「古地図に見る柳川城の歴史」という秀逸のサイトがある。これを拝見すると柳川城下の大方のところを理解できる。
http://www.geocities.jp/bicdenki/yanagawasiro.htm
又論考「近世町割りから見た城下町柳河の空間構成とその変容」も大変興味深い。
「古地図に見る柳川城の歴史」という秀逸のサイトがある。これを拝見すると柳川城下の大方のところを理解できる。
http://www.geocities.jp/bicdenki/yanagawasiro.htm
又論考「近世町割りから見た城下町柳河の空間構成とその変容」も大変興味深い。
この地図は国土交通省・九州整備局の佐賀国道事務所のサイトから引用させていただいた。
http://www.qsr.mlit.go.jp/sakoku/kaidou/sagaji/index.html
福岡県側は「筑前六宿」というが、同様の案内サイトが福岡国道事務所にあるのかと思ったら、こちらにはない。長崎も同様である。
こういったものは各機関が同様の動きであってほしいと思うのは私だけだろうか。
もちろんわが県も同様だが、旧街道の紹介といったものが一様に行われることを願ってやまない。
筑前六宿については、福岡県で一昨年の暮に立派なパンフが出来ている。わが史談会で使わせていただきたいと福岡県にお願いの電話を差し上げた。
丁寧な対応をいただき、後に北九州市役所からご連絡をいただいて郵送していただけることになった。
どのような内容なのか大変楽しみにしている。
追記 1:19 こんなサイトを見つけました。 http://kokuraya.co.jp/column/001.php
三十三日目
十月十七日 晴
一、御定刻御供揃ニ而小田原御本陣御出立被遊候
一、佐川仮橋有之候也
一、梅沢御小休茶代棒頭取計
一、大磯御昼休ニ付茶代南鐐一片被下候也
一、馬入川無御滞御渡船被遊候 川手前向江も御代官手代出ル拙者及挨拶候
一、南郷御小休茶代棒頭取計
一、藤沢御本陣江夕七ツ時頃御着座被遊候 藤田源右衛門方差支候ニ付脇本陣和田七郎右衛門方江御止宿被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第6宿 藤沢宿
三十四日目
十月十八日 晴
一、御定刻御供揃ニ而藤沢御本陣御出立被遊候
一、戸塚御小休茶代棒頭取計 ・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第5宿 戸塚宿
一、境木御小休茶代右同断
(境木 武蔵国--相模国の国境のモニュメント 権太坂)
一、神奈川御茶屋御昼休ニ付金百疋被下候 ・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第3宿 神奈川宿
一、生麦御小休茶代棒頭取計 (参考:生麦事件)
一、川崎御本陣江夕七ツ時前御着座被遊候 田中兵庫方差支候ニ付 脇本陣佐藤惣左衛門方江御止宿被遊候
・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第2宿 川崎宿
一、栄昌院(立政生母)様より右同所江御内使者を以御旅中御見廻旁御重之内小肴一籠被進候
御内使者 古賀吉之丞
一、熊之丞(実弟・後立政の養子となり立政の跡を継ぐ・行芬)様より御同様御口上計
御内使者 上羽弥一左衛門
右一人ツゝ御前江被召出御直答被遊候 明朝御出立奉見上候而 御使引取候也
一、江戸より御一宿迄伺御機嫌状飛脚を以相達候書入ニ而及返報候也
一、明晩七ツ時御供揃ニ而御出立被遊候旨飛脚を以江戸江申遣候筈之処 右之返報ニ致書入申遣候而相済候也
一、福島善左衛門毎も大森江罷出御機嫌奉伺候処 病気ニ付名代を以川崎江罷出奉伺御機嫌御扇子一箱差上申候故 小奉行富永忠助より本陣江差出候 程能申聞候様忠助江
申聞候也
三十五日目江戸到着
十月十九日 晴
一、御定刻御供揃ニ而川崎御本陣御出立被遊候
一、六郷川無御滞御渡船被遊候
一、大森和中散御小休茶代銀壱両被下候也
一、品川釜屋御昼休ニ付金弐百疋被下候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第1宿 品川宿
右之場所ニ而御休札御幕等も無之並之通ニ而相済候也
一、御扇子一箱 福嶋長右衛門
一、御熨斗二台 江戸御用達町人中
一、此節は御不例之御姿ニ付何れも御目見不被仰付候也 尤御通筋ま罷出平伏仕居候也
一、釜屋より御供惣立ニ相成此度御人少ニ付左之通御仮出ニ相成候
一、川渡奉行河嶋市左衛門御供申付御棒鼻御士都合六人也
一、御駕脇御供頭初御□子迄都合九人也
一、御掛札葛西吉右衛門御宿割有馬市平太御料理人津嶋忠右衛門御駕奉行田辺作郎助右之面々御供被仰付都合拾弐人之御先供也 尤作郎助儀は下組外ニ付 御先供難相成候
ニ付其日一日中組江被仰付御供相勤候也
一、右釜屋御小休江黒木順蔵罷出居候ニ付 御前江被召出御先ニ引取申候
一、此節御不例之御姿ニ而御着座被遊候ニ付 下屋敷御立寄無御座勿論御老君様御廻勤も不被遊直ニ上屋敷江九ツ少過益御機嫌能被遊御着座候 御間内江罷出候面々例之通
「玉造を応援する情報サイト」というサイトがある。大坂玉造地区に特化したサイトだが、今年は「大坂冬の陣」400年メモリアルイヤーということも有って熱く燃えておられるようだ。
そんな中に「真田丸はどこにあった?・地元を調査して歩く」という項がある。これは2013年7月10日に放映されたNHK歴史秘話ヒストリア「発掘!真田幸村の激闘~最新研究調査から探る大坂の陣~」で紹介された真田丸を、いろんな資料からその場所を探ろうというのである。
(参考: http://ameblo.jp/e-fh/entry-11611904002.html )
来年の大河ドラマは「真田丸」に決まったことも有り、気合が入ることは当然であろう。
折も折産経新聞が1月14日(水)7時55分配信したYahooニュースに「真田丸、城外孤立の砦だった!? 最新の等高線調査で可能性高まる」がでた。
記事をたどっていくと 「大坂上町台地の総合的研究」という論考があることを知った。有り難いことにこれに関する資料「上町台地とその周辺低地における地形と古地理変遷の概要」がWEBで航海されている。また「十三の今を歩こう」というサイトには、「古代上町台地の地形変遷と大阪高低差学会」という項があって、まさしく大坂の町を「弥生時代」「古墳時代」「古代」「中世」「豊臣後期」とその変遷を見事な図をもって説明している。(下記図は豊臣後期の図を引用)
このような形で真田丸の位置関係が明らかにされようとしている。関係者の熱い思いがふつふつと伝わってくるが、それはまた大阪高低差学会というユニークな名称のサイトにあらわされている。熱い皆さんがうらやましい。
「大坂冬の陣」400年メモリアルイヤーである今年、いろいろと目が離せないようだ。
真田丸、城外孤立の砦だった!? 最新の等高線調査で可能性高まる (Yahooニュースより産経新聞記事を全文引用)
徳川家と豊臣家が国を二分して戦った「大坂の陣」。その豊臣方の知将・真田幸村が大坂城の堀の外側に築いた出城「真田丸」は従来、城内と簡単に行き来できる構造と考えられてきたが、最新の等高線調査によって、城とは大きな谷を隔てた孤立無援の砦だった可能性が高まった。専門家は「あえて敵の標的となって大軍を引き寄せた」と推測。実際、幸村は真田丸をめぐる攻防戦で徳川軍の主力を散々に打ちのめした。その戦略の真意とは-。(川西健士郎)
◆専門家も舌巻く作戦
「まさに背水の陣。血祭りに上げてくれ、といっているようなものだ」と、真田丸が孤立無援の砦だったとする新説を唱える奈良大学長の千田嘉博氏(城郭考古学)。「真田丸攻防戦の幸村の戦いは、従来の常識とはまったく違う」と言い切る。
大坂の陣は慶長19(1614)年、最初に冬の陣が勃発。翌年の夏の陣に続く前哨戦と位置づけられる。
全国の大名を主力とする徳川軍20万が大坂城を包囲。豊臣軍10万が城に籠もった史上最大の籠城戦だ。その最も激しい戦闘が真田丸攻防戦だった。
大坂城は東西と北の三方を川や湿地帯で囲まれた天然の要害。一方で、南に続く上町台地が唯一の弱点とされた。真田丸は、この弱点を強化するため、城の東南部に築かれた。戦記などによると、真田丸攻防戦では、豊臣軍はほぼ無傷だったが、徳川軍は数千人もの兵を失ったとされる。
「難攻不落の大坂城」の名声を一躍天下に知らしめた戦いだったが、舞台となった真田丸の調査はそれほど進まず、確かな遺構も残っていない。
千田氏によると、真田丸を復元した絵図は数多く存在するが、後世の人々が軍学を学ぶため概念化、単純化した絵図が大半という。
しかし、広島藩主の浅野家に伝わる江戸時代初期の城跡図面集「諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)の真田丸は、かなり様子が異なる。
大坂城と真田丸の間にがけが描かれ、かなり互いに離れているような印象を与えている。
しかし、千田氏が「浅野家の絵図は正しかった」とする資料が存在した。
昨年3月、大阪文化財研究所と大阪歴史博物館が刊行した報告書「大阪上町台地の総合的研究」に掲載された古地理図だ。ここでは難波宮や大坂城など、古代から現代まで次々と都市が築かれた上町台地について、遺跡報告書やボーリングデータなどから5時代ごとに等高線を再現した。
千田氏が大坂の陣の時代と重なる「豊臣時代後期」(1598~1615年)に注目すると、真田丸があった場所では、大坂城との間に堀だけでなく、大きなガケが存在していた。
古地理図の作製メンバーの大阪文化財研究所の市川創氏によると、「この400年の土地利用で上町台地の高低差は緩和されたが、当時真田丸には深い谷があり、地形の高低差はかなり激しかった」と指摘する。
◆驚くべき幸村の戦略
さらに古地理図を詳しくみると、上町台地の西半分は平坦(へいたん)だが、東半分は谷が入り組んで高低差の激しい地形だったことが分かる。
「真田丸があった場所は起伏が激しく、天然の要害ともいえる場所。実は真田丸を築く必要はなかったのではないか」。古地理図を分析した千田氏は指摘し、こう語る。
「あえて戦の定石に反した城外孤立の砦を築いて格好の標的となり、徳川勢の主力を引き受け、その隙に西側の他の部隊が反撃を仕掛ける。それが幸村の作戦だったのかもしれません。幸村は、常識を超えた戦略の持ち主。まさに恐るべき知将です」
三十一日目
十月十五日 晴八ツ半頃より曇暮前より雨
一、御定刻御供揃ニ而興津御本陣御出立被遊候
一、興津川無御滞御渡川被遊候
一、倉沢御小休茶代棒頭取計
一、神原(蒲原)御小休茶代右同断 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第15宿 蒲原宿
一、岩渕御小休藤田屋藤兵衛宅粟之粉餅差上御次江も指出候ニ付 金百疋被下候也
一、藤川無御滞御渡川被遊候 御代官手代出ル 拙者及挨拶候其外川役人罷出候也
一、吉原御本陣御昼休ニ付 銀弐両被下候様棒頭より願出候ニ付被下候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第14宿 吉原宿
一、柏原御小休茶代棒頭取計
一、原御小休茶代右同断 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第13宿 原宿
一、沼津御本陣江暮六ツ時前御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第12宿 沼津宿
一、御関所前ニ付髪月代触等御供頭江相達候也
沼津城下絵図
三十二日目
十月十六日 雨
一、御定刻御供揃ニ而沼津御本陣御出立被遊候
一、三嶋御小休宮ノ内御野立 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第11宿 三嶋宿
一、三ツ谷御小休茶代棒頭取計
一、山中宗閑寺御小休定例閑晒団子差上申候ニ付 銀弐両被下候
一、箱根川田角右衛門方御昼休ニ而定例之通献上物等仕候ニ付 金弐百疋被下候
一、御関所荒井(新居)同様之御届ニ而相済候也 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第10宿 箱根宿
一、畑御小休定例之通御次迄も御酒肴等差出候ニ付 金百五十疋被下候也
一、湯元(湯本)御小休米屋紋右衛門宅茶代金百疋被下候也
一、山越ニ付棒頭江御酒代銀弐両被下候
一、小田原御本陣江暮六ツ時前御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第9宿 小田原宿
一、大久保加賀守様より御番当駅江御止宿ニ付 御旅中御見舞本陣迄被仰進候由ニ而 本陣より御口上申述候ニ付御返答も本陣江申述候而相済候也
一、山御越ニ付御駕之者江鳥目弐貫文被下候 右は会所より出ル御供頭取計事
小田原町割図
「立政公御参勤 道中日記をたどる」付け足し
鶴崎の御舟歌に関する著「御船歌・復活に寄せて」をよんでいたら、偶然下記の歌詞を見つけた。
道中日記には見えない池田やこれに伴う西行の故事、能の熊野、又小夜の中山・三保の浦等が登場するとともに、藤原家隆の歌などが挿入されるなど博学の人物の作詞であることを伺わせる。
小夜の中山
エイ 池田の宿をわ夜はほの/\立出て
エイ 天竜川の早瀬おも 心すこくも打渡り
エイ 其のいにしゑの西行は
エイ まだこよべきと思いきや 命なりけりさよの中山中/\に
エイ 忘れて過きし都ともかくと おもひつゝも今日も又
エイ 今行(く)駒の足はやく
エイ 行(く)間もあらぬ大井川 みかた(さ)まされは藤枝の
エイヤヨ/\此 サン花と見ツゝも打過てうつの山部(辺)のうつゝにも
エイ 夢にも人にあわんなり 月も今宵は清見潟 三保の浦葉のしら波
エイ かたみに袖をしほりつゝ 末の松山かくやらん
エイ 我身たゑぬ浮島か
エイ 原より見れは富士の山 やれすその雲を引はゑて
エイ また時ならぬしら雪の つもる日数をふる程に
エイ 駿河の国を打過て
エイ 今宵は三島にやどりつゝ 音に聞ゑし箱根(山) あかり/\詠(なか)むれは
エイ ほのかにみゆる山の面影打詠(なか(め)
エイ 家隆(かりゅう)の歌はおもしろや 此ノ サン明ケば又越ゆべき山の峰なれや
エイ 空行(く)月のすゑの白雲と 詠(なが)めたまひし歌人の
エイ 心今そおもひやる 感じ給えばしのゝめの
エイ 立(ち)いて見れば箱根山 つゞら折りなる細道を たどり/\て小田原宿に
今宵はかり寐して 聞ケは御江戸はほどちかし うれし
池田の宿
遠江国の中世宿駅,近世東海道の天竜川渡船場。また松尾神社領池田荘の中心部で,荘官居住地でもあった。宿はもと川の西岸にあったが,河道の変化によって東岸に移動した。池田宿は中世を通じて紀行文や軍記物にみえるが,最も繁栄したのは平安末から鎌倉期で,平宗盛と宿長者の娘熊野(ゆや)の物語は,謡曲《熊野》で名高い。徳川家康は池田渡船場の船守に種々の特権を与えたが,近世には衰退した。現在,静岡県豊田町池田。
熊野御前と平重衡 (行興寺・池田の渡し)
二十九日目
十月十三日 晴
一、御定刻御供揃ニ而見附御本陣御出立被遊候
一、袋井御小休茶代棒頭取計 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第27宿 袋井宿
一、原川御小休茶代右同断
一、掛川御小休茶代右同断 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第26宿 掛川宿
一、日坂宗伝寺御昼休ニ付南鐐一片被下候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第25宿 日坂宿
一、菊川御小休茶代棒頭取計 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・間の宿 菊川宿
一、大井川無御滞御渡川被遊候 御代官手代川手前向ニ罷出候ニ付 拙者及挨拶候 伊奈友之助様御手代之由
一、嶋田御小休茶代棒頭取計 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第23宿 島田宿
一、三軒屋御小休茶代棒頭取計
一、瀬戸川水少も無之候也
一、藤枝御本陣江夜六ツ半時頃御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第22宿 藤枝宿
一、右本陣より御肴柿献上仕候ニ付 御肴は差返シ柿計御受ニ相成金百疋被下候
一、大井川無御滞御渡川被遊候ニ付 御家老衆拙者御前江罷出恐悦申上候 席々よりも拙者取束恐悦申上候也
一、今晩雇飛脚を以江戸表江御用状仕出申候 此節は宇土表江は御用状仕出無之候也
一、大井川御越ニ付棒頭江御酒料銀壱両被下候 御供頭江相渡候也
三十日目
十月十四日 晴
一、御定刻御供揃ニ而藤枝御本陣御出立被遊候
一、岡部御小休茶代棒頭取計 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第21宿 岡部宿
一、宇津ノ谷御小休茶代右同断
一、丸子(鞠子)御小休茶代右同断 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第20宿 鞠子宿
一、阿部川無御滞御渡川被遊候 御代官手代罷出ル 拙者及挨拶候
一、ミクロ御昼休亀屋五郎兵衛宅定例阿部川餅煮□等差上御次ニも右之通指出御昼休旁ニ而金百五拾疋被下候 御供頭より申出有之候ニ付右之通被下候也
一、府中宿内札ノ辻江松浦大和守様御使者罷出御会釈被遊 拙者よりも及挨拶候 ・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第19宿 府中宿
一、右同所御奉行牧野采女様組同心 小倉儀右衛門
吉田甚右衛門
右は人馬取賄為見届罷出候由
一、小吉田御小休稲葉源左衛門宅定例すし三桶御酒等差上ニ付 銀三両被下候也
一、興津御本陣江暮六ツ前御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第17宿 興津
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二十八日目
十月十二日 晴
一、御定刻御供揃ニ而白須賀御本陣御出立被遊候
一、荒井(新居)疋田八郎右衛門方江朝六ツ時御着座被遊候献上物左之通 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第31宿 新居宿
一、鰍 疋田八郎右衛門
一、右同 前田作右衛門
一、右同 三人催合ニ而献上仕候 前田岩吾
同 報蔵
同 直吉
一、右は定例之献上ニ付御受ニ相成御目録左之通被下候
一、金百疋 疋田八郎右衛門
一、同弐百疋 前田作右衛門
一、南鐐一片 同 岩吾
一、銀一両 同 報蔵
一、同一両 同 直吉
一、荒井御番所江御届例之通河嶋壱左衛門御使者相勤候 惣人数弐百人余医者壱人右御人数之内仲間一人病気ニ而歩行難相成候ニ付 右御届も有之候 同勢今日中罷通り申候
不残通仕廻迄扣居可申候共 用向受込罷在候間 主人通行相済候ハゝ 乍自由引取可申旨申達候
新居の関所
一、御召船松平伊豆守様(松平信順)より被差出候作右衛門より彼方役人江掛合申候 此方より懸合候事も無之御目録ハ例之通会所より取計候事
(これより浜名湖を船にて舞阪へ向かう)
一、御船場江伊豆守様御役人出ル 御乗船之節拙者及挨拶候 御船江乗組之面々御近習片番御医師拙者御鑓持御草り取其外家来共乗組申候 朝六ツ半時過頃御乗船被遊四ツ頃
舞阪江御着船被遊候 舞阪ニ而御休無之直ニ御通行被遊候也 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第30宿 舞阪宿
一、篠原御小休茶代棒頭取計
一、浜松御本陣伊藤平左衛門方御昼休ニ相成候ニ付 献上物左之通 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第29宿 浜松宿
一、鯉二ツ
一、鱠干物二ツ
一、石飯弐重
右之通献上仕御供中江も石飯御酒等差出候ニ付目録金三百疋被下候
一、平左衛門方御昼休ニ而無之候処 白須賀御泊江罷出是非/\御休之儀相願候ニ付無余儀御昼休ニ相成候 御出立前於御座間御目見被仰付相済候 跡ニ而平左衛門願ニ付
妻も御目見被仰付右両人共御家老御取合ニ而拙者御披露仕候
一、浜松町御先拂出ル
一、羽芝御野立
一、天龍川無御滞御渡船被遊 船場江羽倉外記様御手代出ル 拙者及挨拶候
一、池田御小休茶代棒頭取計
一、見附御本陣江夕七ツ半時頃御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第28宿 見附宿
付け足し:一行は荒井(新居)から舞阪へは浜名湖を船で横断している。その後東海道を東上して天竜川を渡ることになる。
下の図に見る上方の街道は「姫街道」と呼ばれている。陸路をたどり天竜川に至り見附宿で東海道に合流する。
しかしながら細川公の参勤でこの街道を通られたという記録に出会った気がしない。
過日■「瀬戸内海路」について を書いた。ここでご紹介した絵図について鶴崎在住のF様から40数枚の写真のデータをお送りいただいた。
誠にありがたいことで深く感謝申し上げる。それぞれの写真に相当のスケールの違いがあるのでプリントアウトして簡単につなぎあわせるという訳にはいかないが、プリントを微調整してなんとか完成できないかと頭を悩ませている。
慶長・元和期の京阪への旅や、それ以降の参勤などによる人の動きを瀬戸内という海に視点を置くと随分と興味深く思えてくる。
また多くの船頭や加子達の生活ぶりは如何様なものであったろうかと考えるのである。
かって鶴崎の御舟歌についていろいろ取り上げたことがある。鶴崎の剣八幡神社の大野川に藩主の御座船を曳航する模様が描かれた絵馬が有名だが、これをみると鶴崎の船頭たちが藩主の無事な帰港を歓び、朗々と御舟歌を歌う様が目に見えるようである。
残念ながらこの御舟歌のメロディーは失われたといわれる。
実はご厚誼をいただいているブログ「徒然なか話」のF様が、私のブログをご紹介いただくと共に面白い御説を挙げておられる。肥後の殿様の参勤と御船歌
音楽的才能がない私はこの楽譜から全くメロディーが浮かんでこないのが残念なのだが、歌詞をみると鶴崎の御舟歌に共通する部分も見受けられ、御説ごもっともと思うのである。また Finale NotePad にオタマジャクシを打込んで、なんとかこの曲を聴いてみたいと思っているのだが・・・・・・・
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二十六日目
十月十日 晴
一、御定刻御供揃ニ而宮御本陣御出立被遊候
一、鳴海御小休茶代棒頭取計 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第40宿 鳴海宿
一、前郷御小休茶代右同断
一、池鯉鮒御昼休ニ付南鐐一片被下候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第39宿 池鯉鮒宿
右同所ニ而人馬目附出ル 御簾引候ニ付拙者よりも及挨拶候 御先拂足軽両人出ル
一、大浜御小休茶代棒頭より相渡ス
右同所ニ而蕎麦切献上仕候ニ付南鐐一片銀一両被下候也
一、岡崎御本陣江夕七ツ時前御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第38宿 岡崎宿
二十七日目
十月十一日 晴
一、御定刻御供揃ニ而岡崎御本陣御出立被遊候
一、藤川御小休角屋佐七宅ニ而御菓子山芋差上候ニ付 銀壱両被下茶代南鐐一片棒頭方より遣候也 已後差上物等堅仕不申候様申付候 茶代斗ニ候得ハ南鐐一片ニ而
相済候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第37宿 藤川宿
一、宝蔵寺御小休茶代棒頭取計
一、安対馬守様より幸村御通行之節御馳走役被差出候 村中御先拂札之通出ル
一、赤坂御小休茶代棒頭取計 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第36宿 赤坂宿
一、稲村良香散御昼休ニ付南鐐一片被下候 (35宿 御油宿・・・?)
一、吉田御小休茶代棒頭取計 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第34宿 吉田宿
一、二川御小休茶代右同断 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第33宿 二川宿
一、白須賀御本陣江暮六ツ時前御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第32宿 白須賀宿
一、御供中髪月代触御供頭江相達候也
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二十五日目 四日市宿→桑名宿→(七里の渡し)→宮宿(熱田宿)
十月九日 晴
一、御定刻御供揃ニ而四日市御本陣御出立被遊候
一、富田御小休茶代棒頭取計
一、おうけ御小休茶代右同断
一、桑名丹波善九右衛門方江四ツ時過頃御着被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第42宿 桑名宿
彼是善九右衛門御世話申上御肴ふな五ツ差上旁金弐百疋被下候 此度は御領主御代代りニ付而御世話申上候ニ付 会所より別段金百疋被下候ニ付 御肴差上申候而も別段被
下候銀は相止メ申候也
一、松平越中守(桑名藩主・松平定敬)様御船奉行 杉村仙蔵
右御本陣江被罷出此度御船江差出候役人共皆不案内者ニ御座候間心ヲ付呉候様ニとの義二而被罷出候 程能及挨拶候也
一、御船頭 種橋恵左衛門
右船頭ニ乗組宮迄罷越候ニ付 乗船之時分為知呉候様ニとの事ニ而御本陣江罷出候 善九右衛門裏手より御乗船被遊其所江右御船頭罷出居候ニ付 御はねより御披露仕御
会釈被遊候間 拙者よりも挨拶候 宮江御上筋も同断也
一、桑名御出船之節御船奉行御通筋江被罷出候時宜有之候ニ付 御供頭より扇子ヲ揚申候也
右之外ニ御船改役御船場目附人馬目附等名札指出候
(桑名宿→七里の渡し→宮宿)
現在の位置関係
天保12年に熊本藩家老松井章之(細川家家臣であると共に、徳川家からも扶持を与えられている)が参勤した記録「参府日記」みよると、
「朝六ツ半(7時)時分桑名本陣裏より乗船にて、昼九ツ半(13時)時分宮へ着船」とある。約6時間を要する船旅であったことが判る。
一、御船中汐合風も宜敷宮江七ツ時前御着船被遊直ニ御上陸ニ而宮御本陣江御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・東海道五十三次・第41宿 宮宿(熱田宿)
一、桑名御乗船之節士席以上蹈込ニ而御供仕御上陸之節も同断御召船江乗組御家老衆拙者御近習片番御医師御台子掛御鑓持草り取乗組候也
一、桑名本陣ニ而壱人前七拾綱ツゝニ而自分仕度仕候事
一、尾張様(徳川 斉荘)御使者 川村小三郎
右口上一通御直答被被遊候筈ニ候得共 只今御髪月代被遊候振ニ申述拙者より御相応ニ御返答申述候 御使遠方被参候ニ付 認メニ而も指出可申候得共 旅宿ニ而其儀難相
成段相断り御目録金弐百疋被下候 右御礼之御使は旅宿江拙者相勤候筈之処 本陣門前ニ而取次被申旅へ相勤候ニ及不申候段被申聞候ニ付相頼引取申候也
但此儀本陣森田八郎右衛門取計ニ而右之通相済候也
熊本県立美術館・細川コレクション 「第Ⅳ期<特集 >細川宏子-幕末維新期を生きたお姫さま-」展 2015年1月8日(木)~2015年3月22日(日)
この像は松本喜三郎と並ぶ熊本が生んだ生き人形師安本亀八が、晩年(1890年)に制作した細川護久公夫人「細川宏子像」である。私はこの像をまだ直接拝見したことがない。
お写真でお見受けするやや頬骨の高い感じが見事に表現されているが、お幾つ頃のお姿であろうか。
今般出展されるのか?大変楽しみにしている。
大変絵が御上手で御実家の鍋島家には娘・一条悦子と共に筆を執った『猪図』が残されており今回展示されるようだが、永青文庫には以下のような作品も残されているという。こちらも拝見したいものだが如何だろうか。
46 | 応神天皇誕生図 Birth of Emperor Oujin |
細川宏子筆 | 明治時代 |
47 | 仁徳天皇高き屋図 Emperor Nintoku looking from the height |
細川宏子筆 | 明治時代 |
旧東海道地図 Googleマップ 地図をたどりながらご覧ください。
二十二日目 (伏見→観音寺→大津追分→石場→草津)
十月六日 晴
一、御定刻御供揃ニ而伏見御出立被遊候
一、上御道中御供揃御定刻七ツ時ト被仰付候
一、観音寺御小休茶代棒頭取計
一、大津追分御小休茶代右同断
一、石場御昼休ニ付茶代南鐐一片被下候
一、草津本陣江七ツ半時御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東海道五十三次・第52番の宿場 草津宿
草津本陣跡 草津宿--東海道と中山道が出会うまち
二十三日目 (草津→田川→石部→水口→松尾→猪ノ鼻→坂ノ下)
十月七日 晴
一、今晩八ツ時分御供揃ニ而草津本陣御出立被遊候
一、和中散是斉(ゼサイ)宅江御小休和中散大包弐包テ菓子等差上燭台抔所々差出候ニ付百疋被下候
一、田川御小休茶代棒頭取計
一、石部小休茶代右同断 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東海道五十三次・第51番の宿場 石部宿
一、水口御昼休ニ付南鐐一片被下候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東海道五十三次・第50番の宿場 水口宿
一、大野御小休茶代棒頭取計
一、右御小休場江土山金兵衛罷出例之通茶壱箱山芋壱苞差上申候 御目見之儀相願候得共 少々御不例ニも被為在候ニ付 御目見不被仰付候 水口町内ニ罷出居候ニ付
辻御目見は有之夫より土山宿外迄御先立仕候 定例金弐百疋被下候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東海道五十三次・第49番の宿場 土山宿
一、松尾御小休茶代棒頭取計
一、猪ノ鼻御小休茶代棒頭取計
一、坂ノ下御本陣江夕七ツ時頃御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東海道五十三次・第48番の宿場 坂下宿
二十四日目 (坂下→関→亀山→庄野→杖突→追分→四日市)
十月八日 晴
一、御定刻御供揃ニ而坂下御本陣御出立被遊候
一、関御小休茶代棒頭取計 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東海道五十三次・第47番の宿場 関宿
一、亀山御小休茶代右同断 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東海道五十三次・第46番の宿場 亀山宿
右同所町内御先拂出ル 御番所下座有之候也
一、庄野御昼休ニ付南鐐一片被下候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東海道五十三次・第45番の宿場 庄野宿
一、杖突御小休茶代棒頭取計 (杖衝坂)
一、追分御小休茶代右同断
一、四日市御本陣江夕七ツ時頃御着座被遊候 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東海道五十三次・第44番の宿場 四日市宿
【衣服の制】
(宝暦)五年乙亥群臣ヲ集テ衣服ノ制ヲ令ス 士以上表紬若クハ木綿裏ハ帛ヲ許ス 其以下ハ表裏トモニフ布木綿婦人モ概子之ニ准ス 然共急迫ニシテ事ニ害アラン事ヲ恐レ三年ヲ竢テ後制ノ如クセシム 但シ十歳以下七十歳以上及ヒ僧醫ハ此ノ限ニアラス