細川藩士・神足氏の差物附による家紋。本家をおもんばかってか若干アレンジされている。
細川家の根本家臣の一人である神足家の分家筋・神足勘十郎家の6代目で200石、天保五年五月~天保六年二月にかけて玉名郡郡代(山本山鹿郡助勤、兼)を勤めた。
遠祖掃部は、天正元年信長の坂本攻めに際し「此時藤公君御身上之事何れも気遺、青竜寺の御城
騒申二付、(中略)二の丸の事無覚束と申候処、神足掃部罷出、私に被仰付候様ニ
と申、早速地下人共呼集二の丸堅め候 (中略) 掃部忠節御感被成候」
(綿孝輯録・巻二)
神足氏は天武天皇の皇子長親王の後裔という。すなわち、長親王の子栗栖王の子光丸が神足を名乗ったことに始まるという。その真偽は不詳というしかないが、建武四年(1337)に神足信朝(信友)が足利直義の警固役として登場する。そして、十四世紀末には小塩庄の下司職は神足氏が世襲するとことなっていた。かくして神足を本拠として勢力を拡大した神足氏は、室町時代には幕府の御家人に取りたてらていた。その後、神足氏は細川氏の被官となり、応仁の乱には孫左衛門尉友善が活躍した。
乱後、西岡被官衆はそれぞれの立場を越えて地域としての連帯を強めていった。そして、長享元年(1487)の書状から、孫左衛門尉友善は鶏冠井・小野・竹田・物集女・平氏らとともに西岡被官衆の指導者的立場にあったことがうかがわれる。戦国期になると神足氏は神足城を本拠に、小塩荘をはじめ高畠・大岡荘、勝龍寺領、西岡新馬場跡などに支配を及ぼしていた。
十六世紀、細川管領家の内訌に神足氏も翻弄され、神足城を攻撃されることもあった。しかし、よく勢力を維持して乱世を生き抜いた。永禄十一年(1568)、織田信長が上洛し細川藤孝が勝龍寺城に入部してくると、神足氏は細川氏に従った。元亀四年1573)の勝龍寺騒動のとき、神足掃部は二の丸の守備に任じた。天正八年(1580)、丹後に転封となった藤孝から同道を求められた掃部は、子供たちを出仕させみずからは西岡の地にとどまった。