津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■神足家の家紋

2017-05-23 06:39:27 | 家紋

細川藩士・神足氏の差物附による家紋。本家をおもんばかってか若干アレンジされている。

細川家の根本家臣の一人である神足家の分家筋・神足勘十郎家の6代目で200石、天保五年五月~天保六年二月にかけて玉名郡郡代(山本山鹿郡助勤、兼)を勤めた。
遠祖掃部は、天正元年信長の坂本攻めに際し「此時藤公君御身上之事何れも気遺、青竜寺の御城
      騒申二付、(中略)二の丸の事無覚束と申候処、神足掃部罷出、私に被仰付候様ニ
      と申、早速地下人共呼集二の丸堅め候 (中略) 掃部忠節御感被成候」
                                   (綿孝輯録・巻二)
                

家紋■ 神足氏(武家家伝ー西岡被官衆より)


 神足氏は天武天皇の皇子長親王の後裔という。すなわち、長親王の子栗栖王の子光丸が神足を名乗ったことに始まるという。その真偽は不詳というしかないが、建武四年(1337)に神足信朝(信友)が足利直義の警固役として登場する。そして、十四世紀末には小塩庄の下司職は神足氏が世襲するとことなっていた。かくして神足を本拠として勢力を拡大した神足氏は、室町時代には幕府の御家人に取りたてらていた。その後、神足氏は細川氏の被官となり、応仁の乱には孫左衛門尉友善が活躍した。                                            
 乱後、西岡被官衆はそれぞれの立場を越えて地域としての連帯を強めていった。そして、長享元年(1487)の書状から、孫左衛門尉友善は鶏冠井・小野・竹田・物集女・平氏らとともに西岡被官衆の指導者的立場にあったことがうかがわれる。戦国期になると神足氏は神足城を本拠に、小塩荘をはじめ高畠・大岡荘、勝龍寺領、西岡新馬場跡などに支配を及ぼしていた。
 十六世紀、細川管領家の内訌に神足氏も翻弄され、神足城を攻撃されることもあった。しかし、よく勢力を維持して乱世を生き抜いた。永禄十一年(1568)、織田信長が上洛し細川藤孝が勝龍寺城に入部してくると、神足氏は細川氏に従った。元亀四年1573)の勝龍寺騒動のとき、神足掃部は二の丸の守備に任じた。天正八年(1580)、丹後に転封となった藤孝から同道を求められた掃部は、子供たちを出仕させみずからは西岡の地にとどまった。

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■メモ・熊本の飢饉に関する記録・5 ー(1)(2)

2017-05-22 10:02:24 | 史料

 熊本県史料集成・10「肥後藩の農民生活」の「第四節・ききんどし」から今回は(1)(2)をご紹介する。
     
1、1732年のききん       (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
    去る子年之夏請米、大凶作にて、守富在村々御百姓悉く餓死仕候に付、取立必至度差支御断申立候。且村々夏
   受之内も取立、守富在急飢之者取救候様に被仰付候。何方も同前之儀にて、餓死仕候者多御座候、負方之者共之
   内餓死仕候者多、村々内証入組にも相成申候。旁以取立必至度差支、重畳御断申立候処、被為以御慈悲、去寅暮
   より、五ケ年賦上納被仰付、難有奉存候。然所去年夏の洪水村々田方水荒、其上虫入にて、御百姓困窮仕、取立
   必至度差支、去冬以来、御断之書付差上申候処、難被為叶段被仰付、去暮分之上納差支申候ては、御代官当中御
   算用支に相成候段被仰付、奉得其意候。
   右申立候通之儀にて、村々至極困窮仕、取立必至度差支申候。重畳御断申立候儀、恐多奉存候得共、何程に仕候
   ても、只今取立仕候儀極々差支申候間、御慈悲之上、当夏麦作出来迄、被延下候様奉願候。以上
      享保廿年三月                        廻江式右衛門
              平  野  甚  助 殿
              平井丹右衛門 殿

2、1739年のききん       (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
    下益城郡砥用手永三拾五ケ村御百姓共之内、去夏之洪水に田畑損毛に付て、当時取続及難渋候もの共男女都合
   弐千弐百七拾八人此間、近野山に葛根を堀、致渡世候得共、最早堀尽候に付、同手永所々浦野に小屋懸仕、又は
   日帰りに罷越、葛根を堀、麦作出来迄取続申度由願出候段、御惣庄屋書付被相達候に付、御家老中え相伺候処、
   願之通埒明候間、可有其御沙汰候。以上。
      元文五年二月廿ニ日                     郡方
     
    

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■死者(?)生き返る

2017-05-22 07:00:30 | 歴史

 熊本藩年表稿の天明二年九月の項に「合志郡久米村での死者、葬儀の折よみがえる、以後葬儀は時刻を考えること(藩法899)」とある。
誠に不思議な話でずっと頭に残っていたが、最近その詳細を知ることができた。
天明三年の飢饉についていろいろ調べている中で、「熊本藩町政史料」のなかにこれに関する記述があった。ただしこの事件は飢饉とは無縁の話である。

       病死の者、二日二夜之内ニハよみかえり候もの稀ニ有之事ニ候、既ニ此度、合志郡久米村之者、五十
       四歳之男、大病相煩候処、先月晦日之暁致病死、翌朔日之夜葬候節ニ至りよみかえり、追々服薬等ニ
       て弥養生ニ相成候、然処下方之風俗ニて病死之者早速不取置候ヘハ、其家ハ不及申、脇々よりも不埒
       之様ニ相唱候処よりしきりに差急候儀、甚心得違之事ニ候条、以来取置不差急、時刻を考葬候様可被
       示置旨候、此段懸り々々へ可有通達候、以上
           九月廿六日      町方根取中

近代でもこんな話を聞くこともあるが、古今稀なる話ではある。まずは一件落着。

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■人別銭

2017-05-21 08:10:04 | 史料

  昨日の史談会においては、会員・大矢野氏のお宅にある「宜紀公・一番の甲冑」についてや、「御救米」その他天明三年の飢饉時に関する新出の史料の説明を受け、会員の皆さんと共に読み下しを行った。これは史料の内の一枚、「人別銭」についての貴重な史料である。

                   
                       支配之浪人
            一家内男女三人     大矢野杢大夫
                但壱人前十五銅宛鳥目四十五銅

            一家来男女十貮人
                但壱人前三十銅宛鳥目三百六十銅

            右都合鳥目四百五銅人別銭上納
            仕候事
               但毎歳十一月
                櫨方
                 御会所

 鳥目一銅(文)は、「一両=四分=四貫文=四千文」から一両を8万円と仮定すると1/4,000の20円である。
杢太夫の家族三人については一人「15文=300円」、家来十一人については一人「30文=600円」を毎年11月に上納せよとの事である。
これがいつから始まり、いつまで続いたのか判らないが、この資料が一連の飢饉に関する文書の一部であることから、飢饉の時期に限定していたものと考えたい。如何だろうか。        

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■沢村家甲立物

2017-05-21 08:01:33 | 史料

         

 これは沢村大学吉重の弟・九兵衛の嫡子家の5代・八郎助(権兵衛 明和八年家督 鉄炮頭 文化四年二月致仕)の甲立物や幕その他の紋図である。

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■Dr・T先生の遺稿整理

2017-05-20 21:53:48 | 徒然

 今日は史談会の例会、例会終了後Dr・T先生の遺品(稿)の整理にN君とO氏邸に向かう。
膨大な原稿・写真・ネガ等は段ボール30箱ほどあり、一時期貸倉庫に納められていた。これをN君がご遺族の了解を得て頂戴し自宅に運び込んだが、寝る場所もないありさまとなり保管が問題となった。
その後、史談会会員O氏のご厚意により氏のマンションに一時期仮置きさせていただいているが、整理されていないままの段ボールの山である。
二人して内容を確認しながら、内容ごとに詰め替え作業を行った。約4時間の作業であったが、平成肥後国誌の原稿その他が15・6箱ほど、写真やネガが10箱ほどにまとめたが、Dr・T先生の旺盛な知識欲の結晶を目の当たりにして、ただただ感嘆するのみであった。
大学の同窓会誌に連載された一連の文章については、私も随分資料の提供でお手伝いをしたが、その手紙のやり取りなども残されており懐かしさも一入であった。
75爺はいささか疲れ果て、O君と共にかって先生とも訪れたことがあるコーヒー店に足を運んで休憩した後帰路に就いた。
Drが医院を営まれていた草場町の跡には現在高層マンションが建てられている。
6月12日は先生の三回忌、O君からお墓参りに行きましょうと誘いを受けている。

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■メモ・熊本の飢饉に関する記録・5

2017-05-20 18:56:12 | 熊本地震

 熊本県史料集成・10「肥後藩の農民生活」の「第四節・ききんどし」には以下のことが記されている。
     1、1732年のききん       (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
     2、1739年のききん       (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
     3、1755年のききん       (細川越中守重賢公傳から)
     4、1769年のききん                  (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)
     5、1783年のききん       (西遊雑記から)
     6、ききんの慢性化       (出仲間村庄屋年々覚帳‥熊本女子大学蔵から)
     7、夥しい物貰い        (記録書抜‥熊本女子大学蔵から) 
     8、すべて物貰いに       (仁助咄から)
     9、物貰い札          (記録書抜‥熊本女子大学蔵から)

 次回から随時ご紹介する。

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■メモ・熊本の飢饉に関する記録・4

2017-05-19 07:00:11 | 史料

 細川家が入国後の熊本においては寛永十三年から飢饉が起こったとしているが、「熊本藩年表稿」などをみてもそれらしい記載はみうけられない。最近購入した中島陽一郎著「飢饉日本史」(昭和61年・雄山閣発行)に具体的な著述を見つけた。

 「寛永飢民録」から

                     津奈木村(現芦北郡津奈木町)
惣高弐千三拾九石七斗八升四合七勺九才御百姓数男女九百九拾弐人、人畜御帳面當時うゑ百姓改分

作高八石六斗七升 自身年四十七
         女房
一家内六人内   むすこ年八ツ
         むすめ同四ツ
         おふじ同七十三
         うば 同七十二
         七郎右衛門
 此の者當根付之儀は、麦くさり罷成申間敷通申候へども、御国中なみ之儀に候間、何とぞ精を出し仕付候
様にと堅被仰付候に付、根付は五月中に仕舞申候へば、右之案内之内用に立申もの無御座、壱人にてほりね
すみれほり申事も、もはやせいつき不罷成、うゑ死に及申に付書上申候事

作高八石     自身年三十
         女房
一家五人内    むすめ年八ツ
         むすめ同五ツ
         おじ 同六十九
         忠右衛門
 此もの當根付之儀、麦くさり罷成申間敷通申候へ共、御国中なみ之儀に候間、何とぞ精を出し仕付候様に
と堅被仰付候により、根付は五月中に仕舞申候へ共、右之案内之内用に立申もの無御座壱人にてほりねすみ
れほり申事も、もはや精つき不罷成、うゑ死に及申に付書上申候事

         (中略)

屋敷高四升    自身年五十    
         女房
一家四人内    むすこ年十三
         同  同七ツ
       水夫 村
         久次郎
 此のも之儀當年はいわしさかなもとれ不申候得ば、すみれわらびほり申候得共、連年仕付不申候故當時
うゑ申て體に罷成候間書上申候事

御百姓数合五拾八人(ママ、著者注、五拾八軒か)
  此男女弐百六拾三人
 寛永十三年六月二十九日
                小庄屋 早兵衛
                同   源右衛門 
                同   勝兵衛
                同   兵右衛門
                同   弥左衛門
 御惣庄屋  藤左衛門殿(花押)

宇野七右衛門 殿
大竹与三左衛門殿

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■松寿庵先生・第237講

2017-05-18 10:24:50 | 史料
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■高麗門護札ノ事

2017-05-17 18:22:14 | 史料

現在ヤフオクに出品されている高麗門の解体に関わる文書である。残念ながら解体された期日は記されていないが、細川護久によって「熊本城廃隳願」が提出されたのが明治三年九月九日であり、その許可を得て直ちに解体が始められたのであろうか?。
富田紘一先生の御著「古写真に探る 熊本城と城下町」をみると、まだ「高麗門」や「新三丁目御門」などが写された写真が紹介されている。
撮影された日時が判らないとされるが、写真中央にジェーンズ邸が見えることからジェーンズが熊本に赴任した明治4年8月以降撮影されたと推定されておられる。
とすると明治四年八月以降に解体が始まったということになる。護久の願いがいつ許可になったのか、ご存知の方はご教示給わりたい。
又、この文書が何方によって書かれたかも分からない。ただ無残にも壊されてゆく姿を目の前にして慨嘆している様が伺える。

        高麗門護札ノ事  矢倉・櫓門 矢間アリ 門ノ下往来也
      此門ハ熊本城ヲ距ル凢七丁餘申酉ノ方位ニ
      残タル當城外郭門ノ一個ニテ高麗門ノ称アルハ
      ■時文禄年間我カ兵朝鮮ヲ伐テ勝利凱
      陣ノ際加藤清正ノ持帰リタル護札ヲ打有シ
      然シテ明治維新大變変革ニ臨ミ同三庚午年
      旧藩主細川候藩知事在職中城郭廃隳
      儀ヲ當時ノ辨官迠請願シ玉ヒ聞届ニ十月シテ
      以テ先ツ高麗門如シノ外郭ヨリ解崩ニ成リ
      タル折̪シニ余其場へ通リ懸リシニ従来詰門
      (南向)西ノ柱ニ打付有シ大牘ハ彼国佛
      師ノ護札ニモ有ルベク竪二尺餘幅二寸斗リノ
      板ナル故木ハ年ヲ経成シ墨書ノ梵字ノミ
      高ク字体残リタルヲ従前頻々通行ノ節
      視過キテ全文ヲ細見セシヿ無カリシカバ何
      タルヲ不知尤無用ノ贅物タルべケレ共三百年
      外ノ古物ナル故不朽ニ保存成シ置度解
      方関係ノ者へ照會セルモ札ノ有無サヘ  
      気付ザリシニ付紛失シテ尋ルニ道ナク尚古ノ 
      癖有ル予ニ於テ遺憾斯ナカラズ依テ該 
      門九ノ概略ヲ記シ併セテ清正公ノ偉功ヲ 
      構成ニ傳フ
                  此櫓ノ下往来
      ■今高麗門門町ト云有リ 石垣高
                  雨露ニ晒ス故石・・・

                                                        



            この護札無くなってしまったのだろうか?



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■家老職三度

2017-05-16 18:48:24 | 歴史

           

 文久二年家老職を退いた人といえば長岡(米田)是豪である。しかしながら三ヶ月後には復帰している。
二度目の家老職を勤めた時期に(慶応二年七月)第二次長州征討の勅許に基ずく小倉戦争勃発。
藩は戦争回避を図り反対、是豪は派遣を拒否するが入れられず二番手を勤めた。そんな中最も果敢に戦ったのが是豪勢であったと言われる。
署名の名前が初見でありよくわからない。ご存知の方はご教示給わりたい。


   10代・是豪(左馬助・監物・与七郎・波門)
        
安政六年十月遺跡相続、家老職、大組頭 

             安政六年十月~文久ニ閏八月 家老
             文久二年十一月~慶応三年三月 家老
             明治元年二月~明治元年七月 家老

        明治二年九月本姓米田に復、波門のち与七郎と改名
        十一番士隊長 明治五年九月隠居

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■お安く読む・潮新書「読めれば楽しい! 古文書入門 利休・歌麿・芭蕉の〝くずし字〟を読む 」

2017-05-16 09:20:59 | 熊本地震
  読めれば楽しい! 古文書入門 利休・歌麿・芭蕉の〝くずし字〟を読む (潮新書)
 
                潮出版社

 

商品の説明

内容紹介

東京富士美術館の作品協力により、、古代から近世までの様々な美術品に添えられているくずし字を味わう。

内容(「BOOK」データベースより)

本邦初の「古文書解読検定」に役立つ一冊!喜多川歌麿の浮世絵や利休、芭蕉、藤原定家、伊達政宗等の直筆が満載。超貴重な一級品を楽しみながら、くずし字の謎に迫る!

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■メモ・熊本の飢饉に関する記録・3

2017-05-15 06:07:22 | 熊本地震

 古川古松軒が熊本を訪れたのは天明三年のことである。その旅路の詳細は紀行文「西遊雑記」に著され知られる。
薩摩から水俣に入り北上、熊本の城下に入り、阿蘇へ向かっている。
その阿蘇で見た光景に対し「仁政はない」として、「かく記し置は高貴(細川重賢・堀平太左衛門など)を誹謗恐レ有りといへとも実事を聞て記せさるもまた諭ふに似たれは僅にしるすならし」と飢餓の状況に言及している。
「宝暦の改革」を成し遂げ名君とうたわれた重賢公だが、晩節を汚す痛恨事であった。

     阿蘇一郡にて今二万八千石の地といへとも東西凡十里余廣大なりといへとも山はかりにて原野も数多ニて
     笹倉なとゝいふ原はむかしの武さしのの原と称せしはかゝる原ならんと思ふはかりの廣/\とせし所也
     土人の物語には開田せは阿蘇郡にて十余万
石も出来すへき平地有る所なから人のなき故に古田も年/\に
     あれ果るといひき 近年うち続き
凶年にて餓死せしもの数多有りしといふ いかにも實事と見へ住捨し明家
     も爰かしこに有りし也 
他国の評はんには當国の守は賢君にて経済役堀平太左衛門といへる良臣のやふに聞
     侍りしに阿蘇郡
のもやう民家数人飢餓し死におよふまても救ひ給はざりしにいかゞの事にや虚説もあらん
     かと
委しく尋聞しに熊本へ出て乞食せんとて老たるもおさなきもうちつれ出しミち/\にても■路に倒れふ
     して死せしものも有りしに違ひなき実事也 予
茂爰におゐて疑惑しに仁政はなかりしものと思ひき卑賤の
     身をしてかく記し置は高貴を
誹謗恐レ有りといへとも実事を聞て記せさるもまた諭ふに似たれは僅にしる
     すならし 此辺は幾里行
ても華咲草木もなく土色は黒く水のなかれも濁水にて清からす谷/\におゐて菖蒲
     の花を見し
はかりにて日本のうちにもかゝる下々風土も有るものかなと驚し所なりし

    西遊雑記・該当部分 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0325/bunko08_c0325_0002/bunko08_c0325_0002_p0023.jpg

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■メモ・熊本の飢饉に関する記録・2

2017-05-14 16:22:30 | 史料

 古文書の常で年記がないが天保九年のものではないかとされる飢饉対策の達しである。(岡崎鴻吉著「熊本御城下の町人」から)

       近年不作相続き別して昨年来は凶作に付、当春作の規模次第には市在共に如何これあるべきや
       甚だ御気遣ひ遊され候。勿論精々手を詰め何れも咄合候儀をは思召上られ候へども、天災は計 
       り難く候間自然春作抔に腰を懸け居候ては相済み難く、役人申は先ず当年の処も不作と見放し
       其の覚悟にて金銭の貯よりも米穀の貯手厚くこれあり候様重畳申談し、仮令当年春明共に不作 
       たりとし市在難渋これなき様丈夫の御備これあり度思召上られ候右は大しらべの儀にはこれあ
       るべく候へども成るべきだけ至急に申談じ大略の見込にても聞召上けさせられ御発駕遊された 
       きとの儀御沙汰遊され候事
          二月
            右御意の趣松野匡殿聞取書写の由二月十八日町会所にて吉田鷹之允山代藤市より申され候事救
       飢御手当の儀は御仁政の先務に付御改正初、御年貢米の内を分け年々籾囲仰付られ村々よりも
       銘々奉り彌以て御備手厚く相成り候様専ら誘掖これあり候に付、一統其風旨を受け豪富の者は 
       寸志銭調達いたし、小前にても作徳米差出候に付村備等も追々手厚く相成り、其外文化以来は  
       四窮民御救恤の仕法も相立ち居り、子ノ年以来は不作、去秋の凶荒に到り候ても御救筋兎哉角
       取行はれ候事に付、然候処五ケ所町(熊本高瀬高橋川尻八代)の儀是迄右躰の備手薄、凶年に
       至り御蔵米願下げ御救売の仕法を仰ぎ追々取続け来候事にて、去年以来も右同様数月の間今以
       御救売仰付置かれ候通にて、第一は御蔵米の繰合せ差障り御難渋に相成候事に付、以往の儀は
       其儘閣き難く、此末万一自他打続の凶作にも至り候はゞ御手に及び兼なさるべく候に付、此段
       御別段御沙汰の趣別紙書取を以て相渡し候通にて、御深慮の程恐れ乍ら兎角申上げ難く誠に以
       て有り難き儀共に候。然し乍ら拙者共に於ては此節迄心得薄く等閑に押移り、先は天幸に因循
       いたし居り、重畳恐れ入り奉り候次第に付、因て精々申談候処御勝手繰甚以て御六ケ敷き折柄   
       別して去秋以来一統の凶作、就中東目(あがしめ)在皆無、日前莫大の御所務欠に相成り、彌
       以て御繰合せ必至差支へられ候砌に候へども、御救恤の御手当は屹と御仕法相立恐れ乍ら尊慮  
       を安んじ奉り候様に取計らはづては相済み難く、此度出格の御僉議を以て五ケ所町へ五百貫目   
       御救恤備として御出方仰付られ候間、取柄相当割合を以て配分あり候。併し聊かの儀にて限り
       ある員数に候へば下地の備へに取加へ、外に市中戸口に応じ産出仕法筋相立、備高年々相増候
       様これなく候ては永続致し難く候に付其取計らひ専用の事に候。日此節格別の御仁恵篤と感激
       し奉り村備等の事に向き合候様これあり度其外此国恩をも報ひ奉り度存年の者は銘々准分の寸
       志をも差し出し申すべく何れの道にも御備手厚相成り前条御仁意を拡充し奉り候様分職の各己 
       以其役筋々よりも精々示し方これあるべき事。

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■大正5・6年刊 肥後国誌 上下2冊 熊本 地誌

2017-05-14 15:18:35 | オークション

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                 大正5・6年刊 肥後国誌 上下2冊 熊本 地誌

 

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