ逃亡セリ 城兵ハ烟ニ迷ヒ度ヲ失ヒ秀頼母子モ山里樓ニ徒居セラル 中軍ノ命ニヨツテ諸将秀頼ノ居所ヲ圍ミニ三ノ丸本丸共悉ク焼立ケリ 今日忠興手ニ討取首十三生捕一人ナリ
八日秀頼母子助命ヲ前将軍許容アリシニ使者往返ノ内不圖警固ノ兵ニ砲發セシ者アル故助命モ偽トヤ思ハレケン秀頼母子自殺扈従悉ク殉死セリ 其後前将軍ハ上京二條城へ入ラレ将軍ハ伏見城ニ入ラル 忠興モ次テ上京謁見ス 又忠利ハ十一日備前片上へ着ケル處大坂落城ニ付人數差返スヘキ旨忠興ヨリ報告シケル故總勢ヲ返シ麾下許リニテ登京両将軍ニ謁セリ 

忠興の弟・玄蕃興元は、酒井雅楽頭忠世(陣代・息万千代、16歳)の陣に在って、酒井勢の指揮を任された。
忠興の長男・忠隆は参陣を許されていない。その思いは如何ばかりであったろうか。
西軍に加担した細川興秋はのちに父・忠興の命により自ら命を絶つことに成る。
小倉を出奔し浪人していた米田是政も西軍について奮戦したが、細川家に帰参するのは元和八年である。 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松寿庵先生 第83講

2014-01-16 17:38:56 | 史料
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

youtubeで「豊臣期の大坂城」を見る

2014-01-16 10:42:13 | 史料

                                          http://www.youtube.com/watch?v=TGOVpTdq_iU

       こちらは現在の大坂城  http://www.youtube.com/watch?v=khuPeplJLyo

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

驚き

2014-01-15 18:47:06 | 徒然

 今年初めての史談会例会(18日)に於いては、「おきく物語」を取り上げることで準備を進めてきた。

実は今日居間に於いているTVが映らなくなった。B-CASカードの不具合化と思いカスタマーセンターに電話をしてやり取りする中で、どうやらTV本体がだめになっているらしいことが判った。ならばと小さなTVを持ってきたが、画面が小さくてなんとなく落ち着かない。
さて今日はどんな番組があるのかと番組表を見たら、22:00から歴史秘話ヒストリア「大坂城落城 その時おんなたちは!?~侍女・おきく」とある。
「えーつ、おきく物語だ・・・・・」と絶句、喜ぶべきか悲しむべきか・・・・・・・・

まずは録画をセッティングする。まずは拝見して18日はどうするかを考えようと思っている。
多分皆さん御覧に成る事だろうから、当日下手な解説もいかがかと思うし・・・・えらいことになってしまった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする