津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■メモ・熊本の飢饉に関する記録・1

2017-05-13 10:56:23 | memo

 延宝九年(1681・元和改元)の九州筋巡見使、奥田八郎右衛門の報告書「九州土地大概」には、「餓死数万人」と記録されている。
実際熊本に入ったのは八月の事である。薩摩を廻り日向から南郷高森に再度入国、南関から出国している。
我が家の二代目・太左衛門が道案内を勤めた■天和二年の九州巡見使

            城下熊本              細川越中守(綱利)
         立賢無法、伊尹太公望皆然、肥州山鹿処士槇田安右衛門蓬窓ノウチヨリ出、郡司ヲ勤ルニ貢税重シ。
         斂不知恤民、故ニ田畑九納一ツヲ私田ニ遣ス、亦課役ヲカクルニ不計暇日、口米銀水夫銀ト号シ取
         納。納米タラサル者ハ出来銀ト云テ四壁竹木農具押ヘテ取納。然時、不得力農畝尽。旧年当春至テ、
         餓死数万人、可憐。父母凍餓、兄弟妻子離散。其国与民同利、不設禁。当時安右衛門以嬖幸進、以
         一人誤千万人ナリ。城下海近。後高山。左右大河。有畑鱗易求。侍屋舗町ニ至ルマテ、樹木暢茂。
         土地善トイへトモ、国政悪、民大ニオヨフ。

巡見使奥田八郎右衛門の報告は大変辛らつだが、また真実であったのだろう。




 

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■ 長崎大学コレクション① 明治七年の古写真集  長崎・熊本・鹿児島 新着

2017-05-13 09:47:19 | 熊本地震

                   長崎大学コレクション① 明治七年の古写真集  長崎・熊本・鹿児島

        

                       長崎大学コレクション① 明治七年の古写真集  長崎・熊本・鹿児島

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■松寿庵先生・第236講

2017-05-12 12:43:49 | 史料

                           桑名市立中央図書館 『桑名日記』と『柏崎日記』

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■明日(?)の地震

2017-05-12 12:11:38 | 熊本地震

昨日の晩(20:20)震度4の地震があり、今日も今程(11:50)震度2の地震があった。
実は5月13日に福岡市や北九州市あたりで大規模な地震が発生すると予知をしている地震学者がいる。
立命館大学・歴史都市防災研究所の高橋学という教授だが、この方が何度か予知したものが的中しているという。
         http://www.jprime.jp/articles/-/9635
大変難しいといわれる予知情報を積極的に発しておられる。
13日といえば明日のことなのだが、福岡県人の皆様はどう思っておられるのか。
用心するに越したことはないが。

昨日今日の熊本の地震との関連をどう評価されるのか、今後のコメントが興味深い。
少々の揺れには慣れっこになっているが、昨晩は棚の物が倒れてちょっとびっくりしてしまった。

 

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■御恵贈御礼「美濃源氏土岐氏研究講座」「武家文化歴史回廊講座」講義録

2017-05-11 10:01:35 | 史料

 明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊」信長の大戦略―桶狭間の戦いと想定外の創出」、織田・徳川同盟と王権―明智光秀の乱をめぐって」等の著者であられる小林正信先生から御恵贈賜った。誠にありがたく深く御礼を申し上げる。この講義録は「美濃源氏フォーラム事務局」が発刊されたものだが、美濃源氏フォーラムは多くの会員を有し、活発な活動を展開しておられる。まことに羨ましい限りだが、小林先生もたびたび講演をされており当然ながらこの講演録にも掲載されている。

先生とのお付き合いは同フォーラムのH氏のご紹介で始まった。熊本にあるささやかな史料をお送りし、その後事あるごとに御著や論考等をお送りいただいている。市井に身を置く一介の歴史好き爺には過ぎたるご厚誼をいただき、薄っぺらな勉強が恥ずかしく思える。

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■凶荒図録

2017-05-10 11:17:47 | オークション

   

   飢饉・飢餓の食糧危機に備える「凶荒図録」巻末に「救荒草木一覧」が収録、小田切春江編集・木村金秋絵。愛知同好社刊・和本.尾張名古屋

 

                   飢饉・飢餓の食糧危機に備える「凶荒図録」巻末に「救荒草木一覧」が収録、小田切春江編集・木村金秋絵。愛知同好社刊・和本.尾張名古屋

 今度の史談会ではO家の新出文書を取り上げることにしている。「天明飢饉の際の御救い米」に関するものらしい。
月曜日には図書館に出かけ、熊本における天明飢饉に関する史料を見つけたが、これが意外に少ない事が判った。司書の方のお手を煩わせたが、死者が出ていないことで重賢公の善政と解されているのか・・・・・
これが天保の飢饉になると、八代古文書の会の蓑田勝彦先生の論考が会報(73~76)に紹介されている。
       73 天保飢饉と熊本藩-その1・阿蘇地方の飢饉-
       74 天保の飢饉と熊本藩-矢部地方(その1)-
       75 天保の飢饉と熊本藩-矢部地方(その2)-
       76 天保の飢饉と熊本藩(その4)-菊池郡・合志郡-
       77 天保の飢饉と熊本藩-その5-
又「史叢」には徳丸達也氏の論考「天保の大飢饉ー何を食うたか 〈史料紹介・天保年間凶年困窮の手鑑〉」があった。この手鑑は小国町下城の若宮神社がの所蔵だそうだが、種々の植物とその料理法が説明されている。

いろいろ調べていたら「凶荒図録」という文書がありその中に「救荒草木一覧」が紹介されており、「天保年間凶年困窮の手鑑」に通ずるものがある。凶荒図録 - 近代書誌・近代画像データベース 詳細画面

インターネットで何気に「凶荒図録」で検索したらヤフオクに出品されていた。・・・・・が何とも高い。ため息をついてお終い。

 

 

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■下座見カルタ

2017-05-09 10:03:09 | 歴史

                   

 最近「下座見カルタ」なるものが存在することを知った。江戸城には36の城門があるのだそうだが、大手門・桜田門・西の丸大手門には下座見という役職があった。大名家や幕臣などの登城の際、これらの門はごった返したというが、下座見はその「紋所や鑓、籠待ちの着ている法被の印」などを暗記して、相応の儀礼で対応するとともに登・下城が混乱なく行われるよう勤めたという。その必需品が「武鑑」であった。
また勤番侍は物珍しく「武鑑」を懐中にして行きかう大名・幕臣の行列を見物したという。「桜田門外の変」の際の水戸浪士も「下座見の躰」で武鑑を眺めながら行列を待ったされる。
さてこの「下座見カルタ」は絵札には家紋が記され鑓の形や本数などが書かれており、読み札(?)みあたるものには、国名・藩主名・禄高等が書かれているようだ。これが下座見の人たちが勉強のために使ったのか?、民間にカルタとして流布していたのかはよくわからない。
藤実久美子氏著「武鑑出版と近世社会」に詳しいようだが、古書が何とも高く思案の最中である。

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■竹原家の祖

2017-05-08 07:23:41 | 歴史

一昨日の「流鏑馬」(松寿庵先生・第235講で紹介された竹原家について触れてみたい。

竹原家は阿蘇氏の庶流である。阿蘇神社の西2キロほどに竹原という集落があり、この地を出自としたのだろう。
今でも阿蘇地域には竹原姓の方が見受けられる。

細川家家臣・竹原家の祖・竹原市蔵(後・少左衛門、墨斎玄可)は幼少期、阿蘇家の大宮司職をめぐる内紛により主・阿蘇惟賢に付、父と共に薩摩に逃れ島津氏に仕えた。
阿蘇を出でて心ならずも薩摩に赴いた竹原氏が、嶋津氏の許を訪れていた幽齋公に出会ったことが運命的であり、又細川家の移封により豊前へ肥後へと古里へ近づけた。

 家祖・市蔵について綿考輯録は次のように記している。
  藤孝君、文禄四年(1595)六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、(中略)御逗留の中、(島津)龍伯・義
  弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日連歌御興行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其
  意に応し竹原市蔵とて九歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に叶ひ頻に御所望にて被召連、御帰洛被成候
又別に
  幽齋君丹後へ被召連、慶長元年(1596)正月御児小性被召出、知行百石被下、後に庄左衛門と改候、三齋君百五十石の御加増被下、御伽
  に被仰付候、能書なるを以、幽齋君御代筆被仰付、書礼の事、故実をも御伝へ被成、呼松斎へ御相伝の御取次并写本等も仕り、一色一遊
  齋へも仕付方の弟子に被仰付候、三齋君よりも御口授等被遊、御両君御卒去以後も猶稽古不相止、隠居名を墨斎玄可と云

隠居名の墨斎玄可は薩摩で仕えた旧主・阿蘇惟賢の黒斎玄与に因んだものではないだろうか。
黒斎玄与は、薩摩の坊津に配流されていた近衛信輔が京都に帰るにあたって随伴しているが、その折の事を「玄与日記」として残している。

     (1)庄左衛門・墨斎玄可 (2)少左衛門  (3)         (4)      (5)         (6)
         市蔵惟成---金左衛門---+---少(庄)左衛門)---甚十郎惟秋---市蔵惟重(惟清)---勘十郎
                     分家・初代
                   +---清太夫惟永 

六代勘十郎は細川重賢の用人を勤め、堀平太左衛門を重賢に推挙、この人物が大奉行・家老となり「宝暦の改革」を成し遂げた。
影の立役者である。そのご子孫が現在、武田流流鏑馬の家元として活躍されている。 

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■ニ豊小藩物語

2017-05-07 14:01:48 | 書籍・読書

                      

 最近オークションで手に入れた。上巻は昭和50年10月、下巻は51年6月、大分合同新聞社の発刊である。
かっては大友氏が君臨した豊後の国も、島津氏の侵攻を抑えきれずに秀吉の九州平定の大業を頼み何とかその地位を継承した。

しかし宗麟亡き後は文禄の役における嫡子・吉統の不手際により没収され、役後恩賞の地として七つに分けられた。慶長五年の石垣原の戦いにおいて吉統は復活の機会を与えられたものの、黒田・細川連合軍に敗北する。大名大友氏は滅亡し、その後も関ケ原の結果などを受けて入れ替わりもあり、また肥後・延岡・島原の分領や天領の日田その他幕臣の領地などが入り乱れた。
総高42万石ともいわれる豊後の国だが、小藩分立は明治に至る迄つづき、県民性にも影響を及ぼしているとされる。
細川家とかかわりの深い大名もいくつかあり、少々勉強をしたいと思い読み始めたがが興味は尽きない。


                参考     豊後の国「小藩分立」マップと解説


 

 

幕末段階において、県下の支配形態は8藩7領であった。その城地と領主 領知高(朱印高)を整理しておくと、中津( 奥平氏 10万石)、杵築( 能見松平氏 3.2万石)、 日出(ひじ)( 木下氏 2.5万石)、府内( 大給松平氏 2.12万石)、森( 久留島氏 1.25万石)、臼杵( 稲葉氏 5万石余)、佐伯( 毛利氏 2万石)、岡( 中川氏 7万石)の大分県下に城地をもつ8藩と、他国に城地をもち大分県下に 陣屋 などを置いた 島原藩領( 深溝・ふこうず 松平氏 高田 2.75万石余) 延岡藩領( 内藤氏 千歳・せんざい 2.06万石) 熊本藩領(細川氏 鶴崎 2.1万石余)という他国領がある。
他に、かつての中津藩主小笠原氏の一族で、元禄12年(1699)から宇佐郡時枝村(宇佐市)に陣屋を置いた 旗本 小笠原氏(0.5万石)、寛永19年(1642)日出藩木下氏から分家し速見郡立石(山香町)に陣屋を置いた旗本木下氏(0.5万石)、正保3年(1646)に幕府から寄進された 宇佐宮(0.1万石)という領地もあった。
さらに、分知領 として 杵築藩 分知(0.3万石)、 府内藩 分知(0.15万石)、 森藩 分知(0.1万石)があり、当主は旗本に列せられていた。
そして、九州の幕府領支配の中心として幕末期には九州7か国で16万5,000石を管轄していた西国筋郡代役所の直支配地、島原藩 佐伯藩 預け地が9万4,000石余あった。まさに「 小藩分立 」である。
こうした諸藩領の領地も一円的に存在しているのではなく、あたかも犬の牙のように入り乱れていることから「犬牙 錯綜(さくそう)」と表現される。こうした、所領の存在形態が、各藩の城下町経営を困難にさせる一因でもあった。
                                           (「obs歴史事典」より)



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■松寿庵先生・第235講

2017-05-06 12:16:27 | 史料
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■九州御動座記(ニ・2)還御

2017-05-06 07:11:13 | 史料

六月七日
一筑前国箱崎迄被成御帰坐候
  但此所ニ数日御逗留被成日向口へ被指向候毛利家其外諸軍勢被為洩付候。其中ニ立花左衛門尉ニ御渡候事。立花
  の要害ハ博田より三里在之。右の箱崎御逗留之中ニ毛利右馬頭有帰陣。御礼被申上候而御供ニ而七月二日ニ関戸 
  迄還御候。翌日三日ハ御休息ニ而毛利殿御成ヲ被申上山海珍物難筆尽候。重代の御太刀幷御馬以下数ヲつくし進
  上被申候。従上様御馬・太刀其外ニ御身ヲ不被数小長光光忠と云御秘蔵之御腰物被下候間毛利家衆流感涙候事此
  時ニ候。殊更小早川ニハ筑前・筑後両国を被宛行候。今迄の中国其儘無相違候。毛利忝かり候事尤ことはりに候
七月十日
一備前岡山まて還御なり
  但此所姫君様御迎ニ御坐候而種々様々の御馳走ニ付而中一日御逗留。同十二日ニ夜通ニ片上まて御還御候て其よ
  り御舟ニ被召同十四日巳尅ニ至大坂御帰坐候。上下万民ノ喜悦不可勝計候。海陸共ニ御迎の舟車立鳥も足を可休
  やう無之候。中々御推量ニ而御合点不可参候間不能具候。然者来廿五六日ニ可為御上洛の由候。聚楽へ御屋敷ニ
  候。京中の貴賤門前ニ市をなすへき事案ニ中候
  右是迄ハ上様御上下の次第及見候通如此候。又豊後口より日向表ヘハ中納言殿御働候。其次第ハ相隔遠境ニ而様
  子不慥候。不及書験候
一上様と中納言様二手ニ御手遣候。上様ハ豊前より筑前・筑後・肥後・薩摩へ御乱入候
一中納言殿ハ豊前より豊後・日向・大隅・薩摩と御働候。日向口指向たる儀ニ付而先中納言殿の口へ修理大夫を始各
 馳向数箇度の一戦在之由候。彼等随分相支候処ニ上様中筋より御動坐の由承驚候て俄降参申之由候
一上様守護武士ニ而  
 丹波少将殿(羽柴秀勝)   丹後侍従殿(細川忠興)
 松嶋侍従殿(蒲生氏郷)   岐阜侍従殿(池田輝政)
 曽根侍従殿(稲葉典通)   若狭侍従殿(丹波長重)
 北庄侍従殿(堀 秀政)   東郷侍従殿(長谷川秀一)
 出羽守侍従殿        陸奥守侍従殿(佐々成政)
 越中侍従殿(前田利長)   木村常陸介殿(木村重茲)
  此外ニ二万石・三万石なミの顔ハ数を不知候間、名字ヲしるすニ不及候。五百千の人数侍ハ前備・後備とて御馬
  廻同前候事
   合拾万余騎       (義統)     (輝元)     (宇喜多秀家)             (継潤)
一中納言様ニ相随候武士ニて大友左兵衛佐を始毛利右馬頭方・備前少将殿・伊賀侍従殿・宮部善浄坊法印・黒田
  (孝高)    (家正)              (南条元続)
 官兵衛尉・蜂須賀阿波守・後藤左衛門大夫・伯耆南条。此外少々衆ハ数ニもあらす不及各験候
   合拾五万余騎
 都合ニ拾五万騎
 右雑兵共丗万騎ニ余候。然処ニ御動坐より還御迄一日片時も無懈怠御兵糧渡被下候儀先代ニ無其例。末代猶以難有
 題目也。心有者舌を巻候。以上


    御在陣中ニ各進上物 (略す)


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■九州御動座記(三)九州御国分の次第

2017-05-05 11:39:24 | 史料

九州御国分の次第

一筑前・筑後両国をハ小早川左衛門尉ニ被宛行候事
一豊後一国をハ大友左兵衛佐ニ宛行候事
一薩摩・大隅両国をハ嶋津父子ニ被宛行候事。其上ニ日向の内一郡伊集院ニ被下候。是ハ今度主の命為可助捨一身中
 納言殿御陣取へ走入たる心中をかんじ被思召。一郡右衛門大夫ニ御扶助の事
一日向ノ中ニ而又一郡伊藤屋形ニ被下候。残部ニハ御代官を被仰付候事
一肥後国をハ佐々陸奥守ニ被宛行候事
一肥前国をハ竜造寺ニ宛行候事
一豊前国をハ三分ニ黒田官兵衛、三分一森壱岐守ニ被宛行候事
 右九か国の目録大方如。但先方の侍共其々忠節の者二ハ加増ヲ被仰付其国ニ御朱印ニ而立被為置候也
一壱岐国・対馬国そのまゝ居城ニ本主ニ被下候。かうらい・唐土へ舟通用可被仰付と相聞候。後戸(五島)・平戸も
 本主ニ被下候キ
一最前便風候てそと申越候へ共定而相届間敷候。今度伴天連等能自分と思候て種々様々の宝物を山と積弥一宗繁盛廻
 計略既後戸・平戸・長崎なとゝてなんばん舟付毎ニ充満シテ其国の国王をかたふけ諸宗を我邪法ニ引入、それのミ
 ならす日本仁を数百男女によらず黒舟へかい取、手足ニ鉄のくさりを付舟底へ追入、地獄の呵責ニもすくれ其上牛 
 馬をかい取生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上、今世より畜生道有様目前の様ニ相 
 聞候。見るを見まねニ其近所の日本仁何も其姿を学、子をうり親をうり妻女をうり候由つく/\被及聞召、右之一
 宗若御許容あらハ、惣日本外道の法ニ可成事案中候。然者仏法も王法も可相捨事を嘆被思召忝も大慈大悲被回御思
 慮候て既ニ伴天連の坊主本道追払の由被仰出候。就其ては高山右近亮元来被宗旨を其身信曔のミならす、主分領の
 僧俗理不尽ニ右之宗門ニなし候事被聞召候て俗弟子ノ手かたニ彼右近亮御分国被成御払候。弥仏法・王法繁盛天下
 静謐の基不可過之候
一筑紫九ケ国の事ハ不及申候。唐土・かうらい堺の嶋々よりも無残所忝実子を男女によらす人質ヲあけ申。人ニより
 上方へ被召具も有。又相よりしだい肥後国・筑前・筑後ニ残し被為置も在之。誠かんなけつりの上をとくさミがき
 ニて候
一かうらい国へも被仰遣意趣ハ日本王宮へ来年中ニ御対面なされ候やうにとの被仰様ニ候。不入儀ニ候へとも後代名
 をのこさるへきとの御事候。対馬国主勿論別儀有間敷候間、明年ハかうらいの王を供奉可被申之由候。今迄対馬の
 屋形ニしたカハれ候間明年必定日本地へ可有御渡事案中候
一今度じやかうというもの二ツいきなから平戸より進上。又明年ハざうを日本へ渡したるためし無之候間可進之由か
 うらいへ被仰遣候
一伴天連此近年おり/\進上物を仕候しを無御忘候て彼坊主帰国用意可仕之由候て八木壱万俵被下候。猶以奇特成御
 遠慮無申計候。此一巻次而とて龍善寺・妙法寺へ被懸御目候て可給候。初中後をよく/\不見分ハ合点参間敷候。
 此書物不失候様ニ貴慮へ可被置候。以上
    七月日                                 大拝

                        (了) 
 

 

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■今日そして一年前

2017-05-04 21:01:22 | 徒然

 ここ三日ほど気温が上がってだるくて仕方がない。(28~26℃)午後には熊本市立図書館で借りた期限がせまった本を返却に出かける。
長そでシャツの袖口からのぞいた手の甲が日焼けしてしまった。帰ってからTV報道で地震があったことを知る。震度3(美里町4)だったそうだが自転車の走行中でもあったのか、全く気が付かなかった。まだ地下になまずが健在である。

一年前のブログを見てみたら、市営住宅の抽選があって見事落選していた。
その後奥方が奔走して、不動産屋さんに電話をかけまくり現在のMにありついた。
齢を重ねると時の経過が早すぎて、地震の記憶も薄れつつあるのが怖い。しかしまだ震度3程度の地震が時折発生すると、まだまだ不安がある。
最近の発表では6程度の地震を発生させる空白地帯があるのだという。もう願い下げにお願いしたい。

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■九州御動座記(ニ・1)

2017-05-04 09:35:44 | 史料

廿八日 九州之内 赤間関より海上 舟付
一豊前小倉迄      三里
廿九日
一同国馬之嶽      七里
  但中一日御逗留、此馬ノだけは長野と云侍数年相踏たる山城也。二千計の人数持也。
  去年より無二ニ御味方申仁也
四月朔日        
一同国巌石ノ麓迄    六里 
  此がんじゃく無隠名城也。高山ニ而つづく山なし。然を蒲生飛騨守・前田孫四郎両人として被申請。 
  是非共両人ニ城責の儀被仰付候様ニと達而被申、先陳を給候て被押詰候へ共節(ママ)所の事に候へは無左右乗破難き
  処ニ、上様右之山の麓迄陳かへニ而助勢ニ丹波少将をさし被加候。以其競御陣替之日四月朔日ニ落城。丈夫ニ難相支
  候御馬之前之事ニ候ヘハ四方より乗込大将を始一人も不残被討果候。此城ハ筑前の国主ニ秋月と云者の取出也
           
(参考)綿考輯録にみる秀吉の九州平定・1
二日
一筑前尾熊       四里
  此所ニ中一日御逗留中ニ筑前ノ国主秋月居城を浅野弾正・森壱岐守ニ相渡候てかしらをそり、父子共ニ御礼ニ罷出候。
  此秋月と云者、筑前一国と筑後半国・豊前半国ノ屋形と被仰候て、今迄廿一代世をたもちたる侍也。秋月云所非海道、
  山中節所ニて旅人なとの通用稀ニ而、他国ヘハ其名の不聞者也。秋月ハ在名則古所と名を付候。家数数多なる所也。
  数千間何レもをたゝ敷体也
四日         山路也
一同国秋月迄      四里
  但中五日御休息ニ而咲へ兵糧の調儀なと被仰付候。爰ニ而秋月息女十六ニなる人質ニあけ、其上ニ日本ニ無其隠なら
  しばと云かたつき金百両・八木弐千石進上申候得。彼秋月事ハ今迄相構表裏立身ノ者ニ候間、命をたすけさせられ候
  上ニハ何を進上申候ても御不足ニ思召事候
一筑後高良山迄     六里
  但此所へ肥前国主竜造寺と云仁御礼申上候。此竜造寺ハ肥前一国と筑前半国の主也。元来嶋津親の敵ニ意趣雖在之時
  の権に随候而、近来ハ属嶋津ニ候へども去年御味方申上無二ノ者をかんじ被思召候て、九州御国分の時も肥前一国御
  扶助候、九州ニ而第一の大国也
十一日
一肥前南関迄      八里
  但中一日御休息
十三日          舟入
一同国高瀬迄      五里
  但此所ニ舟渡有。大雨降て中二日御逗留被成候
十六日
一同国隈本迄      六里
  但此所は肥後国ノ府中也。城十郎太郎と云者相踏候。数年相拵たる名城也。五千計の大将さしも嶋津一方のかためを
  為頼侍といへとも就御動坐無一支居成ニ降参申証人ヲ出御味方参候。爰ニ中一日御休息候事
十八日
一同国隈庄迄      六里
十九日          舟付へ一里
一同国八代       八里
  但此地ハやつしろとて無隠名城也。瓦崎舟ニ八ツ城を拵候所也。嶋津身二かハらさる者数千人入置雖相防恐御動座無
  一支敗北候。先鋒追懸数多追討ニ申付候。此所ニ中四日御逗留被成候事
廿四日
一同国田ノ浦迄     五里
廿五日          舟付
一同国佐敷迄      三里
廿六日          舟付
一同国水又(ミナマタ)迄  六里
廿七日
一薩摩出水迄      四里
  但此所ハ無隠名城ニ而嶋津名字惣領ニ薩摩守と云侍相抱候。五千ノ大将・数千間家数在之大庄也。就御動坐無一支人
  質ニ実子ヲ奉候て降参申候事。爰ニ中二日御休息也
五月朔日
一同国あくね迄     六里
二日
一同国高城(タキ)迄   六里
三日           舟入
一同国大平寺迄     壱里
  但此所より嶋津居住鹿児嶋までハ相隔十里余たる。既可被寄御坐之由候処ニ日向口中納言殿(秀長)へ嶋津降参之御
  詫言として家老ニ伊集院右衛門大夫走入ニ付而中納言殿より嶋津命ノ御懇望ニ付而鹿児嶋へ之被止御動坐候。就ては
  同八日ニ嶋津修理大夫義久かしらをそり出仕申。家老共四五人同黒衣ノ姿ニ而御礼申上候。猶証人ニ実子十六ニ成息
  女出候事。是より可為御帰坐ヲ今少山際なとニ構節所嶋津にも不随就在之被成御坐候事。
  爰ニ中十四日被成御逗留候也
          
参考 綿考輯録にみる秀吉の九州平定・3
十八日
一同国平佐迄      壱里
  但雨降。中一日御逗留被成候
廿日
一同国山崎迄      六里
  但雨降。中一日御逗留被成候
廿二日
一同国鶴田迄      四里
  但爰ニ中三日御逗留。此所ニ而嶋津修理大夫弟兵庫頭御礼申上候。此兵庫ハ修理弟なから五三年以前より家をゆつり
  候。是も義久男子無之故義久同前ニ大平寺ニ而御礼可申上之処ニ中納言殿と上様二手ニ御働被成候て日向口を相防候
  故延引申鶴田ニ而出仕候。剋兵庫惣領十五ニ成男子人質ニ出候事
          
参考 綿考輯録にみる秀吉の九州平定 4・了
廿六日
一大隅曾木迄      四里
  此所ニ而新納武蔵守出仕申候。継而御礼申上之処ニ無事ノ果口を不知候事を義久、伊集院ニ不足ニ付而嶋津落著の後
  まで御敵を申候キ。嶋津家老と申なから武者の覚、又人数持候て千石権兵衛尉討負候時武蔵守先陣と相聞候。
  此所より還御なり
    以上百九里也
   都合二百四拾六里
  右是迄御道行分也。何も丗六町積ニ書付候。筑紫の内ハ五拾町壱里ニ候。引合算用候ヘハ勿論三百里ニ余候。右之曾
  木より還御也。道ハ前の道ニ而候間次第不能具候
        
  

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■九州御動座記(一)

2017-05-03 10:37:47 | 史料

 天正十五年三月至七月 九州御動座記

大坂ヨリ
三月朔日九州表へ御動座道之次第
三月一日      舟付
一津国兵庫迄
二日        舟付
一播磨明石迄   五里
三日        舟付二里 
一同国姫路迄   九里
四日
一同国あかふ迄  七里
五日        舟付
一備前片上迄   六里
  但此所ニ中四日御休息也   (誤記か誤植か不明)
六日        舟入(ママ)
一同国岡山迄   八里 
  但此所ニ中四日御休息也
十一日
一備中なか山迄  八里
十二日
一備中赤坂迄   八里
  但此所へ公方様御出候て御太刀折紙にて御礼を被仰候。御酒上ニ互ニ銘作の御腰物被為参候。
  則公方様も赤坂之近所也。備後ノともの浦へ三里在之
十三日       舟付
一同国三原迄  
  但中一日御休息
十五日
一安芸四日市迄  八里
十六日       舟付
一同国かい田迄  六里
(十七日・欠ヵ)  舟付
一同国廿日市迄  六里
  但中一日有御逗留、いつく嶋へ被成御参詣。種々御慰御歌なと被遊候て当社大破ノ体被成御覧候て八木五千石当座ニ御寄進
十九日
一周防国永興寺迄 七里
廿日
一同国呼(エビ)坂迄 六里
廿一日       舟付
一富田市迄    七里
廿二日
一同国苻中迄   九里
廿三日
一長門中山迄   八里
廿四日       舟付
一同国はぶ迄   七里
廿五日       舟付
 同国赤間関迄  六里
  但中二日御逗留。此処を関戸とも云。是より渡海ニて筑紫地へ被為渡候也
  以上百丗七里。是ハ丗六町の道積。但備後赤坂より周防永興寺まてハ四十八町道也
          

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